君と出会った夕暮れの朱
かたん、かたたん、とリズミカルに揺れる音。
大きくカーブした事で陽が差し込む向きが変わり、窓から直接入り込んでくる夕日のオレンジ色に目を細める。世界を染め上げる光の色に東海道はずっと窓の外へと向けていた視線をゆっくりと車内へと戻し、広がる光景にうっすらと笑みを零した。
結局帰りのレールパーク号には様々な要因が複雑に絡まった結果乗り遅れ、特急の時間にも間があることから各駅停車の普通列車で帰る事となった。それなりに賑わっていたレールパークもほとんどがイベント列車の客だったようで、中部天竜から乗りこんだ乗客は自分たちだけだった。それ以降もぽつぽつと乗降客はあったが、往路の賑やかさが嘘のように穏やかな空気が夕暮れの光と共に車内を満たしていた。
この車両以外も人影もまばらで、空いた車内で思い思いの席に座った同僚たちもその殆どが眠りの世界に旅立っているようだった。疲れているだろう彼らを起こすには忍びなく、それでも窓の外に再び視線を向けるには少々眩し過ぎて。ほんの僅かな戸惑いと共に車内をぐるりと見渡せば、運転室のドア付近でぴんと背筋を伸ばしたまま先を見据えている飯田の姿に気づいた。
オレンジ色の背中は、見慣れた弟のそれに似ているようでいて異なる。いっそ禁欲的なまでに伸びた背筋と揺らがない背中は、東海道の覚えている夕暮れの記憶とは一致するようでいてやはりずれている。それはきっと年月を経た事による良い方向への変化で、彼の中の痛みが消えはせずとも薄らいだ事の証左のように思えた。
その名を呼ぼうとして、傍らの同僚たちを起こしてしまわないかと音にする事を躊躇う。移動しようにも東海道の膝の上には長野の頭があって、動くことすら叶わない。どうしようか、と逡巡する東海道の様子に気づいたのだろうか、それまで前だけを見つめていた飯田がふいに振り返り、僅かにその双眸を緩ませる。
「如何いたしました、東海道上官」
「ああ、その……いや」
何をどうしたいか、という明確な欲求があったわけではない。ただ、このオレンジ色に染まる車内、この機会を逃せばあの夕暮れの記憶を話す機会は巡って来ないような焦りを覚えただけだ。
言葉を選びかねている上官の様子に気づいたのか、飯田はそっと東海道の傍らの通路に膝をつく。
「飯田?」
「上官、――俺はずっと、貴方を羨んでいたんです」
普段はあまり変わらない表情を穏やかな笑顔で彩って、オレンジ色の制服を身に纏った部下は秘密を囁くように己の上官に向けて言葉を紡いだ。ぱちり、と目を見開いた東海道は慌てたように周囲をきょろきょろと見渡して、この車内で起きているのが自分と飯田だけである事を確かめるとほっとしたように溜息をひとつ。
「羨む?私を?……上官という地位をか?それとも東海道という名を、か?」
かつて国鉄の名を冠したあらゆる鉄道路線の頂点にあるもの、それが新幹線。民営化によって分割されたとはいえ、その名が持つ意味はあまりに大きく、そして重い。同様に、この国の大動脈として華やかな歴史を刻んだ東海道の名が持つ重さも他とは比べ物にならない。それらを求めるのか、と言外に問うた東海道の言葉に、けれども飯田はふるりとひとつ頭を振って否定を示す。
「いいえ、上官。私が貴方を眩しく思ったのはただひとつ」
今思えば、全ての理由はそこにこそ帰結する。あの夕暮れの最中、向けた刃の意味はまさしくその羨望に等しかった。
その背が漆黒であろうとも濃緑色であろうとも、彼が彼である限り変わらない。ただ前を見据えるその眼差し、僅かに青を含んだ双眸の中に眠る炎、その熱をこそ渇望したのだと今なら飯田は理解できる。
「貴方は先へと進もうとした。己が己で無くなる絶望の中でも、走る事を諦めなかった。その心をこそ、心底羨んでおりました」
飯田、という名前が指し示すものを、飯田は今日の今日まで理解出来なかった。
それまで確かにあったものたち、それを塗り潰すようにして生まれた『己』というものを、飯田と定められた路線は確かな意識として構築する事に失敗したのだ。故に『飯田線』の名を得るより前の記憶は飯田には無いし、必要ともしていなかった。その名を与えられて目覚めた日、此処がおまえの居場所だと告げられた路線も部屋も何もかも、飯田でない誰かの気配が色濃くて、戸惑いと不快を覚えずにはいられなかった。
知っている筈の場所。馴染んでいる筈の物品。
それらはけれど飯田を構成した誰かたちのものであって、飯田のものではない。飯田、という名前を持つ意識の持ち物など、何一つ無いのではないかと思わずにはいられなかった。
そして、それはこの拠り所であるはずの『路線』であっても同じことだ。……そう、長いこと思い続けてきた。
だからこそ、この上官が飯田には眩しく、羨ましく、何よりも慕わしく感じられたのだろう。
「……私は、おまえが思うほど立派ではないぞ」
真っ直ぐな視線にこそばゆさを覚えたのか、東海道が僅かに頬を染めて視線を逸らす。ぼそぼそと上官としての威厳が、だの弱みは部下には見せられんと思うから、だのと言い訳のような単語が零れ落ちるが、飯田はそれに構わず真っ直ぐに目の前の上官の顔を見上げて静かに告げる。
「いいえ、東海道上官。貴方は俺の、俺が自ら上官であって欲しいと願う唯一の上官です。貴方の強さだけではない、貴方の弱さも、貴方が貴方であるからこそ、俺たちは誇りに思います」
彼が強いから彼に従うのではない、彼が脆く弱いながらに強くなろうとする上官だからこそ、自分たちは彼に従う事を誇りに思う。定められたから従うのではなく、自分たちは自分たちの意思で彼を慕う。それはきっと『飯田線』がようやく自分の意思で定めた最初の決断だったからこそ、余計に特別に。
その赤面ものの言葉に、東海道はひたすら驚く以外に何も出来ず、見開いた瞼を閉じる事も忘れてじっと目の前の部下を見据える。自分は彼らに疎まれていたのでは無かったのか、とこれまでの何処か距離を置かれていた部下との記憶を掘り起こして混乱を鎮静化しようと試みるものの、動揺した意識が選ぶ脳内の引き出しはでたらめで、余計に混乱を招いてしまっている。
何か言わなくては、何か、と常に無いほど動揺した東海道は、ふと目の前の部下に違和感を覚える。常にあった筈のものが足りない、そんな無意識の主張に促されるように彼の姿をまじまじと見つめ、そしてようやくその答えに辿り着いた。
「飯田……今日は、あれは持っていないのだな」
「ああ、置いてきました。――たぶん、もう『俺』には必要のないものです」
常に手にしていた鋼は、今日は宿舎に置いてきた。他人が邪推するような曰くなどあるわけがない、あれはただの鋼、常に縋るように傍らに求めたのは単なる飯田の弱さに他ならない。
あれは飯田という意識を構成していた過去の誰かの持ち物で、飯田はそれがどういった意味を持つのかすら知らない。曰くも銘も価値も分からぬまま、けれど脅迫的な何かを感じて携帯していたひと振りだった。
そして、繋がる記憶は夕暮れの朱。
「……突然あんなものを突き付けられたから、内心相当に驚いたぞ」
「そうでしたか?俺には貴方は状況の割に平然としているように見えたので、余計に嫉妬紛いの感情を持ちましたが」
東海道新幹線が開通し、それまであった特急官の更に上に上官職を設ける、という通達を飯田は無感動に聞き流していた。誰が上司であろうと大差は無い、どうせ飯田に興味を持つような奇特な上司はそう滅多には居ない。
けれど飯田が夕暮れ時、朱色に染まった世界で出会ったのは、あの日の漆黒の背中の持ち主だったから。
「あの特急は廃止されたのだと聞いていましたから、顔を合わせた時は少なからず驚きました」
「だろうな、実際辞令を聞いて私が一番驚いた。……それでも、私はまだ走れるのなら走りたいと願い、この名を得た」
「ええ。そしてあの時の私は、あの絶望からそれでも走る事を選択した貴方を羨ましいと、妬ましいと感じてしまった。あれはそれ故の愚行でした」
目の前には濃緑色の制服に身を包んだ、あの日の特急が立っている。もう無くなった筈のもの、それが更なる可能性を求めて走ろうとしている。
飯田は飯田であることすらあやふやだというのに、彼は名前を変えてまで走り続けることを選んだというのか。此処にある理由すらわからないのに、日々走る事の意味すらわからないというのに、彼はそんなものさえ乗り越えていったというのだろうか。
気付けば、目の前の上官に手にした鋼の切っ先を突き付けている自分が立っていた。
そして長い長い沈黙の後、手を離れた刃がコンクリートの上を転がる乾いた音が響き、冷たい指先が宥めるように飯田の肩に触れた感触を覚えている。
「それでもあなたはあれごと俺を許容した。……どうしてですか?」
「驚きはしたが、おまえにとって必要だったのならそれでいいと思ったんだ。実際おまえはきちんと仕事をしてきただろう」
東海道上官はその権限で飯田の帯刀を許可し、飯田もまた遠いホームから上官の姿を仰ぐ日々を繰り返してきた。
其処にあったのは温度の無い、けれども深い信頼。それに応えるために出来る事はただ走ること、そうして年月を重ねるうちに、飯田、という意識を構成するもの、かつてあった誰かについて考える時間は少なくなってゆく。何故ならこの路線を走るのは自分を於いて他に無く、それはすなわち飯田という名前の意味をも示す。かつての古い名前、4つもあったそれらはもう記録の中にあるべきもので、それに記憶を伴う必要は無いのだと、徐々に噛み締める。
そうして民営化を経て、自分の沿線に車両展示施設を作るのだと決まった時、集められた資料の中にあったかつての彼らの名前を冷静に見る事が出来る自分に気づいた。
もう、自分の名前を惑う事はないだろうことにも。
「俺は貴方の部下で良かったと思います。貴方にとっては不出来な部下ではありましょうが」
苦笑交じりに視線を伏せる飯田に、東海道は膝を枕に寝ている長野を起こさないようにそっと手を伸ばし、その頭をぽかりと軽く殴りつける。驚いたように顔を上げて此方を見つめる部下の姿に、ふん、とわざと不遜な笑みを浮かべて一言。
「馬鹿を言え、おまえたちは皆大切な可愛い私の部下だ。私のようなやりにくい上司についてきてくれるような連中だぞ、これからも部下でいて貰わんと困るに決まっている」
東北や山陽のように数が多いでもない東海道の部下たちは、それだけに思い入れも強く、身内のようなものだと勝手に思っている。誰ひとりとして切り離すような事は考えられないし、またしたいとも思わない。何度となく効率化の元に縮小を提案する上層部と文字通り孤軍奮闘してきたというのに、当の部下がこれでは報われないにも程があるではないか。
返事は?と促した東海道の非常に偉そうな問いかけに、見た事もないような歓喜の表情と涙を浮かべて。
「Yes,上官……!!」
飯田の名を持つ在来線は、万感の思いを込めて敬礼を返したのだった。
君と出会った夕暮れの朱。
そして、君と語った夕暮れも朱の只中に。
かたん、かたたん、と変わらぬ音を立てて列車は進む。やがて辿り着く終着駅は、いつかの記憶の終着点でもあるのだろう。
沈む夕日と共に藍を含み始めた空の色を認めて、東海道は再び車窓の外へと視線を向けた。
END
2009.05.26.(2009.07.02. memoより再録)
ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。