君と出会った夕暮れの朱


 突き付けられた鋭いぬめるような光を帯びた切っ先と、相反するような鈍い光を宿した眼。
 ほんの少しでも手元を誤れば無事では済まない、そんな状況の中、それでも自分は怖いとは思わなかった。
 例え彼が認めずとも、誰が笑おうとも、それでも目の前の存在を含む彼らの全てを己が庇護するべきものなのだと。そう定められた事に覚えた感情が歓喜であったなら、それはきっと受け入れるべき痛みだったろうから。
 その背に負った夕陽の朱が鮮やかに過ぎて、その表情まで見て取る事は出来ない。
 けれども微かに震える切っ先が彼の迷いなのだと告げるから、それならばその迷いごと自分は彼を受け入れよう。過去に惑うのは誰しもが負うべきものなのだと、今以て迷い続ける自分こそがそれを受け入れよう。
「……――」
 からからに乾いた喉で告げたその名前を綴る音を、様々が色褪せるほど時を経てもなお覚えている。



 つい昨日までしとしとと降り続いていた雨も上がり、行楽にはもってこいの空が広がる早朝。
 常には濃緑色の制服を纏って歩く己の管轄駅のホームを、東海道は着慣れない私服で辿る。VネックのTシャツにスウェットのパーカー、ロールアップジーンズ。これほどカジュアルな服装は、制服やスーツ以外普段着る事が少ない東海道のワードローブには珍しい類だが、それもそのはずこれは半分以上が弟の持ち物だ。佐久間に行く事になった、と何かのついでに弟に告げたら、次の日には今着ている一揃いが紙袋に入って東海道の手に押し付けられていた。
 どうせ兄貴の事だからまた制服の上着脱いだだけ、みたいな格好で行くに決まってる、と思い切り図星を突かれたのは非常に腹立たしいが、流石身内だ、東海道の思考パターンを良く理解している。むっとした表情の裏に潜む心配や気遣いも弟が察するのと同じくらい此方も察してしまうから、もう兄としては黙って受け取る以外に何が出来ようか。
 そんな経緯で慣れない、けれど常よりは着心地の良い服を身に纏った東海道は、履きなれた革靴ではない新品のスニーカーの靴底が伝える感触に新鮮な驚きを覚える。此処にあるものを確かめるように吸い込む空気は、澄んで少し冷たい。
 日がもう少し高くなれば次第に温むだろうそれも、今はまだ夜の気配を僅かに漂わせている。昨夜の雨の名残を伝えるように、濡れたタイルと靴底が擦れて立てる小さな軋む音すら、東海道には見知らぬものだった。
 始発間近のホームは未だに人気は薄く、待ち合わせた連中の中でもどうやら自分が一番乗りのようだ。確かに予定の列車の発車時刻まではまだ時間があり、本来ならわざわざホームに上がる理由もない。
 けれど、東海道はこの時間のホームの空気が好きだった。一日が始まる清冽な気配を漂わせた、日中は喧騒に包まれるのが常なのに未だに静かなホームは、改めるような重ねるような、確かにある日々の営みを感じさせてくれたから。
「お、やっぱ早えーなおまえさんは」
 業務中には滅多に浮かべることのない無い笑みを唇の端に浮かべ、先へと繋がるレールを見つめていた東海道の背後から声がかけられる。もはや耳に馴染んだその声の主は振り返らずとも直ぐに分かった。
「山陽」
「おはよーさん、東海道」
 おはよう、と返事を返して振り返った先にあるのは、見慣れた男の見慣れない私服姿だ。自分が滅多に着ないのだから他人の物を見る、などという事は更に少ない。これだけ付き合いが長くてもやはり毎回脳のどこかが驚きを訴える私服姿の山陽に、東海道はこっそりと微苦笑を浮かべる。
 けれども目敏い山陽のこと、東海道の微妙な表情の変化を見逃す事無く、首を傾げながらシャツの端を摘んで見せた。
「ナニ?山陽さんなんか変?」
「ああ……いや、そうではなくて」
 ふるり、と頭を振った首筋の感触も、慣れないほどに露わで違和感を覚える。おかしいのは山陽ではない、東海道自身の問題だ。
「慣れないな、と思っただけだ。おまえとの付き合いも相当に長いのにな」
「そりゃどっかの誰かさんが仕事中毒なのが悪いんじゃねーの?今日だって、実は制服で来てんじゃねーかとちょっぴり心配してたのよ、山陽さん」
 行楽に制服ってそりゃねーよなあ、とからからと笑う山陽の言葉は、見事にぐっさりと東海道の心に突き刺さる。それは以前同じような成り行きで山陽の地元に皆で旅行する事になった時に、一人制服で集合場所に現れて皆に散々に笑われた事があるからだ。
「……余計な御世話だ!!」
 言い訳を言わせてもらえれば、あの日は旅程を最後までこなすつもりは最初から無かった。移動途中で抜けて東海の会議に出る予定があったから制服で行ったのであって、TPOを弁えない輩のように言われるのは非常に癪だ。俺だって一日行楽の予定ならば制服で行くような真似はしない、過ぎた事をいつまでも言いやがって、などとぶつぶつ呟きながら下を見始めた東海道の頭に、ぽん、と載せられる大きな掌。
 その温かさを良く知っている。自分の冷たい指先とは違う、決して甘やかすばかりで無い温もりを持った手のひらの感触を知っている。
 つられるように顔を上げた東海道の目の前に、にっかりと笑う山陽の顔。彼もまた巻き込まれた一人であるというのに、そんな様子は微塵も見せない。実際、東日本の面々の良く分からない衝動とノリの良さで東海道のささやかな希望を巻き込んで雪だるま式に大ごとにしてくれた旅行計画を告げられた時も、一応それなりの反論を叩きつけて上越や秋田と舌戦を繰り広げた後に、持ち前のポジティブな思考で決まった事は楽しまなきゃ損じゃん、とあっけらかんと告げてくれた。山陽が自分の味方になってくれると思っていた東海道と相変わらずの言い合いに発展した後に取っ組み合いの大喧嘩になって山形に窘められたのも今となってはまあ、過ぎた過去だ。
「……おまえは良かったのか、山陽」
 あいつらの悪ノリと、俺の我が儘ばかりの旅程。そこには山陽の希望するものは欠片も存在していない事は明らかなのに、彼は最初の抗議以外何も不満を告げようとはしなかった。
 楽しまなければ損だと言った。けれども、そこにあるのが彼の意志を無視したものだというのなら、どうして楽しめるだろう。
 今からでも行きたい所ややりたい事があれば、と言い募りかけた言葉を封じるように、山陽は苦笑を零して東海道の頭に置いたままだった手で相変わらず癖の強い髪を梳いた。
「いーんだよ。――だって、おまえは行きたかったんだろ?」
「山陽?」
 言っている事が分からない、とでも言いたげに瞳を揺らす東海道の双眸を間近で覗き込んで、山陽はふわり、と滅多に見せない笑顔を浮かべる。バカ笑いをするでも苦笑するでもなく、本音を誤魔化すための笑顔でも無い。それでも東海道が何度となく見た、素の山陽が垣間見える透明な表情だ。
「おまえが心から望むなら、それは俺の望みだよ」
 無くなる前に行きたかったんだろ?と囁くように告げる声に、こくり、と頷きを返す。始発前の相変わらず人気の無いホームが、けれどその一瞬で温度を増したような錯覚に、東海道はきりりと奥歯を強く噛み締める。

 確かめたかったのは、あの日の夕暮れの記憶。
 あの向けられた刃の意味など今さら求める無粋はせずとも、今其処にあるだろう彼をこそ確かめたかった。
 あった筈のものを失う彼の痛みは彼にしか分からずとも、それを分かち合えるもので在りたいと願った。良き上司で在るように願い、またそのように振舞ってきたと言い聞かせても、あの夕陽の朱がその是非をいつも問いかける。

 漆黒を纏った特急は既に無く、かの地を走った四人もまた既に無いとしても。
 時を幾重にも重ね、東海道新幹線と飯田線は確かにまだ此処に存在しているのだから。

 朝靄の中に続くレールの先、西へと延びるその先は東海道と山陽の領域だ。
 これまで毎日のように辿り、またこれからも走り続ける定められたレール。この上を走ることこそが至上、それ以外の全てを投げ捨てても構わないと思い、そうやって走り続けてきたというのに。年月が重ねた様々はそこかしこと繋がって、もう東海道ひとりの痛みで済ませられるようなものはとても少なくなってしまったのだと自覚する。
 だからこそ今こうして山陽が告げる言葉に泣きたいほどの感情がうねりを帯びて湧き上がるのを必死で堪えて、東海道は自分には少し大きな弟のパーカーの裾をぎゅっと握りしめた。
 始発の時間は刻々と迫ってくる。それは他の面々と待ち合わせた時間も近づいてくる、ということだ。
 他の連中に無様な表情を晒す事になったら山陽の所為だ、と八当たりめいた事を考えながら、東海道は少しその色を変え始めた朝の空気を大きく吸い込んだ。




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2009.05.23.(2009.07.02. memoより再録)

ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。