君と出会った夕暮れの朱
貴方と出会った日を、今も変わらずに覚えている。
それはまるで血のように鮮やかに過ぎる夕暮れの朱と、それすら染め抜くことが叶わなかった漆黒の背中。
地平線を輝かせた金色よりもずっと禍々しい釦の鈍い反射光と、まるで硝子玉のようだ、とさえ思えた双眸に燻火のように眠る意志の炎。こくりと飲み込んだ息すら苦しいと思えるような重い空気の中で、それでも『彼』は特別だった。
他の誰もが彼を誰かの影としか見なくても。その名前すら忘れ去られてゆく類のものだとしても。
その背とその双眸に感じたものを、飯田はただ綺麗だと思った。縋るように握りしめた鋼の事を一瞬忘れるくらいには彼の立ち姿を綺麗だと、そう思ったのだ。
だからこそ彼が纏う衣を濃緑に変えて己の上官として目の前に立った時、飯田が覚えたのは僅かな絶望と同じくらいに僅かな歓喜、そして無気力な同意。
今思えば、何処までも勝手極まりない、そして彼に対しての侮辱に塗れた判断だったと悔いしか残らないのだけれど。
あの時は、それだけが真実の欠片だった。
一日が終わろうとしている時刻、見上げた空は深い深い青。闇と称するにはあまりに鮮やかな、けれども深すぎて黒としか称する事が出来ないその色は、あの日の彼に感じたそれとよく似ている。
手を伸ばしても届かない。否、届いてはいけない。
彼の慟哭は彼のものだ、飯田のそれが飯田のものであるのと同様に。ただ彼と飯田が異なったのは、それでも彼は先を見据えただ前へと走ろうとし、飯田は確かにあった筈のものを探して今もなお過去に縋りついている、ただそれだけの話だ。振り切るように瞼を閉じた瞬間に浮かぶ朱色の光景は、もう忘れることすら放棄した原風景に等しくて。
「……おい、飯田?」
何をやっているんだ、と此方を訝しげに、けれど無遠慮に覗き込んでくる男の声に、飯田はすう、と薄く眼を見開いた。
薄墨を溶いたような闇に呑まれようとしている光景のなかでそこだけ鮮やかな色彩がある。それは目の覚めるような白と赤、何処にあっても人目を引くその制服を纏った眼鏡の男が飯田の目の前に立っている。
ああそうだ、自分は彼を良く知っている。
「名古屋」
「ああそうだ、名古屋様だ。それでお前はこんなところでボケっと突っ立って何をしてるんだ」
白地に赤のライン、という一歩間違えれば芸人の衣装のような服装だが間違いなく鉄道路線の制服で、それを纏うのは己の最も近い同業者・名鉄名古屋本線。所属こそ他社であるものの、一部路線を共有している事もあって下手なJRの同僚よりも付き合いは深く長いのも事実だった。優男風の外見に似合わぬ厳しい硝子越しの眼差しに、飯田は一瞥をくれてふい、と踵を返す。
「おい!」
「返答の必要を認めない。俺の個人的な感傷をおまえに語る理由が何処にある」
わざとそっけなく言葉を告げれば、明らかに気分を害した、といった表情で名古屋が立ち止まる。
ああそれでいい、と付き合いは長いが特に仲良くしたいわけではない彼の、気まぐれのように寄越される気遣いの類を何時もどおりに切り捨てる。どうせ名古屋の事だ、直ぐにすっぱりと割り切って通常通りのビジネスライクな関係を思い出すだろう。
何度繰り返しても飯田の態度は変わらないし、名古屋の性懲りもない見当違いの気遣いも変わらない。変わらないと分かっているからこそ、飯田は明確な拒絶の意思表示を突き付けるし、名古屋もまた何度でも繰り返すのかも知れない。
けれども、今夜ひとつだけ違ったのは。
「おまえがそれでいいなら私は何も出来ない。その権利もないからな。……けれど『あのひと』もそうだとは限るまい」
「――名古屋?」
この不毛な会話の中に、他者が介在する事は滅多に無かった。起点駅でのホームが近いからといって、飯田と名古屋ではその立場も何もかもが異なっていたから、この会話も慣れ合いの延長線上でしか無く、互いの共通した同僚の話題ですら滅多に上がる事は無かった。
それなのに、誰、とさえ明確にしない『誰か』の話題を出した名古屋に訝しいものを感じて、飯田は思わずその足を止める。
けれども名古屋はもうその『誰か』については口にする事無く、時間だ、と一言告げて、己の車両と共にホームを去っていく。
呆然と立ち竦む飯田の目の前を、赤い彼の車両が過ぎていった。羨む事すら考えられないほどの長い車両が西へと去ってゆくその様を見送りながら、その『赤』に重なる記憶がフラッシュバックする。
夜空の闇に喰われてゆく太陽。世界の全てを染め上げる朱。
ぽつんと浮かび上がる黒い背中は決して大きくはないし、俯いた姿勢は憐憫すら誘うものだったのに。
同じものだと思っていた。彼もまた何かに裏切られ、絶望したまま走るものだと思っていた。
それは勝手な同属意識で、声をかける事も無く、ただその背を見る事を何度繰り返しただろう。その震える背に手を伸ばしたい衝動と、もっと深くまで墜ちればいいと嗾ける心の声と、そんなものに突き動かされる情熱すら失ったままに、やがてその色を変えた彼への思いは変わったろうか。それとも。
「それでも俺が貴方を敬愛している事だけは確かなんです……我が唯一の上官」
名古屋が去り、東海道が居ないホームは遠いとはいえかの上官の姿を垣間見る事ができる。
減速しているとはいえ十分に速い白と青の綺麗な車両が駆け抜けてゆく様に、飯田は静かに敬礼を送る。
複雑怪奇なものは己の心の内だけだ。かの上官に向かう感情は今も昔も変わらない、ただ唯一のものだと定めたなら尚更に。
ふと緩んだ相好を誰にも見られなかった事に安堵の吐息を零しながら、飯田は慣れた宿舎への道を無言で辿りはじめた。
2009.05.21.(2009.07.02. memoより再録)
ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。