君と出会った夕暮れの朱


 流石に待ち合わせたメンバー全員がJRが誇る高速鉄道というだけの事はある、誰も遅刻しないどころかかっきり5分前には皆が顔を揃えて発着ホームの上に立っていた。
 高速鉄道、という共通点があっても、個々の嗜好はそれぞれだ。秋田と上越は雑誌の男性モデルも裸足で逃げ出すような色気を振りまいて周囲に特殊な空間を構築しているし、それとは対照的な飾り気のない休日のマイホームパパのような服装の東北が普段の制服よりずっと子供らしい装いの長野と並ぶとまるで親子のようだ。そして山形は、と言えば文学青年のような地味な装いをしているが、これまた彼の穏やかな雰囲気に良く似合っている。
 やはり誰の私服にも違和感を覚えて言葉少なになってしまう東海道と違って、他の面々は特に変わった様子もなく普段通りの遣り取りをしていた。ただ、若干その声が浮ついたものになっているのは、これからの予定が仕事を含まない行楽だから、というのも大きいのだろうが。
 今回は目的地が目的地なだけに、普段東西の移動に利用しているのぞみや部下たちの様子を視察するのに使うこだまではなく、ひかりに乗る事になる。ダイヤ通りに正確にホームに滑り込んできた車両は、今では随分と少なくなってしまった300系。もう直ぐ自分の路線を走らせてやる事は叶わなくなるその車体をそっと撫でて、東海道は僅かに視線を伏せた。
 これから向かう場所と同じように、急き立てられるように様々なものが自分の周囲から姿を消してゆく。守りたいと思った全てを守る事が出来ない歯がゆさは、年月を重ねても慣れる事はない。思わずぎゅっと奥歯を噛み締めた東海道の力みに気付いたのだろうか。山陽の温かい手のひらがぽん、と東海道の肩を叩いた。
「さんよう、」
「ほら、早く席に着かねーと」
 背を押すようにして着席させられたのは、人影もまばらなグリーン車指定席の一角だった。折角なら座り心地が良い方がいいよね、と上越が主張してそれに東海道が珍しく反対しなかった事もあって実現した席割りだ。あのケチな東海道がそんな出費を認めるなんて、と皆が驚愕したのだが、それにはもちろん理由があるわけで。
「それにしてもさあ、僕らからも普通に運賃取る辺りが流石東海道って感じだよねー」
 はあ、と溜息を落とす上越の言葉通りに、普通車ではなくグリーン車を主張した面々に反対をしなかった代わりに特急料金も乗車券代もグリーン料金も、きっちりばっちり徴収して下さった。グループ会社なんだから少しは融通を利かせてくれたって、と愚痴る声を鼻で笑って、東海道は偉そうに足を組んでふんぞり返る。
「何を馬鹿な事を言っている、業務中ならまだしも私服の連中をタダで乗せられるわけがないだろう」
 本来ならば高速鉄道にはそれぞれ業務用フリーパスが与えられていて、業務に必要と判断されればあらゆるJR路線と関連交通手段に乗車する事が可能だ。その業務に必要、という大前提も高速鉄道の称号を持つのが8名だけと少人数であることもあって今となっては形骸化して久しいが、もちろん今回の旅行での使用は東海道に却下されている。
 社員割引の適用は許してやっただろうが、と肩を竦めた東海道だが、正直それさえ拒否されたら流石に現時点で黙っている連中からもブーイングが起こるだろう。取れるところからは身内からでも確実に取ってくれる辺りは流石は東海道新幹線、巨大企業の屋台骨を一人で支えるだけの事はある。
「そうだよね、君が普通車じゃなくてグリーンって言っても反対しなかった時点で気付くべきだったよね……」
「当たり前だ、業務以外で私に乗るのなら東海の身内からだって金は取るぞ。それにこの時間ならグリーンより普通指定席の方が埋まるんだ。我々の行楽如きで普通車に乗って私たちが乗客の皆様の席を奪っては申し訳ないだろう」
 通勤や出張に利用される事が多い東海道新幹線でのグリーン乗車率はそこそこにあるとはいえ、未曾有の不況の影響もあって流石に+αの料金を積める余裕のある乗客は減っている。それにただでさえ大所帯で騒がしいのだし此方の方が迷惑にならん、と東海道が告げる通り、この車両に乗り込んだ乗客はどうやら自分たちだけのようだ。貸切みたいですね!と名古屋が無邪気にはしゃぐ横で、山陽が『あいつら、まさか……』と職員の意図的な振り分けを危惧していたがまあそれは割愛して。
 富士山が見える窓側の進行方向を向いた席に長野、その向かいに秋田。秋田の隣は東北で、その向かいには上越。通路を隔てた窓側には山形が座り、その隣の通路側に山陽。そして山形の向かいの席を空けて、山陽の向かいには東海道。特にどの席がいい、と希望を出した訳ではなかったが、特に争うでもなくてんでばらばらに座った割にはうまい具合に割り振れたと思うべきか。
「……時間だな」
 ホームに発車のアナウンスが流れるより早く、東海道がぽつりと呟きを零す。え?と通路を隔てた隣に座っていた秋田が何かを言いかけようとしたその瞬間、鳴り響くアナウンスと無機質な発車ベル。
「よう分かっただなあ、東海道」
「すごいです、とーかいどーせんぱい!」
 時計など見ていなかったのに、と目を細めた山形の言葉に同調するように、長野の尊敬の眼差しが通路越しに向けられる。きょとんとした眼差しで二人の顔を見比べた東海道は、その称賛に気付いているのか居ないのか、不思議そうにことりを首を傾げた。
「私の車両だからな。特に誇るような事でもないだろう」
 強いて言うなら年季と慣れであって、誇るべきは正確無比な運行を可能にする職員の努力だろう。何をすごいと言われているのかわからない、と言いたげに眉根を寄せて逆方向へと首を捻る東海道の姿に、零れる苦笑は誰のものだったか。
 路線そのものを象徴する存在とはいえ、本来ならばそこまで深く繋がり合う必要は無い。そもそも処理能力限界まで情報を詰め込んでいる鉄道路線である、発車時刻や車両の稼働状況はダイレクトに伝わるものを感じ取らなくても支障はないので、大抵の路線は業務中であってもリンクを落としているのが常だ。それは高速鉄道だって同じことだけれど、東海道はこんな休日にも律儀に全ての感覚を共有したままにしているらしい。
 あーこの仕事馬鹿らしいな、と苦笑する山陽と、溜息ひとつを零しただけで何も言わずに東海道の横顔を眺める東北。しかし肝心の王様は何も気付く様子は無くて、少し楽しげに速度を上げる車両の振動に身を任せている。
 そんな些細なやり取りの合間にも、ゆっくりと新幹線「ひかり」は東京駅を離れ、西へとひた走る。
 それぞれに思うところはあるのだろう、しばし無言で車内アナウンスに耳を傾けていた面々だったが、そのどこかしんみりとした沈黙を破ったのは予想通りに秋田だった。
「東海道のとこと僕らのとこって、売店で売ってるものも違うんだね。いろいろ目新しかったから買ってきちゃった」
 簡素な旅行用の小さな鞄とは別に紙袋やビニール袋を自分で持つだけでは足りずに東北や山形の手にまで押しつけていた秋田である。次々と袋から取り出される弁当や菓子の類に、ああやっぱり中身は食いものだったか、と東海道と山陽は顔を見合わせた。これが他の輩ならば無駄な買い物をするな、と東海道の一喝があってもおかしくはないのだが、当事者はなんといっても秋田であることだし。
「……あれは豊橋まで持つのだろうか、山形」
「普段の秋田ならあれでも足りると思うけんど、今は浮かれてっからどうだべか」
「いや山形、いくら秋田でもあの量だよ?豊橋までなら二時間くらいだから足りる……と、思うんだけどな、ちょっと山陽さん自信なくなってきたなー……」
 この時間って車内販売無いんだよな、と揃って溜息を落とす東京以西の高速鉄道二人の溜息を実証するように、既に紙袋の一つは単なるゴミ袋と化している。ご相伴に預かったらしい長野が最初に空けた東京限定塩ひよこを零さないように食べている間にも、また2つ目の弁当が空になろうとしているとはこれ如何に。
 そうこうしている間にも、西へと向かう「ひかり」は新横浜、小田原を過ぎて静岡県内へと差し掛かろうとしている。東海道にとっては特別な意味を持つと言っていい新丹那トンネルも近づく頃になれば、車両はがたがたと盛大に揺れて窓際に置いていたペットボトルも僅かに跳ねあがる。
 東海道が有する現行車両の中では一番の年長になってしまった車両だが、それは決して300系が甚だしく劣っているというわけではない。近年の技術進歩と乗り入れている西日本との提携もあって徐々に姿を消しつつあるとはいえ、民営化と共に「のぞみ」の名を背負って生まれた車両がもたらしたものは大きく、東海道にとっての思い入れは大きい。
 おまえにとって私は良い相棒であったろうか、と夢を叶えた「のぞみ」の名に相応しい偉業を誇る車両に心の中で問いかけて、東海道は使い込まれてなお柔らかなシートへと深く背を預ける。慣れた制服を脱いでもなお刻々と東海道の中に今レールの上を走る彼らの運行情報は刻み込まれ、秒単位でカウントされるそれらはもはや身体に文字通り染みついた感覚に等しかった。
 だからこそ、古い車両を手放す時の痛みは大きい。今まであったはずのものが無くなり、新しいものへと置き換わる感覚は何度経験しても慣れる事はなく、新しいものを歓迎する一方であまりに早過ぎる物事の移り変わりに眩暈さえ覚える。それを髪の毛一筋たりとも表に出さないのは、もはや意地のようなものだ。
 和気藹々と会話を楽しむ面々を微笑ましく眺めながら、東海道は慣れた路線を走る車両の中で身体に刻み込まれた運行をカウントしてゆく。通過駅、所要時間、速度、振動と騒音レベル、そして何よりも乗客の声。制服を纏い仕事として車両に在る時よりも幾分ぼやけてはいるけれども、ほぼ正確にそれらは東海道の中を駆け巡る。まるで途中回路になったような錯覚を覚える、と山陽がぼやいたこれらの感覚を、けれど東海道は嫌いではなかった。

 だって、それは走っているということだ。
 今此処で必要とされているという事実に他ならない。

「もう直ぐだな」
 ぽつり、と呟いた東海道の声を聞いたのは、今度は席が近い山陽と山形だけだったけれど、二人は揃って顔を見合わせ、どこか嬉しそうに唇に笑みを浮かべる。――ぼんやりと己の膝を見つめていた東海道が、向かいに座る二人の表情に気付く事はなかったけれど。
 停車を知らせる車内アナウンスに急き立てられるように、秋田はがさがさとほぼ空になった袋の残骸の処分に追われているし、いつの間にか眠りこんでしまった長野の肩を上越が揺すっている。
 ああ、漸く此処まで来た。あの日の夕暮れの朱は今此処に無いとしても、確かに同じその場所へと。

 慣れないスニーカーで降り立ったホームの先には、待ち人がひとり。
 鮮やかなオレンジ色の制服に身を包み、直立不動で自分たちを迎える彼の名を東海道は知っている。
 相変わらず強い風に煽られた黒髪はあの日よりも幾分長く、けれど表情を隠すには至らずうっすらとした頬笑みと、柔らかな視線があの夕暮れの光景を東海道の中から遠ざける。
 あの日、音に出来なかった彼の名前。彼が彼であると位置づけるその名前を、今度こそ東海道は口に出来るはずだ。

「飯田」
「Yes,上官!!」

 誇らしさに満ちた声は明朗として強く、向けられた敬礼は淀みなく。
 夕暮れの中にあった硝子玉のような眼差しも、表情の読めない彼が突き付けた刃の鈍い輝きも無い。あるのはただ上官と部下、その関係だけだった。しかもそれがどこか温かみを帯びているような気がして、部下には厭われていると思っていた東海道は目を見開いた。
 ああそうだ、彼は此処に居て、自分もまた此処を走り続けている。あの日の特急と在来線は、もう何処にも居ない。
 それが、そんな単純な事実を確認できたことがどうにも嬉しくて、東海道は泣き笑いのような笑みを浮かべてこの最上級の歓待に応えるべく、震える指先を揃えて返礼を返した。




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2009.05.24.(2009.07.02. memoより再録)

ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。