君と出会った夕暮れの朱


 桜の季節も過ぎ、新緑が眩く芽吹き頬を撫でる風にも幾分温かさと緑の香りが含まれるようになる頃。
 4月末から5月初めにかけての大型連休、俗に言うところの「ゴールデンウィーク」を前にして、東海道はいつにも増して渋い顔つきで資料のページを捲っていた。
 ビジネス客の減少による減収や世界的不況による連休中の予約率の低迷、更には現実味を帯びてきたリニアのルート関連の折衝など、東海道新幹線として頭が痛い事はそれこそいろいろとあるのだけれど、それはまあいい。どうせ自分に出来るのは結局のところダイヤ通りに走ることだけだ。
 時として冒険心が会社が存続していく上で必要な要素である事は分かっているし、そういう意味では山陽の発想や西日本の自由さは羨ましいとは思う。
 けれども自分に求められているのはそういった性質ではないし、己を必要だと言ってくれた東海という会社は堅実性の上にこそ成り立っている。山積みされた問題は、迂遠に見えたとしても少しずつ片付けるしかないのだと、東海道は長年に渡る己の業務の上で思い知っていた。だからそういった問題は気が遠くなるような努力の積み重ねによってこそ解決ができるだろうと信じている。
 だがしかし、現在彼を思い悩ませている内容は、そういった物とは一線を画す事項であり、残念ながら建設的な解決策は導き出せてはいない。

「上越め、軽々しく言いおって!我々全員が東京を空けられる休日など、そんなものどうやってひねり出せと言うんだ……!」

 事の発端は、己の管轄下にある小さな鉄道資料館だった。
 大規模な別の施設をアクセスの良い場所に建設が予定されている為に、18年間細々と公開されていたこの場所は今年の11月で閉園が決定していた。
 施設自体が佐久間に在る事は知っていたが、何せ場所が場所だ。辿り着くための唯一の交通手段である飯田にあそこの管理はほぼ任せてあるので、東海道は詳しい情報は資料でしか知らない。そもそも展示もイベントも部下たちがああでもないこうでもないと思考錯誤してやっているのを知っていたので、上司がわざわざ口を出すような事でも無いだろうとよほどの無軌道が無い限りは黙って承認印を押してきた。
 だがその彼らが作った小さな箱庭も、もうすぐ幕が降りようとしている。
 自分がほぼ触れる事が無かったその場所に、けれどいざ閉園という言葉を突きつけられれば行ってみたい、と思ってしまった。自分が何も干渉する事が無かった場所で、部下たちが何を思い願い作り上げようとしていたのか、その欠片でも感じてみたいと思ったのだ。
 だからこそ、無意識のうちにその願いを声に出してしまった。

「――佐久間に、行ってみたいな」

 唯一の失敗は、これが新大阪や名古屋ならばともかく、よりにもよって東京で声にしてしまった、ということだろうか。
「へえ、君がそういうこと言いだすなんて珍しいね。興味あるなあ」
「せんぱい!とーかいどーせんぱい、ぼく、行ってみたいです!!」
 不穏な光を宿した上越の明らかに何かを企んだ含み笑いと、純粋に興味を覚えた長野のきらきらとした眼差し。そもそも声に出してしまったことすら気付かなかった東海道は彼らの声に慌てて反論しようとして言葉に詰まる。
 今のは違う、行きたいなんて思っていない。そう告げれば済むだけの話だったのだろうけれど、どうしてだか東海道はその言葉を嘘にはしたくなかった。
 過ぎったのは夕日に溶け込むような橙色の背中。強風にばらばらと散った黒髪がまるで影のようで、感情すら渡す事を拒否するかのような姿に、覚えた痛みは今も尚この胸にあるから、尚の事。
「その、上越?あそこはおまえたちが見るようなものは何も……」
 大宮の鉄道博物館を見慣れているような人間が行っても楽しくないと思うぞ、と続けようとした言葉は、予想外の声に遮られる事になった。
「え、東海道あっちに行くの?!」
 振り返れば、長野の数倍目をキラキラさせた秋田の表情が其処にあった。行けない、こういう時の秋田はとある方向に暴走中だ。
「いや、私はそんな事は言ってな……」
 慌てて訂正しようとしたが、『あの辺の美味しいものって何かな?メロンってもう売ってる?!』と詰め寄る目的を別方向へと向けてしまった秋田は既に助力を乞うだけ無駄、むしろ東海道を追い詰めるような言動しかしてくれないに違いない。
 四面楚歌に近い状況を悟った東海道が縋るように視線を向けた山形は、窓の外の枝に止まった珍しい色合いの鳥に釘づけになったまま室内の様子など気に留める様子は全く無い。これまたそうなったら戻ってくるのは鳥が飛び立った後だ、しかも彼の観察の邪魔をすれば無言の威圧が恐ろしい事も知っているだけに口を噤む以外に何が出来よう。
 そうなったら、山陽が不在の上官執務室の中、唯一残った人物。おそるおそる彼へと視線を向けた東海道の目の前で、それまでのやりとりを黙って聞いていた東北はどこから取り出したのか熊手とバケツを手に一言呟いた。
「……潮干狩り」
「それは弁天島だ、東北。いや確かに同市内ではあるが」
「無理だろうか」
「いや無理とかそういう以前に私は行くとは一言も…!」
 ――前々から思ってはいたが、この男は基本的に仕事以外では当てにならない。
 恐ろしいのは彼は心底真面目にこのやりとりをしているのであって、決して他意は無い、ということだ。こと仕事以外ならば、悪ふざけは過ぎるが上越と話していた方がよっぽど意志の疎通ができる気がする、とずきずきとこめかみが痛み始めたのは、気の所為だと信じたい。
 呆気に取られた東海道が何も言えずにいるうちに、あれよあれよと東海道のささやかな願いに全力で乗っかる、否むしろ乗っ取る形で高速鉄道による東海ツアーが決定していた。こんな時に限って山陽が不在で、ツッコミ不在総ボケ(若干1名はSっ気が入った放置プレイだが)のまま事態が進行した事もよろしくなかったと言えよう。
 何故肝心な時に居ないんだ、だから九州なんぞとは手を切れと言ったのに!と口に出すのも業腹な輩との折衝にかの地に出向いているのだろう今此処に居ない男に、八つ当たりのように責任をなすりつける。とはいえ現在進行形で着々と現実味を帯びた提案が為されている現状を鑑みれば、最終的にアイツも巻き込まれるのは目に見えているわけだが。
 どうやってこの盛り上がった状況を沈静化させよう、とハの字に下がった眉を気合いと共にきりりと引き上げて、東海道はふと山形の視線が窓の外から室内に戻っている事に気付く。どうやら窓の外の枝に止まっていた野鳥はどこぞへ飛び去った後らしく、彼は相変わらず何処か和む表情で意見を交わし合う面々を見つめていた。
「や、山形……」
 一縷の望みをかけて震える声で東海道が呼ぶ声に、山形は僅かに目を細める。こちらに気づいてくれた事にほっとしながら、どうにかこの状況を宥める手伝いをしてくれないかと言いかけた東海道だったが、ふわり、と普段はあまり表情が動かない彼の柔らかな微笑みに思わず言葉を飲み込んでしまう。
「東海道」
「へ?あ、な、何だ?」
 滅多に見られない笑顔に毒気を抜かれたように言葉を見失ってしまった東海道の肩をがっしと掴んで、山形はじいっと東海道の瞳を覗き込む。相変わらずやる事が心臓に悪い、と先ほど此処に居ない山陽に向けたのとは別の意味で八当たりじみた愚痴を脳内で零していた東海道は、いつになく鈍い反応で目の前にある山形の顔をのろのろと仰いだ。
「俺も行ってみてえなあ、佐久間」

 ブ○ータス、オマエもか……!

 某演劇の台詞が脳内を過ぎったまま、マトモな反論も思いつかずくらりと眩暈を覚えた東海道の目の前で、山形を加えた東日本の面々による楽しげな旅行計画が着々と作り上げられてゆく。漏れ聞こえる計画の断片だけでも、何泊するつもりだおまえたち、とツッコミを入れたくなるような無茶なスケジュールだ。
 もはや彼らの無茶苦茶な計画に抗う気力すら無く、東海道はもはや真っ直ぐに姿勢を保つことすら放棄して、ばたりと空いたソファに倒れ込んだのだった。

 まあそのような紆余曲折の末、ようやく戻った山陽と合わせても二人きりでは多勢に無勢。押し切られるように決定してしまった慰安旅行(?)を実行に移すべく、ぎちぎちのスケジュールを更に切り詰めて一泊二日の旅程をこなせる程度の空き時間を作成している東海道の表情は、けれども愚痴をこぼすほどには不機嫌な様子はない。

 だって、行ってみたいと思ったのは本当だった。
 それがわかるからこそ最後の最後で自分は折れてしまったのだし、会議以外では滅多に顔を合わせることさえ無い部下に会い、その路線を確かめる事が出来るのは嬉しい。
 恐らくは自分という上司の存在は部下たちには遠いものなのだろうけれど、東海道にとっては愛すべき部下だ。大事だからこそ殊更に厳しく当たってしまうのが悪いとは思っているけれど、もう長年そうしてきてしまったこのやり方を変える事は出来ないのだから仕方ない。
 山陽辺りに呆れた顔をされようとも、弟に素直じゃないと詰られようとも。今こうして此処に互いに在れるのなら、走り続けられるのなら、鉄道という存在にとってそれが最上だ。
 少なくとも、東海道新幹線はそれを良く知っている。

 ぱらり、と捲った資料のページには、当該施設の概要が少し古い飯田の写真と共に記されている。
 今より僅かに髪が短く、無表情に此方を見据える双眸。あの頃の彼はこんな視線を向けていただろうか、と東海道は過去を振り返る。

 それは『新幹線』が自分だけだった頃。
 或いはそれよりずっと前、己の纏う制服が沈むような漆黒だった頃。

 自分も変わったし、彼も変わった。時代も変わる。
 重ねた歴史は互いに深くて遠くて、けれどもそうして至った現在は決して間違いではないのだと、表情が乏しい飯田の僅かな表情の変化が物語っている。
 それでも周囲が許す限り走り続ける事が出来る自分たちは確かに幸福なのだろうと、東海道は静かに目を閉じた。

 ――その瞼に過る夕暮れの幻影は、もう遠いけれど。



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2009.04.26.(2009.04.27.加筆修正)

前々から習作的にmemoで書いていた東海道上官が某所に行きたいって言う話。
予想外に長くなったのでもうちょっと続きます。