君と出会った夕暮れの朱
己の耳を疑う、という滅多にない体験に、飯田はぱちりと瞬きを一つ零した。
目の前の同僚・東海道は仏頂面を崩さないままに、先ほど飯田に向けた言葉をもう一度律儀に繰り返す。
「だから、兄貴がおまえの路線使って佐久間に行きたいんだと」
つってもあそこに行くのにおまえ以外を使うって選択肢はまずねーけど、と苦笑混じりに告げたのは、硬直したきりぴくりとも動かない飯田を慮ってのことだろうか。東海道は周囲が思うよりもずっと相手に気を配って接する事が出来る男だ。ツンデレとブラコンが仇を成して意味がない事が多くはあるのだが。
東海道の管轄する路線は長く、東日本、東海、西日本の三社を跨ぐ。更に歴史ある路線として幹線の称号と相応の重責を担い、それ故に様々な業務がある程度免除されてはいるのだが、目の前の同僚はそれを唯々諾々と受けるだけの男でも無かった。
兄貴に出来て俺に出来ない道理は無い、と本来免除されてしかるべき報告書や書類の処理を率先して行い、また東海在来線の纏め役のようなものも買って出ている。様々な雑務を三社分こなす東海道は彼の兄と同程度には忙しいと思うのだが、目指すところの『東海道上官に頼りにされる男』には本人曰く『まだまだ遠い』らしい。
今日もわざわざ本社に行くついでだから、と飯田の運行報告書と業務日記を受け取り、11月の閉園まで続く中部天竜駅併設の施設に関連するキャンペーンについて今後の相談をしていたのだが、流石に『東海道上官』の名前の威力は強烈過ぎた。
「……すまない、東海道。一瞬意識が飛んだ」
「予想してなかったわけじゃねーよ、気にすんな」
どうせウチの連中の誰に言ったって同じような反応が返ってくるんだ、と溜息が混じった台詞を吐き出しながら、東海道は軽く肩を竦めた。
然も有りなん、飯田の知る限り己の同僚たちならば、かの上官が己の近い位置にある、というだけで卒倒しかけてもおかしくない。無論上官の前で無様を見せるわけにもいかないから、誰もが表面上だけは完璧に取り繕って見せるだろうけれど。
正直上官が乗ると知って動揺しない在来線など東海道だけではないかと思うのだが、残念ながらその辺りの機微を理解できるほど東海道は己の立場の稀有さを理解してはいなかったし、そう言うところが彼の良さでもあると知るが故に、飯田はただ沈黙を守り薄い微苦笑を返した。
「あちらのご予定はどうなっているのだろうか。伊那路の本数も限られているから、早めに良い席を押さえておかなくては……」
元々大した本数を走らせる事のない上に、席が全て埋まることなど滅多に無いのんびりとした路線ではあるが、出来るならば上官には良い席に座って頂きたい。桜の季節は終わってしまったが、これからの季節ならば芽吹く新緑と渓谷が織りなす景色を楽しむ事が出来るだろう。職員に言って発売前に押さえてしまう事は可能だろうか、と巡らせはじめた飯田の思考を断ち切るように、東海道がふるふるとその首を横に振る。
「いや、飯田、それなんだけど」
ひじょーに言いにくい上に、俺も今以て反対中なんだけども。
「兄貴、佐久間レールパーク号で行きたいんだと」
ばさばさ、と書類が手の中からこぼれてゆく音が他人事のように耳に届く。
傍らで東海道が何か叫んでいるようだが、それすら音としては認識出来ても頭に届かない。というより、その前に入れた音声を情報として処理したくないと理性が叫んでいるというべきか。
レールパーク号、とそれなりの名前がついてはいるが、現在はほとんど使用されない空いた旧車両で、キャンペーンで増えた佐久間への乗客のために臨時運行されているだけの列車である。ただでさえ速度が出せない、カーブが激しい、と曰くつきの飯田の路線を、多少の観光案内と指定席への乗車特典でどうにか体裁を整えてはいるが、盛大に軋むし揺れるし、でお世辞にも乗り心地は良いとは言えない。
いやでも俺の119系よりはまだマシか?いやいやマシとか言う問題じゃない、乗るのは上官なんだぞ飯田線……!?
混乱しきった飯田の手の中から最後の一枚が剥がれ落ちるのと、その口からばかな、という乾いた声が漏れるのはほぼ同時の出来事だった。
「おまえが理解したくない気持ちはすげー良くわかるが、残念ながら事実だ。そして兄貴は言い出したらきかねーし、他の上官がたは面白いと思ったら誰も止めてくれねえんだよ……」
たぶんこれが理解できるのは在来線では自分だけなんじゃないだろうか、と謎のヴェールに包まれた高速鉄道上官室の中で繰り広げられるコントな日々を良く知る東海道は溜息をひとつ。やけに重苦しいそれにようやく実感を得られた飯田は、動揺に震える腕で撒き散らした書類を拾い集めながら縋るような眼差しで東海道を見る。
「……その日だけ313系にならないか、ホームライナー用の」
「気持ちはわからんでもないけどな、兄貴にバレた時の事を考えたら恐ろしいだろうが」
閉園まであと半年、心と周辺の準備をするにはあまりにも時間が足りない。
互いの脳裏に浮かぶ東海道上官の特別扱いを叱るだろう姿に、二人は揃って深く溜息を零した。
2009.05.22.(2009.07.02. memoより再録)
ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。