君と出会った夕暮れの朱


 最寄りの新幹線停車駅から、特別列車とは名ばかりの旧型車両に揺られること2時間。
 民家のほど近くや山林、渓谷といった多様な景色を楽しみながら辿り着いた先は中部天竜駅、そして併設された佐久間レールパーク。野ざらしの車両にプレハブの展示室、という非常にささやかな場所だが、ホームから全体を仰いだ東海道の瞳は既に潤みかけていた。
「……飯田。良い場所だな、此処は」
「ありがとうございます、上官」
 振り向く事無く呟いた己の上官の言葉に、飯田は静かに頭を下げる。その短い言葉に込められた意味は、たとえ欠片でも歓喜を伴わないわけがなかった。
 この場所の企画・運営に、この上官は決して口出しはしなかった。かといって放置していたという事も無く、何度となく提出した企画書と予算案にはいつも無条件の承認印と共に企画を後押しするような情報を書き連ねてくれていた。其処にあった無言の信頼と遠慮がちな彼の心遣いを、この場所に携わった全員が受け取っている。
 たとえここに彼が来る事が無かったとしても、それはそれで仕方無い事だと思っていた。もっとアクセスの良い場所に大規模な展示施設を作るのだと聞かされた時も、ついに来るべき時が来たのだとそう思っただけだ。だからこそ彼がこうして此処に足を運び、心から褒めてくれたという事実それだけで、自分たちは十分に満たされる。此処に確かに存在していた小さな箱庭に、意味は間違いなくあったのだと誇る事が出来るだろう。
「どうぞごゆっくりご覧下さいませ、東海道上官」
 あらゆる想いをこめてゆっくりと頭を下げた飯田の姿に、泣き笑いのような表情で相対する東海道の頬を随分と温んだ空気が撫でてゆく。新緑の季節を経て、梅雨を迎えようとしている天竜の大気は既に春というよりも夏に近しい。
「東海道!いつまでそうしてるの、早く行こうよ!」
 そう言えばあれは何時の夕暮れだったろう、とホームに立ち尽くしたままぼんやりと記憶を手繰る東海道を急かすように、秋田の声が駅舎の方から響く。はっと顔を上げて慌てて線路へと降りる階段を小走りに降り、駅舎の前で手まねきする皆の元へと駆け寄った。遅くなったことを詫びれば、秋田がどこかきらきらした眼差しで売店、というか食堂?の外に立っている旗を示して少し紅潮した頬に手を当てる。
「ねえ東海道、五平餅ってどんな味?美味しい?きりたんぽみたいなの?」
「……飯田の車内でもあんまき食べてなかったか、秋田」
 おまえはいったいどれだけ食うつもりなんだ、と溜息を落とし、東海道は同じ列車に乗ってきた客たちが向かった先へと足を向ける。
華々しい東海道新幹線の裏側、けれどこれも確かに東海という会社が刻んだ歴史の証左である場所。そこに万感の思いを込めて踏み入れた足は、東海道が考えていたよりもずっと軽く、心を浮き立たせた。


 相性が壊滅的に合わないって組み合わせは確かにあるもんだよな、と山陽は周囲に気付かれないようにこっそりと溜息をひとつ。
「ねえ君、ここの展示だけどさあ。何で東海道ばっかりで僕らはポスター程度なわけ?」
「Yes,上官。申し訳ございませんが、此処は東海エリアですのでそれは当然かと」
 にこにこと表面上だけは穏やかな、けれども見る人間が見れば相当に胡散臭い笑みを浮かべて振り返る上越に、直立不動を保ったまま当然のようにしれっと上官を上官とも思わない返答を告げる飯田とのやりとりに、目に見えない稲妻が空気を切り裂く。
 先ほどから繰り返されている心臓に悪い光景からそっと目をそらした山陽の視線の先では、常よりも無防備な表情でじっと展示物に見入る東海道の姿がある。東海道新幹線の名を得る前は特急として東海道を走っていたという彼にとっても懐かしいものも多いのだろう、そっと指先で辿るように確かめる口元は僅かに緩んで、この場所を心底から楽しんでいる事が見て取れた。
「とーかいどー」
「山陽?」
 くるり、と振り返る表情は、普段あれほど大きく見える東海道新幹線と同一人物とは思えないほどに稚く、そこに浮かぶのも単純な名を呼ばれた疑問以外のものではない。何か用か、と首を傾げる様子すら常の東海道の事を知る人間からしてみれば驚きを感じるほどに隙だらけで、コイツのプライベート仕様ってこんなだったんだなあ、と普段張り巡らせている虚勢の大きさを噛み締める。
 言いたい事も聞いてほしい事も山ほどあったけれど、山陽はただ静かに来れて良かったな、と東海道の肩にそっと触れた。それを何のてらいもなく受け入れて躊躇いなく返る肯定の返事は、背後で上越と会話とも呼べないような寒いやりとりをしている在来線に聞かせてやればそれはもう諸手を挙げて喜ぶに違いない。
「ふうん、こんなローカル線にまで東海道の教育は行き届いているみたいだねえ、君、なんて言ったっけ?」
 くい、と飯田の顎を指で押し上げて上から覗きこむように告げる言葉は、取り様によってはパワハラを通り越してセクハラに近い。
 言外に地方のローカル線が会社が違うとはいえ上官に対していい度胸してるじゃない、と皮肉が透けて見えるような声色に、上越の傍らで古いマルス端末の金属板をぱたぱたと動かしていた長野も不穏な空気に気づいたのだろう。僅かに顔色を白くして、挙動不審気味に上越と飯田を仰ぎ、次いで此方に縋るような眼差しを向けてきた。
 確かに上越の直属の部下とも言える高崎線辺りはよくこんな事をされて慌てふためいていたが、流石に東海道の部下にそれは拙くないか、と流石の山陽も不安を覚える。取り残されてしまった形の長野が心配でもあるし、と覚悟を決めて一歩踏み出した山陽の意気込みを余所に能面のような無表情を崩す事無く、この冷えた空気の発生源の片割れである飯田は、上越の指先に促されるまま目の前の上官を真っ直ぐに見据えて淀みない返答を紡いだ。
「Yes,上官。自分はJR東海所属・飯田線であります。東海道上官の薫陶をお褒め頂いたのは恐縮ですが、私はわざわざ上越上官に覚えて頂くような路線でもありません、どうぞお気づかい無く」
 これまた言外に貴方は上官ではあるが自分には関係ないだろう、しかも東海道上官の部下への管理能力を疑うような台詞は何事か、と告げているような静かな声。その返答に、ただでさえ冷え切った周囲の気温が急激に低下するのを山陽と長野は知覚する。そろり、とハブとマングース並みのオーラを立ち上らせる上越と飯田から徐々に距離を取った長野の手を取り、山陽は背後の不穏な空気に気付かないままに懐かしい物品の数々に見入っている東海道の肩を抱き、努めて明るい声で誘いをかけた。
「なー東海道、そろそろ外の車両とか見に行かねえ?」
「は?見たいなら一人で見に行けば……ん、長野?」
 唐突な山陽の言葉に目を見開いて断りの言葉を紡ぎかけた東海道のシャツを、くい、と長野の小さな手が引く。もう片方の手は山陽と繋いだままだが、それはひどく汗ばんでいて冷たく、この空気の異様さに幼い長野が自身の身の危険を顧みず尊敬する先輩を連れ出そうと努力している事実を知らしめる。
「せんぱい、せんぱい!ぼく、とーかいどーせんぱいといっしょに見たいです!」
「私と……?だが、この場所は私もほぼ手を出していないからさして案内してやれるような知識もないのだが……」
 それでも東海道先輩と一緒に見たいんです!と健気に主張する長野に拍手を送りたい気分になりながら、どうか気付いてくれ、と笑顔の裏で冷や汗を垂らす山陽とどこか必死な長野の言葉に心が動かされるものがあったのだろうか。長野が望むなら、とその小さな手を取る。両手を山陽と東海道と繋いだまま外へと出た長野は、東海道がからからとアルミサッシの引き戸を閉めたのを確認して山陽と思わず顔を見合わせる。
 二人の口から零れ落ちた溜息は、安堵か疲労故か。
 引き戸を閉め終わり、結局その中で繰り広げられたやりとりには欠片も気付く事がなかった東海道が、僅かに屈んで長野の顔を覗き込んだ。
「さて長野、どれから見たい?」
「とーかいどーせんぱいの0系さんがいいです!」
 たぶん今もまだ続いているだろう冷やかな舌戦を頭の隅から振り払うように、長野は明るい声で返事を告げる。今度は汗が残って湿ってはいても冷たくはない小さな手のひらともう一度手をつなぎながら、山陽は他の面子にもあの展示室には近寄るなと伝えなければ、と妙な使命感に天を仰いだ。
 確か東北は関連書籍を収めた小さな展示室に入って行ったきりで、秋田は売店、山形は外のベンチであたりを飛び交う野鳥に真剣な眼差しを送っていたから、実はこの無自覚な相棒以外はあまり心配はしていないのだが。
 自分とは逆の手を繋いだ東海道と長野の微笑ましいやりとりにようやく強張った表情を心から綻ばせ、山陽は夏の気配を感じさせる陽光の眩しさに目を細めた。



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2009.05.25.(2009.07.02. memoより再録)

ウイルスが怖くてMEMOで連載していた話を再録。