ぼくのなつやすみ

06.

 心地好いふわふわとした足取りで、東海道は普段はあまり使わない、けれど己のものであることは間違いない宿舎への道を辿る。
 ちょっとしたアクシデントや思いがけない出会いはあったものの、おおむね成功と言えるだろうイベントの初日は幕を下ろした。一般客たちを送り出し、また明日に備えて慌ただしく動き回る職員たちの横をすり抜けるようにして、弟と二人小さな居酒屋でかちりと重ねたグラスの音がまだ耳の奥に残っている。
 喉の奥に流し込んだ冷たいビールがとても美味しく感じられたのは、好天に恵まれた気温故か。あまり口数が多い方ではない弟も普段より饒舌で、結果いつもよりも摂取したアルコールの量は多いんじゃないかと思う。
 日本酒党の多い高速鉄道のメンバーたちと飲む時は、東海道の記憶は大抵途中で途切れている。一口二口舐めるように飲んで、コップ一杯を片付ける頃には船を漕いでいる、とは誰の感想だったか。兎も角気の置けない仲間たちと仕事に関係の無い席を設けた場合には、ふと目を覚ませば山陽か山形の背に負ぶさっているか、はたまたそれを通り越してベッドの中か。
 だからこそ、こうして酔っている事は明らかなのに自力で家路を辿る、という経験は実はあまりない。たぶん自分は酒に弱いんだろう、との自覚はあったから、そもそも身内と飲む場合以外はあまりアルコールは入れないようにしている。
 飲むのが嫌いなわけじゃないんだがな、とくすくすと泡がはじけるような笑みが零れるのも、たぶん酔っているからだ。弟と交わした会話は他愛の無いものばかり、二人寄り添うように走るのだから、自分の事も相手の事も良く知っているのに、それでも自分以外の目に映る光景は、耳に入る音は、全く違った側面を見せているのだと思い知る。
 とん、と軽く踵を鳴らして、東海道は空を見上げた。
 浮かぶ月は半ば以上欠けて、薄く湿気を纏わせた空でぼんやりと光っている。未だ梅雨が明けきらない空には、けれど何かの奇跡を思わせるように雲の影は薄い。アスファルトに伸びる街灯と月明かりの朧の影法師はまるで幻のように角度を変えて揺らめいて、アルコールに半ば以上侵された脳内で喜悦と変換されたようだった。
 楽しい。何が、と問われれば全てが、と答えられるくらいには、支離滅裂で根拠など欠片も存在しない主観的な感情ではあるけれど、兎も角現在の東海道の心を占めるのは、ふわふわとした心地好い感覚だ。
 辿る道は慣れない、けれども覚えはあるもの。
 常は走り過ぎるだけの風景も、こうして己の足で歩いてみればまた違う顔を覗かせる。それもまた出所が分からない楽しさの温もりを助長して、手袋を外した手のひらを月光に透かしてみる。
 触れた柔らかさは決して幻などではなかった。あの幼い笑顔は、きっと近い将来自分の前に立つだろう。そうして『彼』は東海道を越えてゆくのだ、かつての己が弟に対してそうしたように。
「……楽しみなんだ、ああ楽しみだとも」
 そうしたら、きっと『彼』は東海道の弱さも何もかもを乗り越えていくだろう。あの幼い笑顔が失われたとしても、それはきっと東海道という名を跳ね退ける強さと共にあるだろう。
 だとすれば、きっと東海道とその弟が長らくこの地を走り続けた意味は続いていくのだ。
 ふふ、と崩れる相好をそのままに、東海道は常ならば決してしないような浮ついた足取りで宿舎への道を辿る。こんな満たされた気分ならば、常の悪夢も忍び寄る事なく夜を越せるに違いない。
 ……本当ならば、其処にもうひとり。
 自分が望んだたった一人の姿があったならば本当に文句の付けようはなかったのだが、そもそもが東海道が此処に居る為に本来自分が背負うべき職務まで放り投げた自覚はあったので、そればかりはひとりごとであっても唇に乗せる事はせずにポケットの中の鍵を探る。
 滅多に使わない、それこそ緊急用の仮宿舎だ。あまり慣れない銀色の鍵の感触、その冷たさに感じたものをアルコールの酩酊で誤魔化して、人気の無い宿舎の入り口へと視線を向けたその瞬間。

「……ばかな」

 どうして、と勝手に零れる言葉は、果たしてどんな色をしていただろうか。
 ポケットの中の鍵を握り締めた指先が、勝手に力を強くしたのは何の意識だったのだろうか。
 見慣れた、常に己の傍らに在った男。
 夏の訪れを目の前にした、何処か熱気と湿度に揺らぐ空気の中で、けれども月光に鮮やかに照らし出された宿舎のドアの前にあるのは濃緑色。
 そして東京以西のこの場所で、自分以外にこの色を纏うのはただひとりきり。
「さん……よう?」
「おかえり、とーかいどー」
 ふわり、と浮かべた笑みは東海道が好きな表情のひとつだった。慈しむようなそれは東海道の甘えを何一つ間違いなく許容して、その枠組みは決して間違う事はなかったから。幻を見るほど酔っていただろうか、と己の視覚の正確さを疑いながら、それでもふらふらと歩み寄った頬に寄せられる手のひらの感触は、己の覚えているものと同じ温もりだ。
 では、これは間違いようもなく己の片割れである山陽新幹線本人なのだろうか、と見上げた先で、月光を背負った男は小さく問いかける。
「ねえ、東海道……楽しかった?」
 ここ数日この日東海道が此処に在る為に様々な仕事を押し付けた山陽からのその言葉が示すものが、深読みをするならば嫉みの類だと思ってしまっても仕方の無いことなのだろうけれど。あまりにもその指先が、眼差しが優しかったから、東海道は深く考えもせずにこくりと素直にその首を縦に振った。
 だって、楽しかったのは本当なのだから仕方ない。
 弟のぶっきらぼうな優しさ、小さなひよこの温もり、職員の気遣い……そして、今はまだ名前さえ呼べない『彼』の柔らかな温もりと笑顔。
 何処から話そうか、迷ってしまうほどに満たされた時間の最後が彼の姿だというのならば、これは東海道にとっての至福に等しい。そっと伸ばした素手の指先が、辿った彼の腕は幻ではあり得ない実像だ。
 真っ直ぐに向ける視線と常ならば生来の天邪鬼な気質が邪魔して言えないような素直な返事に、けれど山陽は面食らうでも無くうっすらと笑って、少しその大柄な体躯を屈め、東海道の耳元に囁きかける。
「だったら……頑張った俺にも、ご褒美をくれる?」
 おまえの楽しかった時間の分、報いて欲しいのだと告げる言葉は、互いの間でだけ通用する甘えであると自覚している。そんな回りくどい言い方をするのは山陽の狡さであり、東海道の弱さの積み重ねの結果だけれど。
 ああでも、こんな気分のいい月夜にそんな事を言わずとも、この指先が求めるものも、この唇が求めるものも、たったひとつに決まっているだろうに。
 仕方ない、と常の癖で呟きかけた言葉を押し止めて、ふわふわとした気分のままに山陽の肩を引く。背伸びをするには覚束ない足取りは、求める結果には少々不安要素だと知っていたから。

 誰かが通りかかるかも知れない、だとか。
 そもそもこれは東海道が欲しいものであって山陽への『ご褒美』ではないだろう、とか。

 本来あって然るべき判断力はアルコールの威力で遥か彼方に消し飛んで、ただ欲求のままに重ねた唇は煙草とアルコールの味を双方に伝える。ああ全く、色気の欠片もない!
 けれどもそんな無粋な要素は深くなるキスの合間に薄れて消えて、月影と街灯が示す影がひとつに重なる。
 かちゃり、と響いた鍵の音と、古いドアが開く音と。
 さてその先は誰も知る必要は無いのだと、玄関先に放り投げた裏返しの靴をそのままに、聊か乱暴に宿舎のドアがばたりと閉まった。


 夏休み、というには短い時間。たった二日のお祭り模様。
 けれど得るものは決して少なくなどなかったのだと、シャツを床に落としながら東海道は浮かれた気分のままに淡い笑みを零したのだった。


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2009.12.13.