ぼくのなつやすみ

05.

「ええと、名前、言えるかな?」
 兄のスラックスから手を離そうとしない黄色い帽子の幼児を前に、その長身を小さく屈めた弟は、不器用な笑みを浮かべてたどたどしく問いかける。
 人混みの中で親とはぐれてしまったのだろう小さな子どもの相手をする事は、東海道の名を冠する兄弟にとって頻繁にある事ではないが初めて、というわけでもない。とかく公共交通機関というのは、こういった子どもと遭遇する機会が多いのだ。
 生真面目に視線を合わせる弟の問いかけと、ゆるりとその背に置かれた兄の手のひらの感触に段々と安心してきたのか、相変わらず眦には涙を溜めたままこくり、とひとつ頷いた。
 けれどそうして己の名を口にしようとして、はたと困ったように幼児は口を噤んでしまう。まさか名前を忘れるわけもないだろうし、と顔を見合わせた兄弟の真ん中で、幼児はことり、とその細い首を小さく傾げた。
「なまえ……まだないよ?」
「「え?」」
 揃って疑問の声を上げた東海道兄弟の顔を交互に見つめて、小さな幼児はぱちりと瞬きをひとつ。
「え、ええ?ちょ、兄さん、この子……!」
 予想外の返答に慌てふためく弟と、顎に手を当てて真剣に考え込んだ兄。何とも言えない対比を良く分からないながらにじっと見つめる幼児がひとり。
 親子連れで賑わう周囲の様子を尻目に、三人の間には微妙にひゅるりと乾いた風が吹き抜ける。まだ梅雨明けてないのにな、と弟の脳裏にはどうでもいい事が過りつつある頃、兄は何かを思いついたのか、はっと顔を上げる。
「……ひょっとすると」
 弟に習うようにその膝を折り、幼子と視線を同じくする。そうする事で帽子に邪魔されて見えなかった子どもの双眸を真っ直ぐに見据える事になる。
 東海道の僅かに青の混じった黒い瞳を興味深そうに覗き込む幼子のそれもまた、人にはあらざる鮮やかな色。
 それはまるで『彼』が知る事は無い空の色のような、澄んだ綺麗な薄青色で。
「君は、――か?」
 呟いた名前に、弟の眼も大きく見開かれる。そんなばかな、と呟く弟の声を尻目に、その音を聞いた途端にふわりと笑う小さな幼児の手のひらが、兄の頬にそっと触れた。
 子ども特有の高い体温は、兄が知る幼子……長野のそれよりずっと無防備でやわらかい。つられたようにその頭を撫でてやれば、満更でもなさそうにくふんと吐息を零す。
 ああそうか、とその存在を認めた兄と対称的に、弟はきょろきょろと幼子と兄の顔を交互に見比べている。
 黄色い帽子に白いシャツ、半ズボンは綺麗な青い色。
 それは奇しくも、発表された『彼』の試作車両に良く似た色合いであり。目の前の兄を形作る車両とも同じ色。
「……さあ、もう帰りなさい。君がその形をとるのは、もう少しだけ先の話だ」
 そう告げて兄が幼子の頭から手を離すと、すう、とその姿が輪郭を崩す。ばいばい、と手を振ってくるりと背を向けた子どもの姿は、その足で駆け出す頃にはもう見えなくなっている。
 呆然とその光景を見守るしかなかった弟の傍らで、膝に付いた砂ほこりを払いながら兄はぽつりとその名を呟く。
 ――今はまだ、その形すら定まらない、いつかの自分たちの延長線上にある名前を。

 夢物語だと笑うだろうか、と前を見据えたまま呟く兄に。
 いつかあの子に会えるなら笑わない、と弟は頭上の空を見上げる。

 綺麗に晴れ渡った浜松の空に、二人顔を見合わせて小さく笑みを零した。

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2009.12.13.