ぼくのなつやすみ
03.
ぴいぴいと機嫌良さそうに囀るひよこの片割れをポケットに、東海道は早朝の工場内を見渡す。準備に奔走している職員と業者以外はまだ静かなもので、常には存在しない案内板をチェックしながら歩く足取りも常よりも軽い。
そこかしこで声に出さずとも良し、と考えたところでポケットの中のひよこが「ぴい!」と鳴くのは、ひょっとしたら少しくらいは浮かれている己を見透かされているようで少し可笑しかったけれど。
ふ、と口元を僅かに緩め、場内は好天による熱気にさえ注意すれば大した問題は無さそうだ。後は交通状況のチェックを、と足を本部へと向けた所で、頭の上にひよこを乗せた弟が此方に歩み寄ってくるのが見えた。
「東海道」
「あ、兄さん!」
頭の上、という不安定な場所にも関わらず、あの場所を好んでいる小さいほうの一羽は慣れたもので、やや駆け足で此方に向かう弟の頭の上でも転がり落ちる様子すら無い。東海道は思わずポケットの中に入っている若干大きい一羽を見やったが、彼は特に思うところは無いのだろう、ちろりと己が入っているポケットの主を一瞥すると、直ぐにふい、と視線を物珍しい工場へと向けてしまった。
「兄さんと俺の路線は今のところ問題無し。ここ以外は天候が思わしくないみたいだから、若干の遅延は出るかも知れないけど」
「そうか。……出来れば、ここも含めて保って欲しいものだが」
ここ数日間の崩れがちな天候を思い出し、思わず眉間にしわが寄る。風雨に弱いのはわかっているが、それを当然と思う事は東海道の矜持に反する。特にこのような野外イベント、しかも遠方からの乗客が多い日は、余計に通常運行を心がける必要があるのだから。
何かを考え込むように顎に手を当ててうつむいてしまった兄の姿に、東海道は改めて気を引き締める。実際、このような場合に気を配らなくてはならないのは兄ではなく此方の方だ。停車駅間が離れている為に回復運転が可能な兄と違い、このエリアでは各停のみの自分が一端遅れ始めればそれを戻す事は難しい。首都圏と異なりダイヤに余裕はあるが、到着時刻が一分でも遅れれば兄との接続が難しくなる場合もある。
せめてこんな日ばかりは兄に迷惑はかけられない、と気合を入れ直し、同じ東海道の名を持つ弟はぐっと奥歯を噛み締めた。
「あ……忘れてた」
そして思わずこもった力で手の中のものを握りつぶしかけて、慌ててうつむいたままの兄の頭に職員から預かっていたものをぽすりと被せる。
「東海道?」
「此処の奴らから、兄さんにって。日差しが強くなるから被ってた方がいいよ」
兄の頭に乗せたのは、職員たちが被っているのと同じスタッフ用の帽子だ。無論己の分も預かってはいるのだが、頭の上に陣取ったひよこが強硬に拒否するので小脇に抱えたままだったので、すっかりとその存在を忘れていた。
けれど、自分は兎も角確かに兄は帽子くらい被せておいた方がいい。出来れば涼しい場所でじっとしていて欲しいのも事実だったけれど、こんな日にそれが出来るならばそもそも浜松に詰めたりはしないだろう。
今週末まで此処に兄が詰める為に犠牲になったのだろう上司の1人を思い描き、東海道の名を持つ在来線は心の中でひそかに両手を合わせた。東海道・山陽新幹線は、普通ならば1人で全路線を統括するような生易しいものではないからだ。
帽子のつばをちょいと掴んで、据わりの良い位置を探している兄を見守りながら、ぼんやりとそんなことを考えていれば、強引に襟元を引く感触にがくり、と膝が僅かに崩れる。慌てて姿勢を戻そうとした一瞬で頭の上に乗っかっていたひよこが攫われ、次いでぽすり、と己の頭上に何かがかぶせられる感触。
「に、にいさ……」
「日差しなど平等に当たるだろうが!」
だからおまえもちゃんと被れ!と相変わらず無駄に偉そうに胸を張って此方を見上げる兄の視線に、思わず相好がくしゃりと崩れるのがわかった。先ほどまで兄の頭にあった帽子が自分の頭に乗っかっている状況が可笑しいやらくすぐったいほど嬉しいやらで、先ほどしたのと同じように小脇に抱えたままの帽子を兄の頭へとぽすりと乗せる。
兄に攫われたひよこはしばらくお気に入りの場所を追われた事実にじたばたと抵抗をしていたが、兄がひょい、と先ほど片割れを入れたのとは逆のポケットに放り込めば、ぴい、と一声諦めたように鳴いてもぞもぞと潜り込んだ。結局このひよこたちは兄の傍らがお気に入りで、兄がいる限りいつものように傍若無人な行動に出ることもないだろう。
ただ、問題は。
「……死ぬほど合わねーんだよな、上官の制服とスタッフキャップ」
野球帽のようなフォルムの帽子と、威厳と装飾性の塊のような濃緑の制服はミスマッチもいいところだ。正直、オレンジ色の詰襟の自分でも微妙なのだから、兄のそれなど相当に妙な取り合わせになってしまっている。
「そいつらには悪いけど、やっぱ上着は脱ごうぜ」
熱射病にはならなくても熱中症になりそうだ、と告げれば、しばし考え込んだ後にそうだな、と意外にも返るのは了承の言葉。だからおまえも脱げ、と軽く背を叩く感触に、苦笑交じりに帽子を被り直す。
ああもう、本当に素直じゃないよな。お互いさまだけど。
高速鉄道の制服ほどではないにせよ、在来線のオレンジの制服も首まで詰まった厚手の生地で出来ている。正直炎天下の屋外での着用は想定されていないものだから、このまま歩いていれば根を上げるのは目に見えていた。しかも自分なら根を上げるだけで済むが、この兄ときたらぶっ倒れるまで無理をするのさえもたやすく予想出来るから始末が悪い。
ならば善は急げ、とばかりに己もまた兄の背を軽く叩き、揃って事務棟へと足を向ける。段々と高くなる太陽と共に気温も上がりつつあり、熱せられたアスファルトは靴底から熱を滲ませている。
それでも雨が降るよりはずっといい、と二人顔を見合わせると、どちらからともなくふわりと笑みを浮かべた。
2009.12.13.