ひよこ狂想曲オーケストラ
  青の章 「カモノハシと彼のカエル」


 疲れた。本っ当に!疲れた……。

 べったりと無人の会議室の机に頬を押し付けて、山陽は重く深い溜息を零した。指一本持ち上がる気もしない精神的疲労というのを初めて体験しつつ、全ての脳内活動を拒否する身体はひたすらに溜息を零すことしか出来なかった。
 会議室の窓からは、夕刻の眩しいほどのオレンジ色の陽光も既に見えず、深く浸み入るような夜の闇が入り込もうとしている。午後を丸々消費した会議という名の九州新幹線の独壇場は、何の建設的事項ももたらす事無くひたすら時間を消費したに等しかった。
 これが平行線だというのならばまだ気力もここまで消費はしなかったろうが、残念ながら己の意見とすりあわせる前の段階で挫折した会合に意義を見出せるヤツがいたら尊敬する。
 長年の付き合いになっている東海道新幹線もテンションが上がると人の話を聞かない悪癖はあるが、こうまで素晴らしく人の話を聞かない、というよりは聞く気が無い人物とは初めて遭遇した。というか、ひょっとしたら東海道が気張って尊大に見せている部分、その原型が此処にあるのでは、という疑念すら湧くというものだ。
 会議中、何度『山陽さんもう帰りたい……』と思ったことか。
一応西日本統括という立場もあるので頑張ってはみたものの、自分の隣に座っていた西日本の偉いヒトの乾いた笑いが耳から離れない。というかむしろあのつばめ様独演会を止めない九州のお偉方は何なんだ、何か変な宗教的なアレになっていないかJR九州。
 はあ、ともうひとつ零れた溜息はやはり重苦しく、早く業務に戻らなくては、と思うのに手も足も動かない。
けれども次の瞬間、片頬をテーブルに押し付けたまま、横になった世界をぼんやりと眺める山陽の袖を誰かがくいくいと引くのを感じた。
「……?」
 だらり、と垂らした左腕の袖口を引くのは、良く見慣れた水色のカモノハシだ。東海道のところのひよこほどではないが、上司であり保護者でもある己に懐いてくれているこのゆるい生き物は、そこそこ利口で気配りも出来る有能なカモノハシだ。
「なんだ、イコ?慰めてくれんの?」
 やさしーなあおまえ、とふにゃりと笑って、山陽は足元のカモノハシを抱き上げてぎゅっと抱きしめる。ぬいぐるみにはありえない生き物の温かさに泣きたい気分になりながら、それでもちょっとだけ元気が出たなあ、と温かい気分になった。
 ……のだが。
「グワ、クワァっ!!」
 ぺしぺしと水色のカモノハシの短い手が、山陽の腕を抵抗するかのように叩く。足もじたばたと動いていて、どうやらこの状況は彼のお気に召さなかったようだ。
 なんとなく己の気分に水を差されたような気分になりながら、それでも無理強いをする気にもなれず、山陽は腕の中のカモノハシを先ほどまでべったりと張り付いていた机の上にひょいと置いてみる。
「なんだよー、また東海道んとこのひよこでも見つけたのか?」
 間近で細い目をしたカモノハシを覗きこめば、ぺしりと小さな手が山陽の寝ぼけた額を叩く。痛くもかゆくもないが何かしらの抗議はあるのだろうとだるい身体を起こして向き直れば、黄色いくちばしをつい、と部屋の隅の方へと向けた。
「へ?ナニ?」
 ぴょい、と机の上から危なげなく飛び降りたカモノハシは、ぺたぺたと独特の足音を立てて広い会議室の隅っこ、会議中はJR九州の面々が座っていた辺りへと向かう。
 またいったい何を見つけたんだ、と首を傾げつつ後を追った山陽の足元に、こつり、と何か固いものが当たった。
「……とけい?」
 丸型の赤い時計に手足と芽が生えたような謎の物体が、山陽の足元に転がっている。それが当たったのだ、と気付くのと、水色のカモノハシが手足をばたばたさせて示した先に緑色のカエルを発見するのは、ほぼ同時だったように思う。
「イコ……なんでおまえはそう面倒そーなモンばっかり見つけてくるかな……いや見つからない方が問題なんだけどさ」
 ひっくり返ったカエルそのままの姿で机の下でのびている赤いシャツを着た物体。それはまさしく先ほどまでの会議中にJR九州勢が連れていたかの会社のICカードマスコットキャラに違いない。
どういうわけか知らないが、置いていかれてしまったらしい時計とカエルの姿に、山陽は更なる疲労感を覚えてがっくりと肩を落とした。



■ ■ ■



「……それで何故そいつを此処に連れてくる、山陽?」
「いだ、いだだだ!腕抓りながら問い詰めるのはやめて!!」
 新大阪の執務室、東京駅のそれより若干……いやかなり安っぽいソファの上には、借りてきた猫ならぬ借りてきたカエルと時計が、ちょこりと座っている。
 シュールな光景だよな……と我ながら思わないでもなかったが、夜も更けようとしているこの時刻にカエルと時計(……。)に単独で九州に帰れと言うのも酷だし、だからといってこれを連れて再び九州新幹線に会うなどという自殺行為を、山陽にはとてもする気にはなれなかった。

 ならば、取れる手段はただひとつ。

「ま、迷子なんだから仕方ないだろ!不可効力だって!今日のところは預かっといて、明日九州に返しに行くから!頼むから今夜だけは勘弁してやってくれって!!」
「私はつばめが嫌いだ!九州と名のつくものも嫌いだ!」
「そこまで?!つかおまえさんとこだって九州ツアー企画してんだから譲歩しろよそのくらい!」
 ぎゃんぎゃんと騒ぎたてる東海道の叫び声を耳を塞いでやり過ごしながら、思い切り抓られた腕をさする事で宥める。どうして俺にだけこんなに暴力的なんだコイツは、と不条理な現実から逃避したい気分になりながら、ふーふーと毛を逆立てた猫のように肩をいからせて山陽を睨む東海道の頭にぽふりと手を置いた。
「なー、ホント今晩だけだからさ?明日の朝には俺が責任持ってあっちに連れてくし、オマエに迷惑はかけないから……」
 じとり、と胡乱な眼差しが下から山陽の視線に混じり合う。僅かに青い双眸はひどく真っ直ぐで、これを逸らしたら二度とこの話を承諾させられないことを知る山陽は、ぐっと堪えてその綺麗な色を視界の中心に据えた。
 気紛れな猫のように、暫くの間無言で視線を合わせたまま微動だにしなかった東海道は、唐突にふい、と視線を逸らしてくるりと踵を返した。
「……私は知らん、好きにしろ。だが私の傍にそれを寄せるな」
 ああいうところが本当に猫っぽいんだよなあ、と苦笑を堪えながら、指先から離れた柔らかい髪の感触を残念に思う。彼の許容量が低いのも沸点が低いのも今さらの事だったから、これは東海道的には相当な譲歩であることくらいは理解できる。
「ん、あんがとな。……というわけでカエル、今夜は山陽さんとこでお泊まりだからなー」
 もう此方には見向きもせずに己の机へと向かってしまった東海道の背中に苦笑を洩らし、山陽は背を屈めてソファの上のカエルの顔を覗き込んだ。ぴくり、と時計を抱えた腕が揺れたのは、知らぬ部屋と知らぬ人間に、カエルはカエルなりに緊張しているということなのかも知れない。

「ゲ、ゲロ……」
「あー東海道の事は気にすんなって。明日の朝にはちゃんと九州んとこに……」
「……ケ、ケ、ケロ!!?」

 九州、と山陽が口にした瞬間に、あからさまに赤いシャツを着たカエルの肩がびくり、と跳ね上がる。無機物なのか有機物なのか判断が付け辛い時計もまた、文字板の上を動く短針と長針ががたがたと震えながら変なリズムを刻んでいる。

 え、何コレ、どーゆーこと?

 唐突な状況の変化に付いてゆけないままに呆気に取られる山陽の目の前で、件のカエルはただでさえ緑の顔色を真っ青にしてがたがたと震えた挙句に、ソファの背の部分とアームの部分の継ぎ目の隙間に頭を突っ込んで無理矢理隠れようとしている。
え、それ、どう考えても物理的に無理じゃね?とは思うのだが、錯乱しきったカエルにはそこまで判断は出来なかったようで頭隠して尻隠さず、どころか頭も隠せていない状況で、赤い時計を抱き締めてソファの隅に縮こまっていた。
「クワァ……」
「あ、イコ」
 それまで大人しく彼の定位置になっているテーブルの下の座布団の上でうつぶせに寝転がっていたカモノハシが、むっくりと身体を起こして這い出してくる。よじ登るようにしてソファへと乗り上がった彼は、がたがたぶるぶると震えるカエルの肩にぽん、と短い手を置いて、宥めるように一声小さく鳴いた。
「グ、グワワ」
「ゲロ……」
 おそるおそる、といった様子でソファの隅から顔を上げたカエルは、再び所在ない様子でちょこんとソファの上に腰を下ろした。けれども、先ほどまでよりも周囲を忙しなく伺い、どこかおどおどと小さくなっている様子は拭いきれず、山陽とカモノハシは思わず顔を合わせて同じ方向へと首を傾げた。

 ――どうやら、このカエルの反応から察するに相当「つばめ」が苦手なのだろう事は分かる。……分かるのだが、JR九州のICカードであるところのこれを九州に帰さないわけにもいかないだろうし。
 どうすっかな、と顎に手を当てた山陽とふよふよと左右に肩を泳がせるカモノハシの一人と一匹は揃って思案に暮れてはみたものの、建設的な方策など浮かぶはずもない。

「……相変わらずか、あれは」

 聞こえた声が誰のものなのか、山陽と水色のカモノハシは一瞬判断出来なかった。
ふう、と零れた溜息の重苦しさは酷く実感が籠っていて、ぴくり、とカエルの伏せられた視線が上を向く。
呆然と立つばかりの山陽とカモノハシの傍らをすり抜けるようにして、白い手袋が小さくなっているカエルを掬い上げた。
常よりも更に深い皺を眉間に刻み、その肩は薄くともJRという巨大グループを背負う自信に充ち溢れた濃緑の制服。その名を山陽が喉の奥から吐き出す前に、何かを戒めるような押し殺した声で東海道は赤いシャツのカエルに問いかけた。

「……つばめは嫌いか、九州のカエル」
「ゲ、ゲロ……!」

 思ってもみない、けれど己の本音を言われた、とカエルの驚愕の表情が何よりも露わに語り、また山陽も先ほどまで駄々っ子よろしく『九州は嫌いだ!』と叫んでいた男と同一人物だとは思えない東海道の物言いに、ぽかんと口を開けて状況を傍観することしか出来なかった。
「私は嫌いだ。あれの行動も心理も私には全く理解できん。そこのモノ好きのように自ら関わるなど以ての外だ。
――だが、貴様はそうはいかんだろう」
 摘み上げたカエルの双眸を真っ直ぐに覗きこみ、淡々と告げる言葉は冷静に考えれば相当に酷い。特に言外にモノ好き呼ばわりされた山陽には更に酷い。
 俺だって好き好んであんなのと折衝してるわけじゃないんだけどな、と遠い目をした山陽の脛を慰めるようにカモノハシがぱしぱしと叩く。
ああ、本当にオマエは優しいよイコ。ただ、いつかその面倒見の良さでどっかのペンギンとかひよことかに泣かされない事を願うよ、山陽さんとしては。
どこかズレた思考を繰り広げる山陽を蚊帳の外に、東海道の傲岸不遜とも言えるような言葉は更に続いてゆく。
「あれを苦手に思おうと嫌いだろうと、貴様はあれの傍にあるべきものだろう。そう既に定まってしまったものを覆したくば、己のその才覚で為すべきだ。……違うか?」
「ゲ、ゲロ!!」
 弾かれたように肩を震わせ、カエルはじっと東海道の眼を見据えている。そこにあるものが真剣なまでの本音だという事は誰の目にも明らかで、誤魔化しや嘘が欠片も存在しない東海道特有の愚直なまでの言葉の鋭さは、けれどもこのカエルには必要なものだったのだろう。
「ケロケロケロ!ケロ、ケロロ!!」
「……何を言っているのかさっぱりわからんが、元気は出たようだな」
 僅かに苦笑を刻み、東海道はカエルをソファの上にそっと下ろした。時々ひよこにしているように頭を撫でたりすることはせず、あくまで慣れ合いにならない程度に距離を置く。けれどもそれすらこのカエルには新鮮だったのだろうか、瞳に輝きが増したような気がするのは山陽の錯覚だろうか。
 どっかでこんな視線と空気に遭遇したな、と山陽に思わせる視線で東海道の事を見据えているカエルと、そのカエルを見下ろす東海道。――その両ポケットでぴよぴよ鳴いているひよこの存在さえなければ相当に格好良かったかも知れない。
「ケロ!ケロケロ!!」
 何かを訴えかけるように鳴き、そっと縋るように袖を引くカエルに、東海道はくしゃりと困ったように笑みを零した。
「うん?――そうだな、私はつばめが嫌いだが、だからといって貴様までも嫌うのは筋違いだな」
 悪かった、と告げる東海道の率直な詫びに、カエルの瞳が更に輝く。
なんというか、その、どこがツボだったのかさっぱりわからないが、あの九州のカエル的に東海道新幹線は『好きなモノ』のカテゴリに入れられたらしかった。それも相当に高レベルの。
 そこまで考えたところで、唐突に山陽はこの既視感の理由を理解する。

 ああ、そうか。この光景は。
 東海道と彼の部下、その微笑ましくも甘痒いような、どうにもじれったさに苛まれる姿に良く似ているのだ。

なんというかとてつもなく居心地の悪い光景を目の前にして、山陽は深く溜息をつく。そして同じような溜息を零すカモノハシの姿に、コイツは俺と一緒で貧乏籤を引く定めにあるのかと気の毒にさえなった。……傍らのカモノハシにも、己の上官の不幸体質を憐れまれているとは気付かないままに。
山陽は己の傍らに同じように微妙な表情で立ち尽くすカモノハシと顔を合わせ、良く似た乾いた笑いを漏らしたのだった。



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2010.05.25.(オフ本再録)