ひよこ狂想曲オーケストラ
  緑の章 「関東ペンギン伝説」


 吾輩はペンギンである。
 名前は「Suica」、JR東日本のICカード、そのマスコットキャラクター。
むろんただのペンギンではない。
JR東日本という巨大企業をバックにした相互利用の促進によってほぼ首都圏の鉄道網はすべて自分で乗る事が可能となり、また新幹線にも相互利用は広まった。
どうやら私鉄には「Pasmo」などというふざけたロボットもいるらしいが、東海や関西でも相互利用可能な自分にとって、あのようなピンクの物体はまったく以て敵ではない。
それでなくても鉄道ICカードといえば「Suica」、「Suica」さえあれば他のカードは要らないと言っても過言ではないと信じている。
つまりは、自分はICカードとして相当スゴイと思うのだ。

……なのに、どうして己を膝の上に載せたまま困惑するだけのこの人はそれを認めてはくれないのだろうか。
 深緑色の制服の膝の上に居座って数刻、明らかな困惑を顔に刷いた彼は、自分を拒否もしないが許容もしてくれてはいない。先ほどから彼の困惑を知りつつも居心地の良さに離れ難い膝の上から伝わる体温は、己が知る限り無理をしている時の京浜東北と同じかそれ以上に低かった。
 別に心配なんかしているわけではない、あまり温かくないと居心地が悪いだけだ、と己に言い聞かせながら、丁度直ぐ上の位置にある彼の困惑した相貌を仰いで一声鳴いた。
「グビィ!グ、グエッ!」
「何だ?私の膝からどいてくれる気になったのか?」
 ……全く通じなかった。
しかもどうやら彼は己の事を邪魔に思っているようだ。この首都圏を掌握するSuicaを?!……甚だ心外な事である。
「「ぴぃ!」」
 彼のポケットの中から、二羽分のひよこのさえずりが聞こえる。
 『じょーかんのポケット嬉しいけど、ぼくたちいつまでここにいていい?』と尋ねる彼らの声は同じように彼には届かないのだろうけれど、ひよこたちの声に途端に慈しむような柔らかさを増す彼の表情が酷く不愉快だ。
 おまえらも邪険にされればいいんだ、とぺちぺちと彼の膝を叩いてみるものの、もう彼の意識はポケットの中のひよこ二羽に向けられたままSuicaの事など気に留めてもくれなかった。
「どうした、TOICA」
「「ぴ、ぴぴっ」」
「ああ、もう少しそうしていろ。もうすぐ東海道が迎えに来るから、そうしたら名古屋に連れて帰ってくれるからな」
「「ぴぃ♪」」
 ……どうしてこのひよこたちの言う事が理解できるのに、自分の声は彼に届かないんだろう。『じょーかんのポケットすきー、とーかいどーが来るの、もうちょっと遅くてもいいな♪』と楽しそうに鳴くひよこの声が不愉快で、むっとしたまま手足をばたつかせてみる。
「わっ、こら、落ちる……!」
「グワッ!」
 ぐらり、と傾いだ自分の身体は、自力では支える事が出来ず、また彼の伸ばした手も間に合う事無くころりと膝の上から転げ落ちた。下は絨毯だから痛くはないけれど、あの低い体温の筋張って細い、だけど居心地は決して悪くなかった場所から離れてしまった事が無性に切ない。
 ぴいぴいと鳴くひよこの声すら己を馬鹿にしているように思えて、Suicaは苛立ち紛れに、己が落ちた場所の隣で濃緑色のスラックスを背もたれにして、元から開いているのか閉じているのかわからない糸目でうとうとしていた水色のカモノハシを思い切り蹴りつけた。
「グビィ!!」
「ク、クワァッ?!」
 唐突なペンギンの暴挙に、糸目のカモノハシはころりと背もたれにしていた彼の足から離れて一回転、その状況を理解し切れなかった様子で驚愕の声を上げる。全く何が起こったのかわからない、という風にきょろきょろとあたりを見渡して、あるのか無いのかわからない首を僅かに傾げた。
「グワァ……?」
 ようやく仁王立ちして睨みつけているSuicaの存在に気づいたらしいカモノハシは、何を怒っているんだ、と落ち着いた声で問いかけてくる。理不尽な怒りをぶつけたのに理性的に対応された事で更に腹立ちは募り、短い水かきのついた足でぺったぺったと地団太を踏むが絨毯にペンギンの足では威圧感も何もあったものではなかった。
「何をしているんだ、おまえたちは……」
 頭上から溜息交じりの声が聞こえて、白い手袋に包まれた細い指がひょい、とSuicaの脇辺りを抱えて持ち上げる。暴れる間もなくちょこん、と先ほどまで陣取っていた膝の上に座らされた状況に呆然となっているうちに、彼はカモノハシもひょい、と抱えてソファの隅、彼の直ぐ隣に座らせる。
「私の仕事の邪魔をしないというのなら其処で大人しくしていろ。おまえたちはまとめて東海道に持っていってもらうからな」
 最後通告のような彼の言葉に、彼に従順なひよこ二羽は揃ってぴぃ!と返事を返す。Suicaには『いえす、じょーかん!』と聞こえたひよこの声は彼には届いていないのだろうが、その言葉は主にSuicaの世話をしてくれている東日本の在来線たちが高速鉄道に向けるのと同じものだ。
 けれどそれが己の知る在来線たちが告げた時と異なるのは、ひよこの言葉を解しているわけでもないのに口元を僅かに綻ばせ、満足そうにうっすらと笑う彼の表情。Suicaが良く知る在来線たちが同じ言葉を彼に告げても、彼は当然とばかりに凛と前を見て省みることすらなく歩み去るだけだったから。
 ポケットからちょこんと飛び出たひよこの頭を指先で撫でて、彼はテーブルの上に放ったままだった書類の束をその手に取った。彼の机の上はいつでも書類で山が作られていて、Suicaの知る限りそれはどの高速鉄道よりも高さを築いている。
 滅多に入る事は無い高速鉄道たちの部屋で、けれどいつでも彼はその机に向っていた。長野上官や秋田上官はSuicaが入って行けば歓待してくれたけれど、彼だけは何の反応も向けてくれる事はなかった。やがて西日本のカモノハシが東にもやってくるようになっても、彼が興味を向ける様子は無かった。

 だから、ずっと彼は自分たちに興味がないのだと思っていた。
 ……そう、あの東海のひよこたちがやってくるまでは。

 自分たちが向けられた事もない甘やかな表情で黄色いひよこを手に語りかける彼の横顔を見た瞬間、覚えた感情は今思えば「不愉快」に近かった。
とはいえ、そもそもSuicaにとっては彼の存在自体が不愉快なのだから、彼に属する最たるものであるあのひよこたちと合わさればより不愉快なのは当然の帰結だろう。
 他の東日本の高速鉄道たちや、気さくな西日本の高速鉄道と違って、彼は徹底してSuicaとの距離を取った。頑なに己の領域への相互利用を許さず、ただ一人高い場所を走り続けている。
 自分というICカードを正当に評価しない高速鉄道。だからこそ、Suicaにとって「東海道新幹線」は高速鉄道のリーダーでありながら出来るなら避けたい存在であり、またそうしてきた。彼の方でも自分に興味など向けなかったから、それはむしろ好都合だったはずだというのに。

 ポケットから覗く二羽のひよこたちに、彼は小さな声で薄く笑いながら語りかける。それは普段の規律正しく厳しい彼の横顔からは想像もつかないくらいに優しく柔らかい。


 ――自分は、あんな表情をする彼は知らない。



■ ■ ■



 長いようで短い時間の後に、慌てた様子で兄の元を訪れた東海道弟の手で、自分たちは彼の元から持ち帰られてしまった。オレンジ色の制服の、彼とよく似た容貌の在来線は深く溜息を落としてSuicaとICOCAの頭を軽く小突いた。
「おまえらなあ、何で揃ってよりにもよって兄貴のところに押しかけてんだよ。こちとらおまえらがいないからってんで在来総出で探しまくったんだからな」
 グワァ……、と反省するようにSuicaとは逆の腕に抱えられたカモノハシがうつむいたけれど、Suicaにとっては慣れ親しんだ世話係の一人である。別に反省すべき点は無い、とばかりに東海道の右手の中でふんぞり返り、ぷい、とそっぽを向く。
 このワガママペンギン……!とオレンジ色が呟くのは聞こえたけれど、もう少し来るのが遅かったらあの膝をもうちょっと堪能できたのに。そんな機会はそう簡単には来ないだろうことは理解しているSuicaは、喉の奥を鳴らしてもやもやするものを抑え込んだ。
 東海道の頭の上ではそこを定位置と決めているのか、ひよこ二羽がぴいぴいと好き勝手に囀っている。「おまえらも自分のエリア抜け出して来るなって言ってんのに……」とがっくりと肩を落とすものの自分やカモノハシのように小突かれるでもなく放置されるひよこの特別扱いに更に腹立たしさは募り、ばたばたと手足を動かして暴れてみる。
「おわっ、ちょっ!Suica!?」
「グビィ!!」
 彼に良く似た容貌の、けれど彼よりずっと温かい手のひらが腹立たしい。どうして、という疑問は形にならないまま蟠っていて、それが余計に苛立たしさを助長する。
『『Suicaどーしたの、どーしたの?』』
『何を怒ってるんだ、オマエ?』
 二重になったひよこの声と、心配そうなカモノハシの声が聞こえた瞬間に、かっと目の前が真っ赤になるような錯覚を覚えた。ぱしり、と己を抱えた東海道のオレンジ色の腕を払い除け、ぺたぺたと今抱えられてきた道を一目散に駆け戻る。
 狼狽したような東海道の声が背後から聞こえたけれど、今はただ彼へ己が抱える苛立ちの正体を確かめることこそが最重要な課題に思えてならなかった。
 普段はきちんと閉められている重厚な木製のドアは、先ほど東海道がおざなりに閉めたので若干空いている。それを幸いとばかりに身体全体を使って抉じ開け、先ほどと変わらぬ姿勢で書類に意識を向けている彼に向って一声高く鳴いた。
「グビィ!!」
「……Suica?」
 すい、と上げられた視線と、ぱちりと瞬きがひとつ。そうすると普段の厳めしいほどの風貌が一変する事もまた初めて知りながら、ことりと首を傾げる彼の足もとへとぺたぺたと駆け寄った。
「なんだ、私に何か用でもあるのか?」
 手にしていた書類を机上に戻し、見上げるSuicaの傍らに躊躇いなく膝をついて、彼は真っ直ぐにその視線を向ける。
 その漆黒の中にも僅かに青を含む彼の眼、此方に寄せる視線に含むものが純粋な疑問だけだとわかった瞬間、がらがらと崩れ落ちるような自覚を味わわざるを得ない。
 彼にとっての自分は、単なる小動物以外の何ものでもないのだと、その視線こそが物語る。どんなに己が有能であると訴えたところで通じないというのなら、彼の興味をより引くのがあの無力で小さなひよこ二羽だとしても仕方無いと認めねばならないのだろうか。

 自分と彼は関係ない。
そう断言できたのなら、きっと楽になれるのに。

 困ったようにSuicaの顔を覗き込む彼に何を伝える事も出来ないままに、ぺたん、とその場に座り込む。Suicaのペンギン生(?)で今まで味わった事のないような無力感に苛まれながら、ふるふると頭を振った。

 ……もう此処には、きっと来ない。

そう心に決めてくるりと踵を返すペンギンはひどく不可解だったろうに、彼はぺたぺたと肩を落として去ろうとするペンギンに向けてそのよく通る声を向けた。

「……Suica、東北から聞いているか?」
「グェ……?」

 己の所属する東日本を事実上統括する高速鉄道、その名を出されてSuicaはぴたりと足を止める。
己の所属する東日本、その高速鉄道の一柱たるかの無口な上官が、けれども他の誰も真似できない不器用なやり方で頭を撫でる、その乾いた手のひらの感触をSuicaは決して嫌いではなかったから。
 おそるおそる、と振り向いたSuicaの目の前で、少しだけ呆れを含んだような微苦笑を浮かべ、彼は内緒話を告げるように静かに囁いた。
「限定的ではあるが、私も今年の春からおまえとの相互利用が決定された。東日本より少しばかり遅くはなるが……」
 よろしく頼むぞ、とSuicaの頭を撫でた手袋越しでない手のひらはやはり少し冷たくて、時々触れる彼の弟の温かいそれとは異なっていたけれど。困ったように笑うその表情はひどくよく似ているのだと、Suicaはここでようやく気付いた。
 この優しくさえある声と手のひらが、彼にしてみれば破格の待遇だったのだと。そう気付くまでにはまだもう少しだけ時間が必要だったけれど。

 この高速鉄道の王様が向けた信頼に応えるべく、Suicaは一声大きく鳴いて慣れた仕草で胸を張った。



 二〇〇八年三月二十九日。

 JR東海ICカード『TOICA』とJR東日本『Suica』、並びにJR西日本『ICOCA』の相互利用開始。
それに伴い東海道山陽新幹線のチケットレスサービス『EX‐IC』は、モバイルSuicaでの利用が可能に。

 こうしてまたちょっとだけ、日本は便利になりました。



■ ■ ■



「……で、何故おまえたちはまた私のところに来るんだ」

 膝の上には白黒ペンギン。
 座るソファの傍らには水色カモノハシ。
 両のポケットには黄色いひよこが二羽。

 過去の情景を彷彿とさせるような小動物たちに、東海道は眩暈を堪えるように額に手を当てた。
 何の因果か彼らに懐かれ、隙あらば己の傍らに寄ってこようとする彼らを無下にも出来ずに放置していた過去を呪ってやりたい気分だ。
 不器用な上に元々こういった小動物との相性は決して良くない自覚はあったから、自分からはなるべく近づかないようにしていたというのに。
 彼らの内でどんな結論が出たのかは見当もつかないが、暇さえあれば否無くとも彼らの世話係から脱走してでも東海道の傍に来ようとするこいつらの意図はいったいどこにあるというのか。
 別に餌を与えたわけでも特別優しくした覚えも(ひよこ二羽以外には)無い東海道としては、もう首を捻る以外に何が出来ようか。
「おー、また見事にたかられてんな東海道!」
「他人事のように言うな山陽!というか一匹は貴様の管轄なんだから連れて帰れ!!」
 飄々とした態度でからかうように告げる同僚に、東海道は身動きも取れずに叫び返す。傍らでどうやらうとうとしていたらしいカモノハシは、二人のやりとりに目を覚ましたらしく、見上げた先に良く見知った茶色い髪の上官を見つけて声を上げた。
「クワ!」
「おおイコ、まーた来てたのかオマエ」
 東海道の隣で元気よく片手をあげてみせるカモノハシに、山陽はにっかりと笑ってその頭をがしがしと撫でる。些か乱暴な仕草にも思えたが、当のカモノハシは嬉しそうにそれを受け入れ、己を持ち上げる腕にも抗う事は無かった。
「いーじゃん、そんだけおまえさんが好かれてるってことだろ?小動物は人間の本質がわかるんだっていうし」
「うるさい!!仕事の邪魔をされる私の立場にもなれ!」
 眉間に盛大な皺を刻みながら叫ぶ東海道は、けれども膝の上のペンギンを振り落とすでもなくポケットの中のひよこたちを追い出すわけでもない。むしろ彼らに気を使ってソファに居る事さえ理解できてしまう山陽としては、もう笑う以外に何が出来ようか。
 これでは仕事にならない、書類が溜まる、とぎゃんぎゃん喚く東海道をそれでもどうにか宥めていた山陽の視線が、ご機嫌そうに東海道の膝上で身体を左右に揺らすペンギンのそれと一瞬交差する。
 まるい目がぱちりと見開かれた後に、満足そうにくふんと漏れた吐息。ああコイツもか、と苦笑を刻んだ山陽の腕の中で、水色のカモノハシが呆れたような声を零した。


 彼の膝は相変わらず筋張って固いし、彼の手は相変わらずどきりとするほど冷たいけれど。
 それでも自分を自分として認識して向けられるものが、決して無関心ではないのだともう知っている。

 彼のポケットで『Suicaの意地っ張りー』『素直じゃないよねー』と囃し立てるひよこたちは彼が居ない場所で目に物見せてやることに決めて、彼の濃緑の制服にそっと己の背を預けた。



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2010.05.25.(オフ本再録)