03.multiplication的paradox



 現在、警察の捜査線上に浮かんでいる人物は4+1名。
 被害者の勤務先の社長、小田島康之。
 会社の実権がほぼ被害者にある現状を、事あるごとに回りに愚痴っていたらしい。被害者の存在が邪魔であったことは想像に難くないが、逆に言えば被害者という人材の損失はそのまま彼の地位を危うくさせるものでもあるため、自殺幇助の動機としてはやや弱くもある。
 更に、死体遺棄については全く利益がない為、あまり重要視はされていない。
 被害者の秘書、清水正敏。
 家族を除けば被害者の憔悴状態を最も良く知る人物の一人であり、会社人として被害者に心酔していた事実は誰もが認めている。
 死体遺棄、という一点に於いては最も動機を持つ人物ではあるが、仲が良いのは会社内のみであり、そこまで被害者のプライベートに踏み込む関係ではなかったとの証言もある。
 被害者の妻、山科咲江。
 仲の良い夫婦として近所には知られていたが、反面仕事人間である被害者に対する不満もあったようだとの証言が有。特にここ数ヶ月の被害者の憔悴ぶりに危機感めいたものを漏らしており、事件性の提示という意味では死体遺棄の容疑は拭いがたい。
 しかし、彼女一人で遺体を清め四駅離れた関連性のない温泉旅館に放置することは事実上不可能であり、あまり捜査上で重要視はされていない。
 そして第一発見者、工藤新一とその友人黒羽快斗。
 彼らに関してはほぼ無関係、被害者との関連性は全くない。旅行中に居合わせてしまった不幸な二人、という認識のみ。
 むしろ『高校生探偵』として有名な彼からの協力の申し出を、諸手を挙げて歓迎している風でもある。
 以上が現在の警察の見解であり、以後の捜査に生かされるべき手がかりでもある。愛用の手帳を繰りながら告げる水谷刑事の言葉に、特に最後の一項にやや面映いものを覚えつつも、新一は宿のロビーで彼の報告を聞いていた。
 捜査はどうやら事件性を視野に入れつつも被害者の自殺+死体遺棄の方向で固まりつつあるらしい。
 さてどうしたものかと首を捻る新一の向かいの水谷刑事の視線が何かを探すように彷徨うのを指摘すると、彼はややびっくりしたように動きを止めて苦笑する。
「いやいや…件のお友達は、どうされたのかと」
「ああ…アイツは」
 この場に居ない、対外的には親友現実はそれ以上の恋人である怪盗兼魔術師の事を訪ねられた探偵は、にっこり、と天下無敵の猫かぶり笑顔を浮かべ、一言のたまった。
「ちょっと、働いて貰ってます」



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「新一君は人使いが荒いよね〜」
 まあそれも名探偵だから許すけど、と整髪料で撫で付けていた髪をくしゃくしゃと掻き回してはふりと息を吐き出す。
 よく似た容姿を生かして、新一が依頼したのは被害者の家族への聞き込み。警察の視点からでは得られることのない、けれど二人の中では既に事実と認識されている仮定を検証する為。
 真実を見通す名探偵の慧眼とIQ400を誇る怪盗の正確な未来予測は、外れる事無く事実であると、得られた家族の証言に快斗は確信する。
 自分でも便利だと思う快斗の特技は、そのべらぼうに高い認識能力と記憶力。一度見たものはそう簡単には忘れないし、常人よりその認識範囲は広い。
 オマエがいればカメラもレコーダーもいらねえなあ、とは東都でとある事件に遭遇した名探偵がのたまった言葉だ。とはいえ、それは1を言えば10を理解する探偵の理解力あってのことだと快斗は思うのだが。
「ま、そういうすっとぼけた新一君も大好きだから仕方ない」
 くすり、と笑みを零すのは互いに互いを認識せずに起こった偶然の邂逅と、揃って偽りを纏って嘘を重ねて出会った現実を思い出したから。
 ドキドキワクワクするスリルをくれる彼は、その姿が変わろうと向く先が変わろうと、決して薄れる事無く快斗にとって光だった。
 暴くもの、照らすもの、そして何より、癒すもの。
 だからこそ、傍に居たいと願う。彼が自分にくれたものを、少しでも返せればいいと願っている。
 証拠品は被害者の書斎のくずかごから、いとも呆気なく発見された。
 後ほど来訪するだろう警察に伝えてくれ、と指一本触れずに被害者宅を辞して来たが、その正確無比な記憶力を誇る頭には位置関係から微細な形状まで、しっかりと叩き込まれている。
 このカードを使って、名探偵が探し出す真実が痛みを伴っても救いとなればいい、と漠然と考えながら。
 黒羽快斗は足早に、新一が待つ宿へ戻るべく駅前のタクシーロータリーへと足を向けた。



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 大浴場で遭遇した死体から始まった事件。
 名探偵と大怪盗を巻き込んだそれを収束すべく、新一は快斗からのメールを一読して溜息を付いた。
 現在続行中の検死の結果も、快斗が戻り水谷刑事に事件の真相を説明する頃には終わっているだろう。
 そうすれば、この事件における自分の役割も終わる。
「水谷さん、僕と快斗は明日には東都に戻ります。が、その前に…この事件に対する僕の推理をお伝えしておきます」
 かちん、と小さな音を立てて携帯を折り畳みポケットに押し込むと、意図的に怜悧な眼差しを形作り目の前に座る刑事をひたりと見据えた。
「僕が持っているカードは、あくまで事件の外殻を明らかにするものでしかありません。そこに付随する情動や感情の類を全く無視した推理である事をご了承頂けますか?」
「…わかりました」
 目の前の探偵の本気を感じ取ったのか、どこかゆるい雰囲気を漂わせていた刑事はぴしりと背筋を伸ばし手帳の白紙のページをめくりペンを構える。
 その無駄のない所作を眺めていた探偵・工藤新一は、準備が整った事を察知して口を開く。
「最初に、僕が被害者の死体を発見した時から違和感はありました。
そう、宿泊客でもないのに浴衣を着せられていたのはどうしてか。宿泊名簿を調べずとも、従業員の聞き込みだけで彼が宿泊客ではない事は容易に知れる。
つまり危険を冒してまでこの旅館の浴衣を入手し、屋外とはいえ敷地である浴室内に目撃されるリスクを犯してまで決行した。つまり、この一連の行動には犯人にとってリスクを上回る価値があったという事です。
ならば被害者の死体を遺棄した犯人の目的は何処にあったのかと言えば、それは」
 ぺろり、と乾いた唇を舐めて『日本警察の救世主』とさえ称される工藤新一は、ゆっくりと顔を上げる。蒼の双眸が見据えるその真実が、欠片たりとも誤りではない事を指し示すように、静かに、けれど確かに。
 その一言を、口にする。
「他の誰でもない、僕を引っ張り出す事だったんです」



 携帯の送信ボタンに置いた指が、何処か重いように感じてしまったのはどうしてだろう。
 人の死、というものがこれほどまでに軽いのだと、知っていたはずの快斗すら思い知らされる事件。こんなものに関わり合う事を己に課した新一の痛みを、何処まで共有できるだろう。
 後悔、はしていない。きっとそれは新一とて同じ事。
 ただ、幼い子供の頃からの憧れで探偵を志し、努力と、そして才能にも愛された少年は見る間に名探偵として名を馳せた。
 けれども、メディアの寵児だった『工藤新一』は『江戸川コナン』を経て、きっと現在では過去の自分を苦々しく思っている。
 聞いた事も話した事もないけれど、快斗にはわかる。快斗にしかわからない。
 かつての自分が居た世界の狭さと、自分の罪と罰を自覚した人間に光しか知らなかった頃はあまりに眩しすぎるように、痛みを知らなかった過去はとても苦しい。
 快斗と新一の予想が正しければ、被害者は厳密には自殺とは言えない。非常に周到に仕組まれた罠は、彼が自ら踏み外す機会を構築したのみでひょっとしたら具体的な罪には問えないかも知れなくても、それでもやはり『自殺』では有り得ない。
 自分たちと同じぐらいの年頃の被害者の息子、そのやりきれない怒りと悲しみに満ちた目を思い出して、快斗はゆるゆると息を吐いた。
 父親を失った痛みは、自分とてよくわかる。その理由が理不尽なものであるからこそ、覚える苦しさは尚更に。
 けれど、同時に新一と快斗の予測が正しければ、きっと彼は今以上に苦しむ羽目になるのだろう。
 ぎゅっと眉根を寄せ、きつく奥歯を噛み締める。
 真実は優しいものなんかじゃない。
 それは月下で怪盗が紡ぐ泡沫の夢のように頼りないものではないけれど、ともすれば人の心を容易く切り裂く鋼のようなもの。
 扱いを知らぬ輩の手にあるだけで、傷と痛みを増やしてゆく諸刃の剣。
「…名探偵は、どうする?」
 怪盗にはこれ以上の事はしてやれない。けれど。
 その真実こそを追い求める探偵は、彼らに何が出来るだろう?
 願わくば誰も傷つかない結末があれば良いと願いながら。
 怪盗はロータリーに停車しているタクシーのうちの一台へと歩み寄った。




 かさり、と抱えていた数枚の書類を目の前で呆然と話を聞く刑事の前に指し示す。
 幾つかの専門用語と、奇妙な図形にも似た形に構築された構造式。
 意味もわからぬまま視線を泳がせた水谷刑事に視線を固定したまま、淡々と探偵は己が得た事実を並べ立てる。
 それこそが、おそらくはこのまだ子供とも呼べるだろう年齢の存在を『名探偵』たらしめる要素なのだと、漠然と過ぎった思考は多分正しい。
 広げられた数枚のうちの一枚を指して、静かに工藤新一は語り始めた。
「検死結果が出れば判明するはずですが…被害者は、恐らくDDVPの中毒状態にあった筈です」
「…薬殺、ですか?」
「いいえ」
 聞き覚えのない単語の登場に、慎重に新一の言葉の裏付けを問うた刑事。その質問は、けれど簡潔な探偵の言葉によって否定された。困惑を隠す事無く向けられる眼差しを自覚しながら、けれども流れるように言葉は続く。
「DDVP…ジクロルボス製剤とも称されます。主に殺虫剤として使用される事が多く、薬事法による劇薬指定が成されてはいますが、一般的な毒性薬剤よりも規制は緩く、手に入れるのは容易な毒物と言えるでしょう。
呼吸、皮膚浸透により吸収され、縮瞳、徐脈、血圧上昇、発熱、呼吸異常など自律神経の異常による症状が現れます。重症ではショックで即死する…所謂神経ガスと呼ばれるものの一種です。無論、兵器として使用されているものよりは毒性・有害性は低いものですが」
 もう一枚の書類をかさり、と表に出す。やや右上がりの几帳面な字で読みやすく纏められたそれは、件の毒物に対する個人的なレポートの類のようだった。
「被害者のオフィスで、黒羽が特有臭を嗅ぎ取っています。DDVP自体は揮発性が高く空気中に撒布されたものを回収する事は事実上不可能ですが、それでも専門的な調査を入れれば安全値以上の数値が計測されるはずです。
この慢性的な中毒症状により、被害者は死ぬ間際まで神経の失調状態にあったと言って過言ではないでしょう」
「待ってください、工藤さん…では、」
「恣意的な外的要因はあったとみるべきでしょう。しかし、それは殺人、あるいは傷害として立件できるかは微妙ですが。
…DDVP自体に殺傷能力は低い。虫類と異なり人間では中和酵素が働きますから即死するような急性中毒症状は起こしにくい。身体機能を害する事は確かですが決定的なものには欠ける。だからこそ、犯人は二重の手を打つ事にしたのでしょう」
 ぱらり、と書類を捲る。
「被害者に対して害意を持って、周到に進められた計画的な犯行といわざるを得ないでしょう。既にオフィスに仕掛けられていたものは撤去されたと考えるのが妥当ですし、それには3日という時間は十分すぎたものでしたからね。
…そして、だからこそ死体遺棄を行ったのは、この事情を少なからず知っており尚且つ自身では暴露が出来なかった人物と取るべきです」
 警察が調べた捜査対象人物、それを更に突き詰め、絞り込んだ最後のレポートを指し示し、工藤新一は静かに告げた。
「山科さんの死体を僕が宿泊していた旅館に遺棄したのは、彼の秘書である清水氏です」



つづく。

2005.06.10.

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