03.multiplication的paradox



 駅で待ち合わせた水谷刑事の車で、向かった先は被害者の勤め先のオフィスだった。
 二人の関係に突っ込まれた時はここに来るまでのぴんくな空気を思い出して内心慌てたが、魔術師はその鉄壁のポーカーフェイスで、探偵は無敵の猫かぶりでにっこりと『親友です』と誤魔化した。
 快斗とて、別に虫除けの意味がないところでまで世間的に抵抗のある関係を言いふらす趣味は無い。隠す必要も感じてはいないが。
 納得したのかしないのか、意味深な顔で後部座席へと座るように促した水谷刑事はどこまで知っているのだろうか、とは二人の脳裏に過ぎった共通の認識であった。
 着いた先はテナントビルのワンフロアを借りているらしいその会社で、個室のオフィスを与えられていたのは被害者と社長だけだったらしい。社長の方はともかく、被害者が大部屋のデスクでなく個室を執務室としていた理由を、新一は足を踏み入れた瞬間に理解する。
「成る程…実質的には彼が会社運営の中核だったんですね」
 本来ならば、専務とはいえ被害者は単なる雇われサラリーマンに過ぎない。けれどもデスクの引き出しに残る決済印や、ホワイトボードに貼り付けられたアポイントメント、更にはファイリングされた重要書類が鍵付きの収納棚に入っている。単なる一社員の執務室にあるべきものではないようなものまで。
 ぐるり、と快斗と共にそれらを眺めた後、社員への聞き込みを纏めた水谷刑事が毎度おなじみの手帳のページを捲りながら告げる。
「今の社長は二代目だそうですよ。経営に関しては…まあ、言わぬが花でしょうなあ」
 苦々しく笑ってみせる刑事の表情に、快斗と二人苦笑を漏らす。
 典型的な二代目社長は、ここ十数年の不景気を乗り切るだけの才覚がなかった、ということなのだろう。
「被害者の腕でもってたようなものだと、社員の殆どが認識している有様でしたよ。ここ数日の辞表の数が凄い事になっていると管理職の方がぼやいてましたなぁ」
「それはまた、あからさまな。…快斗?」
 軽口に紛れさせているが、今後のこの会社の事を考えると笑い話では済まされないそれを無難な言葉で受け流していると、僅かに眉を寄せ目を細める快斗の仕草に気付いて名前を呼ぶ。
「快斗?どうした?」
 新一に呼ばれても生返事でああ、と返しただけの快斗の様子をおかしく感じて再度名前を呼んで問い掛けると、くん、と僅かに鼻を鳴らして眉間により深い皺を寄せる。
「なんか…臭わないか?」
「におい?」
 きょとん、と鸚鵡返しに快斗の言葉を繰り返す新一に、神妙な顔のままで今一度ぐるりと辺りを見回す。その言葉に嗅覚に神経を集中させるも、新一にも水谷刑事にも快斗がいうところの『臭い』の正体を突き止めるまでには至らなかった。
 困惑を貼り付けた二人が顔を見合わせると、珍しくその非常に出来の良い頭からその記憶を引っ張り出せずに苛立った快斗が頭を掻き毟る。
「あー、絶対どっかであったんだけどこんな臭い…どこだっけ…?」
「いやそれ以前に俺たちにはその臭いもわかんねぇんだけど」
 流石は希代の大怪盗。
 とは、喉の奥に呑み込んだ言葉だ。どういう鼻をしているんだろう、視力がいい事は知ってたが嗅覚まで犬並みか?と思った事も快斗の名誉の為に秘密にしておいて。
「刺激臭…というほど強かねぇか…?」
 一人思索の海にダイブしてしまった快斗の目の前でぷらぷらと手を振って見せても反応はゼロ。正直面白くない新一と更に状況が不明な水谷刑事を放置して悩む快斗はああでもないこうでもないとぶつぶつと呟いていたが、とりあえず無視を決め込む事にする。
 こうなったら、快斗はそう簡単に戻っては来てくれない。新一のそれの方が世間的には知られているが、快斗だってそういう側面はないわけではないのだ。
「…コイツの事は放っておいて下さい。ご家族の方に、お話は…?」
「ああ、この後に約束をしとります。いいんですか、彼は」
「いいんです。どうせ一回見たり聞いたりしたことを忘れるような可愛げのあるのーみそしてないですからコイツ」
 IQ400は伊達ではなく、黒羽快斗は一度見たり聞いたりした事は絶対に忘れない。一旦頭の中に入れた情報を処理し、整理して収納する処理速度とメモリ容量が桁外れに大きいのだ。
 珍しく知識と現状の接続に時間を食っているようだが、それでも多少ダメージを与えたところでダメになるHDDなどよりもよっぽど優れた頭をしている男である。新一はぐい、と彼の手を引いて堂々巡りをしているらしい彼の思考を中断させた。
「…っと、新一。わりい」
「いーけどよ、次は遺族の方に会いに行くぜ?」
 お願いします、と水谷刑事に頭を下げる新一の横で、それでも腑に落ちない何かに快斗はふむ、と首を傾げるのだった。



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 すぐさま倒れてもおかしくないほど憔悴した表情で、それでも気丈に三人の質問に答える被害者の妻。
 ぶっきらぼうに無感情を装いながらも、父親が死んだやりきれなさを隠し切れない青年。
 ただただ涙を流すだけで、先ほどから言葉を紡ぐ事すら出来ない少女。
 被害者の妻と二人の子供を前にして、快斗は思わず声を呑み込む事しか出来なかった。そんな中、状況に慣れているのか慣れざるを得なかったのか、探偵たる新一と刑事である水谷とは簡潔に質問を繰り返している。
「…では、ご主人はここ数ヶ月、体調を崩し気味だった、と?」
「ええ…お医者にかかったら、と何度も言ったのですけれど『仕事が忙しいから』と返すばかりで…こんなことになるくらいなら」
 無理矢理にでも診てもらうのだった、と涙ぐむ奥方を宥めつつ、事実関係を確かめるために息子へと向き直ると、新一とほぼ変わらない年齢の青年は苦虫を噛み潰したような顔で肯定を呟いた。
「本当に…ここ何ヶ月かの親父はおかしかった。そりゃ、俺もバイトしてたし親父は朝早くて夜は遅いしで生活時間がことごとく合わなくなって顔を合わせるのも少なくなってたけどよ!でもな!!」
 自殺なんかするような父親じゃない、と声を荒げた青年の顔は青褪めて、やりきれない怒りばかりが瞳に宿る。
 わっと泣き崩れる娘の声と相俟って、非常に居辛い空間だった。
 けれど。
「もう一度確認させて頂きますが、ご主人には持病の類はなかったのですね?」
 静かな青い双眸で三人を見つめ、抑揚の薄い声で淡々と質問を口にする新一はどこまでも『探偵』だった。『怪盗KID』を追い詰める子供のような一途さでもなく、普段の『工藤新一』の年相応な素顔でもなく、何処までも理性と現実を重んじる『探偵』の横顔。
 あれほど詫びを繰り返し、申し訳なさそうにしていた理由がほんの少しだけわかった気がする。そうか、これを見せたくなかったのかとぼんやりと快斗は自覚した。同時に、そんなに見くびられてたのかなあ、と苦笑すら覚えて。

 綺麗で鋭利な『探偵』の横顔。
 快斗に見せる両面よりも、更に深い場所で根付いているそれは、新一にとっては出来るならば『恋人』には見せたくない種類のものだったらしい。
『…でもね』
 黒羽快斗を、そして怪盗KIDをなめてもらっては困るんだと、口には出さずに微笑む。
 君の何もかもを見たいと願うから、今だって溢れるのは新しい一面を発見した歓びだけしか有りはしない。
 俺は守られるだけの存在じゃないから、君も守られるだけの存在じゃないから、そんな心配は杞憂だって早く気付いてくれればいい。
 一応部外者であるから賢明にも沈黙を守りつつ、快斗は透明な眼差しで真剣に話を進める新一の横顔をただ、見つめていた。 



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 被害者の、自殺に至る経緯は社内の聞き込みや家族の言動から容易に推測が可能ではある。
 けれども、その被害者をあの場所に遺棄した意味が未だ不明のまま。水谷刑事に送り届けられた宿の部屋で、むうと首を捻りつつ新一はぺったりと座卓に頬を預けて小さく唸った。
「早急に事件性を念頭に置いた警察の介入が必要だったって事だよな…つまりは。暴いて欲しい何がしかがあったんだ、ソイツには」
「おや、新一君にしてははっきりしない言動だねえ」
 ことり、ともはやこの部屋におなじみになった湯飲みを目の前に置いて、怪盗はゆるりと笑みを刻む。その余裕の笑みにむっとしながら、それでも何も言わずに目の前に出された湯飲みを手に取った。
 丁度良い熱さのそれをちびりちびりと舐めるように飲み下しながら、はっきりとしない事態に煮え切らない感触の悪さを覚える。己のやる気の無さがある意味招いた状況ではあるのだが、それでもパースが見えてこない現状に探偵・工藤新一は見事にご機嫌斜めだったから、思わず慣れない嫌味が口をついて出る。
「どっかの気障な泥棒と一緒で、な」
「おや心外な。…そんな事言ってると、折角思い出したのに教えてあげないよ」
 ぺちり、と卓上に懐いたままの新一の額を小突いて、快斗はくすくすと笑みを漏らす。何がそんなに楽しいのか、と言い掛けた新一だったが、続いた快斗の言葉にがばりと起き上がった。
「…ちょっと待てっ!!オマエ…」
「いやあ、あんまり関連性がないから咄嗟に出てこなかったよ。でも多分アレで間違いないだろーね」
 そう言って、快斗が告げた名前に、思わず新一の眉がへなりと下がる。予想外、と顔に貼り付けた表情に苦笑を漏らしつつ、快斗もまた肩を竦めた。
「それって…確かに、おかしくはあるけどな…」
「だろ?普通あんな場所で使用するはずのないモンだ。故意にしろ恣意にせよ、警察の検分の時点で発見されていないんなら、状況は少しは違ってくるだろ?」
「…確かに…」
 顎に手を当てて、何かを考え込む時の癖のようなポーズで固まった新一の灰色の脳細胞がフル回転しているのを感じ取り、快斗は口を噤んで彼の再起動を待つ。
 残念ながら探偵ではない快斗には、彼の中で組み立てられる推理と論理は半分も理解できない。怪盗である己に出来るのは現実と明らかになった事実から成る未来予測でしかなく、そこから埋没した過去を掘り出すような作業には向いていないのだ。
 新一はそれこそを羨ましいと言い、快斗は新一の思考に添えない己を残念だと思う。そうして違ってしまう個性を楽しむまでかかる時間はどのくらいだろうと、悲観的にならない事もないのだけれど。
「…快斗」
 ひたり、と此方を見る眼差しに宿る力と光。
 『名探偵』の称号を、『怪盗KID』が与えるたったひとりの存在は、曇る事のない蒼の慧眼を真っ直ぐに向けて名を呼ぶ。
 その声が紡ぐどんな難解な命題でさえも叶える事を決めている怪盗は、告げられた些細な頼み事に晴れやかに笑ってぱちりとウィンクを返した。



つづく。

2005.06.10.

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