03.multiplication的paradox



 ところ変わって旅館の大浴場。
 件の、名探偵と大怪盗が死体と遭遇した場所である。そして、本来第一発見者とはいえ全く関係がないはずの新一が此処に居る理由はといえば。
「いやー、こんなところで噂の名探偵さんにお会いできるとは」
 わしらは運がいいですなー、と暢気そうに笑うのは地元警察署の刑事だという初老の男性。くたびれた背広と昼行灯な雰囲気に、思わず毒気が抜かれた事は否めない。
 滅多に事件らしい事件も起こらない、鄙びた温泉街の警察の皆様にも『日本警察の救世主』の名前は有効に作用したらしい。諸手を挙げて、というほどではないがおおよその好意的な状況で高校生探偵は受け入れられたらしい。
 どこまで計算かはたまた天然なのか、余所行きモードの工藤新一は秀麗な顔に苦笑を浮かべて、しゃがみこんでいた事件現場から立ち上がり肩を竦める。
「ははは…単に骨休めのつもりだったんですけどね…」
「ふむ、それは災難でしたなあ」
 鑑識も去って、死体も運び出された大浴場は立ち入り禁止のテープこそ張り巡らされているもののもはや大したものは残ってはいない。
 それでもあまり縁がない地元警察の刑事に頼み込んででもこの場所に戻ったのは、彼の言葉があったからこそ。
 思い出すだけでじわりと温まる、唯一無二の恋人の言葉。
 探偵の自分も好きだ、と告げた彼の言葉に嘘偽りはなかったから、思いっきりいちゃいちゃべたべたする誘惑を振り切ってこの場所に立っている。
「わかってたのかな…アイツ」
 ぽそりと呟く言葉は自分への呆れ。本能で謎を求め、理性で謎を解く自分が、この場所で感情を理由に逃げたらいつまでも後悔するだろう事を、あの優しい恋人はきっと自分以上に理解していたに違いない。
 行っておいで、と額に落とされたキスの感触を思い出して上がる体温は辺りの湯気に誤魔化して、新一はぷるぷると頭を振った。
「どうかしましたかな?」
「いっ、いいえっ!なんでもないですなんでも!」
 ぼやーっとしているように見えて、付き添いというか見張りで現場に残ったこの刑事…水谷さんというらしい…は曲者だと新一は気付いている。
 その証拠に、先ほどから彼が話しかけてくるタイミングは全て新一の中で何がしか意識を向けた瞬間に限られる。けれどもそれは不愉快なものではなかったから、深く息を吐き出してぐるりと辺りを見回した。
 死体としては綺麗な部類に入るものだったから、辺りは既に日常風景を取り戻している。ここに変死体が転がっていた、という先入観さえなければ、長閑な温泉浴場としての側面しか此処にはない。けれど。
「…死因自体は自殺の疑い有り、との事でしたが」
「ええ、頚動脈にいわゆる『ためらい傷』がありましたので。しかし、だからこそ確実に現場は此処ではない」
 ぱらり、と手帳をめくる水谷刑事の顔に浮かぶのは困惑だ。確かに、今回の事件はあらゆることが不可解に過ぎる。
「でしょうね、血痕はおろか実際に使用された刃物の類も見つかっていない。何者かが出血が止まっている状態で遺体を清めて、わざわざ此処に放置した。
自殺の死体を、わざわざ目立つ場所に放置する意図がまだわかりません。…捜査の霍乱が目的でしょうか?」
「さあて、なあ…身元の確認もまだなんですわ。何せ所持品も何もありゃしませんでしたので」
「身元不明者との照合から、ですか…」
 旅館の泊まり客ではなかったらしい。とすると、此処に遺体を置いた意味もあるのかも知れない。
 ふむ、と首を傾げる新一の脳裏に組み立てられる推理は、けれどピースが足りないパズルのようにばらばらで未だ像を結ぶには至らなかった。
「工藤さんの証言もあって、第三者が関与している事を念頭に置いて捜査は進めてます。聞き込みが終わればなんらかの証言は得られるでしょう」
「…ええ」
 暗にこの場所で得られるものはない、と告げる老刑事の言葉を聞き流しながら、ぐるり、と再び新一は大浴場を見渡した。
 露天風呂という事もあって、わざわざ旅館の建物や敷地内を経由せずともこの場所に入り込む事は不可能ではない。竹製の衝立や植木は周囲からの視線を防いでも、意図的な進入を阻む目的では設置されているわけではない。
 …まあ、そうでなくともわざわざ雑木林や下が川になっている崖を突破してまで男湯に進入を試みるアホはこんな非常事態でもない限り居ないだろうが。
 現場で得られる情報が少ない以上、あとは基本の情報かな、とこきりとひとつ首を傾げて。
 上辺だけは人のよさそうな刑事に礼を告げ、からりころりと下駄を鳴らして自分の部屋へと足を戻した。



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「へー、それじゃ収穫ナシ?」
「いや…全く無いってわけでもねぇけど」
 とぽとぽと器用な手付きでお茶を湯飲みに注ぐ快斗からそれを受け取って、こくりと呑み込みながら僅かに首を傾げ、新一は思考を巡らせる。
「どうにもはっきりしねえんだよな…自殺ならほっときゃいいのに、なんでわざわざこんなところに放り込んだんだか」
「死んでた場所がマズイとか?」
「それもあるんだろーけど」
 しっくりこねえ、とお茶を飲み下しながら眉間に皺を寄せる名探偵に、ふむ、と首を捻る大怪盗。
 ばたばたしていた一日も、気付けばとっぷりと暮れつつある。そろそろ夕飯の時間かなあと暢気に呟く快斗に、もうそんな時間かよと机につっぷす新一。
 どうにもこうにも危機感というか緊張感が足りないが、元より不足していたからこんな場所まで遠出しているのであって、脳の回転も少々鈍りがちな気がする。
 見落としている要因はないはずだ。けれども、それらはあまりに断片的過ぎて形を成すまでには至らない。検死の結果と被害者の特定が出来れば、もう少し事態は進展するのだろうけれど。
「この後は警察の仕事だもんなー、少なくともパーツが出揃うまでは俺の出る幕じゃねえよ」
「おや、名探偵にしては珍しい殊勝なお言葉で」
「依頼人でも居りゃ話は別だけどな」
 新一とて、ホイホイと興味の赴くままに事件に首を突っ込む事に関して、どうかと思う自分がいる事も確かなのだ。
 謎解きと事件解決は好物ではあれど、それを望む人間が居なくては単なる自己満足になる。現状を打開するものが自分の中にない以上は、ここは大人しく静観を決め込むが吉だろう。
「あーもー!俺にもちったー休み寄越せっつーの!」
 ことり、と卓上に空になった湯飲みを戻すと、ぱったりと後ろへ倒れこみ天井を見上げる。畳のひんやりとした感触と僅かにする独特の香りに目を閉じ、くったりと伸びる新一の様子は、懐きまくった猫みたいだなあと快斗は一人微笑みを浮かべた。
「…でも、新一は見過ごせないでしょう?」
 傷ついている人がいるかも知れないなら、死んでしまった人の無念を明らかにする為なら、何があったって解き明かそうとするでしょう?
 優しい微笑みを浮かべて零れる髪をさらりと指で梳きながら、囁く快斗の声にぐっと言葉を詰まらせ、ぷいと横を向いた頬が赤い事に気付いている。
 どんなに唯我独尊に見えても、本音のところでとても優しい人だから、きっと誰の期待も裏切らない。
 そこにある事実を明らかにする事で救えるものがあると、そう知っているから尚更に。
「俺の望みは、たったひとつしかないから」
 そう、黒羽快斗は欲張りだから沢山のものを望むけれど、それでも根源的な部分で求めるのはたったひとつ。
 この綺麗な名探偵の、恒久的なシアワセだけ。
 さらり、と艶のある黒髪を撫でて、笑うのは。笑えるのは。
 そうして快斗に身を預けてくれるこの存在があればこそだ。
「行き詰ったわけじゃないでしょう?だったら、もう少し待ってみようよ」
「ああ…」
 切羽詰った事件ではない。少なくとも表面上は。
 じりじりと慰安旅行の時間が削られてゆくのは少々納得がいかなくはあったけれど、見惚れるほどに優しい快斗の微笑みと優しく撫でる手の感触に、まあいいか、と微妙に誤魔化された名探偵はうっとりと今一度目を閉じた。



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 そして翌日。
 謎の温泉宿変死体放置事件は急展開を見せる事になる。
「え?身元、割れたんですか?」
「ええ。ご家族の方から捜索願が出とりまして、歯型の照合と面通しだけであっさりと」
 温泉旅館のロビーで、相変わらずくたびれた背広を着込んだ老刑事の言葉に、新一は目を見開いて告げられた事実に驚愕する。
 そりゃそうだ、こんなに簡単に身元が明らかになるのなら、パーツが足りないなりに考えていた幾通りものパターンシミュレーションが全て意味のないものになる。
 それは目の前の刑事とて同じであったらしく、どこか困惑を隠せない様子で手帳をぱらりとめくりながらその内容を読み上げた。
「山科宏治、五十六歳。ここから駅4つ先の市内の商社の専務で、勤め先も自宅も同市内にあります。3日前に出かけてくると言い残して車で出かけて、以後行方がわからなくなっていたそうで」
「…みっか」
「ええ、微妙なラインですな」
 いい年をした大人が3日家を開けたなら、確かに心配はするだろう。けれど。
「…即、捜索願とは…何か他にあったんですか?」
「それが」
 水谷刑事が言うには、被害者は此処数ヶ月で情緒不安定になり、やけに塞ぎこむようになっていた事。
 何かを思い悩んでいる風でもあり、家族には『俺に何かあったら直ぐに警察に届けてくれ』と言われていたらしいこと。
 専務という肩書きがあるものの彼の勤め先は小規模の為、経理関連の実質的な責任者であったらしい事。
 勤め先の資金繰りがここ数年で厳しくなっていた事など、この事件の重要なファクターとなるであろう事実が明かされた。
 ふむ、と顎に手を当てる年若い探偵を見定めるような刑事の視線に晒されながらひとつひとつ明らかになっている事実を組み立ててゆく。
「…つまり、彼が自殺に至る状況要因は多大にあったと見ていいわけですね?」
「ええ、被害者が自分で頚動脈を切った、すなわち自殺自体は疑う余地はありませんなあ。疑うべきは、誰が何の目的で被害者の遺体を遠く離れた全く関係のない温泉旅館の浴室などに放置したかという点です」
 清められた遺体。けれども死因を誤魔化すでもなく、被害者の素性を隠すでもない。
 捜査の霍乱、というにはあまりに杜撰すぎるし、理由も不明だ。
「…水谷さん」
 真実を見通す探偵の瞳を真っ直ぐに目の前の刑事へと向け、新一は昨日さんざん悩んでいた言葉を静かに告げた。
「僕も…本格的に協力させて頂いて、よろしいですか?」



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「…ごめん、な…?」
「まぁだ言ってる、俺は気にしてないって言ったでしょ?」
 おずおずと、上目遣いに此方を伺う新一の名探偵らしからぬ様子に苦笑して、快斗はくしゃりとその頭を撫でた。
 かたんかたん、と軽快なリズムで揺れる地方線の車両は、けれど時刻と一時間に一本というローカル具合も相俟ってその座席が埋まるほどには人目があるのだけれど。
 申し訳なさで何処か一本ぶっ飛ばした探偵は気付いていなかったし、怪盗は元よりそんな事は気にしない。
 よく似た見目の良い風体の、良く似た声で寄り添って言葉を交わす擬似双子に、先ほどから車内の視線は釘付けだ。快斗が新一の頭を撫でた時も、控えめではあるが華やいだきゃああvという声が上がったのにも快斗は気付いている。
 だが、無論のこと折角骨休めに温泉に来たはずのなのに事件に関わって、しかも快斗まで引っ張り込んでしまった、という罪悪感でいっぱいの新一はそれに気付く事もなく。
 損ねてもいない快斗の機嫌を伺う事に躍起で、無駄に集中力を行使している所為でこの現状にも気付いてはいない。気付かせてみたいような気もするが、その瞬間沸騰して照れ隠しに暴れるか出来が良いが情緒面では未発達もいいところの脳がオーバーヒートを起こしてぶっ倒れるかのどっちかだろうと想像が付くからだ。
 自宅、或いは彼が一人暮らししている工藤邸ならばそれも許容範囲内だが、流石に出先の公共交通機関でそれは迷惑だろうと、落としかけた溜息を堪えてにっこりと微笑む。
「いいんだよ、俺は。新一の傍に居られればなんだって」
 ね、とするりと頬を撫で上げて、意図的に甘く作った笑顔を浮かべればそれだけで赤面してぎゅうと抱きついてくる。
 ざわりと周囲がどよめいたような気もするが無視だ無視。何せ虫除けにはこの手が一番効果がある事はこの見目麗しい割には自身の美醜に頓着しない名探偵とお付き合いをはじめてから、速攻で快斗が学習した事の一つだった。
 照れ屋で暴力的な恋人は、恋人ですーと言い回る事には抵抗があるくせに快斗が駄々漏れに甘やかして優しくしてやるだけでめろめろのとろとろになって抱きついてくる。その普段の凛々しい名探偵ぶりとのギャップに轟沈する周囲の様子に、快斗は自然と悟らざるを得なかった。
 この人に寄ってくる有象無象を、理性的に駆除する事はほぼ不可能。
 ならば、べったべたに甘やかして己の傍に置き、常にらぶいちゃっぷりを見せ付けるより他にないではないか。
 一応、快斗にだって人前でいちゃつく事に対する羞恥心くらいはある。この場合は単純により優先順位が高いものへと迎合しているだけだ。
 もぞもぞと快斗の肩口の辺りで身じろぎする新一の背を撫でて言葉を促してやると、可愛らしく頬を染めたままぽつりと告げる。
「その…ありがと、な。俺も、オマエと一緒に居たいし」
 ああもう本当に可愛い。
 割れ鍋に綴じ蓋、という単語を知ってか知らずか、どうしようもないぴんくな空気を漂わせた名探偵と大怪盗に、周囲からはどよめきと黄色い悲鳴が絶える事はなく、甘酸っぱい空気は、彼らが降り立つ目的地の駅まで車内を満たしていた。



つづく。

2005.06.10.

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