05.±0を告げるequation-absolute



 傍にいたい、触れ合いたい。いっそ溶け合って、しまいたい。

 ちりちりと心を焼く焦燥感に駆られているのは、ひょっとして自分だけなのだろうか。
 何もかもを手に入れてしまいたいと願うのは浅ましい事?
 ぎゅっ、と膝の上で握り締めた拳が震えるのを、工藤新一は自覚する。
 ふわりととろけるような笑みを向ける恋人の想いも、優しさも、わかってる。己の記憶に、無意識に。浸透しきったそれらは、毒のように甘く心を占領し続けるから。

「…かいと」

 伸ばされる指先。魔術師の、綺麗な。
 沁みこむ体温。侵食するように、熱を伝えて。
 鮮やかなほどに、青い、藍の。

 閉じた瞼が、睫がふるりと震えたこと。気付かれているのはわかってる。

「かい…」
「黙って」

 頬から、髪の生え際を辿る感触。
 首筋まで下るそれに、ぴくりと震えた自分にくすりと笑う声。
 何から何まで熱を煽るこの空間の居た堪れなさに、縋るように相手の首筋に手を伸ばして…


 ぴぴぴぴぴぴ。


 目が、覚めた。

「っくしょう…!!!」
 虚空に伸ばされた腕がぱたりと布団に落ちて、耳元では目覚まし時計がセットされた時刻であることを騒がしく告げる。
 低く唸るような声は寝起きの不機嫌と、夢オチで終わった願望の未達成に対する不満に凄みを増して、おそらくこの場に他者が存在したなら恐怖のあまりに硬直していただろうことは想像に難くない。
 けれども、残念ながらというべきか好都合というべきか、この広大な屋敷に居住しているのは工藤新一唯一人であり、この独り言も他に聞くものは存在していなかった。
 意識の端に残る幸福感が、余計に己の不機嫌を増す。実際には大好きで大好きなあの怪盗とは、恋人同士ではあるものの進展と呼べるようなものはない。全くない。
 今まであった進展らしきものは手を握るのと、ぎゅっと抱きしめるのと、おでこにちゅーくらい。
 (傍観者からすれば恐ろしいことに)恋人らしい唇へのキスのひとつも、まだなかったりする。

『いや、そりゃアイツに頭撫でてもらうのもおでこにちゅーされるのもぎゅっと抱きつくのも好きだけど…』

 はいはいご馳走様。
 哀の呆れたような声の幻聴が聞こえたような気がして、新一はぷるぷると頭を振った。
 これはいけない。現状がこれ以上続くのは、流石に精神衛生上よろしくない。
 既に同様の夢で目覚める朝を片手の指以上経験している探偵は、ふむ、と顎に手を当てて思案に沈む。
 何がいけないのかイマイチ新一には良く分からないが、どうにも恋人に向けられている感情には愛情と同量で庇護欲が混じっているよーな気がする。
 つまりは、この名探偵・工藤新一があの男にはコナンと同程度に見えているという事だろうか?それはあんまりにもあんまりだ。
 もしこの場に隣家の科学者が居れば自業自得よ、というキッツイ御言葉を賜る事が出来ただろうが、それも仮定でしかない。
「…こーなったら、この工藤新一の面子にかけてでもぜってえアイツにうにゃうにゃしてもらうんだ…!」
 寝起きのボケた頭で何を言っているんだかわからなかったのと、誰も聞いていない独り言だったのは不幸中の幸いか。
 その後ふと我に返った瞬間、あまりの決意のあからさま具合に悶絶する羽目になるとは今の新一は気付きもせず。
 そろそろ準備を始めないとやばいんでない?という時間を目覚まし時計の針が指している事にも気付けず、決意を心に秘めてぐっと拳を握り締めた。

「みてろよ快斗…!今度こそ正真正銘のコイビトになるんだからなっ!!」

 がうっ、と唸るように決意表明する新一の横で律儀に時を刻む時計に、真っ青になるまで、あと数分。
 とにかく工藤新一は、此処に来て悲壮な(外から見ればだだもれに甘ったるい)宣言を掲げたのだった。



---------------------------



「…ばっかじゃないの?」
 べったり、と机に突っ伏したままの疲労困憊な工藤新一を見下ろしつつ痛烈な一言を浴びせた鈴木園子嬢と、それを苦笑しつつ見守っていた毛利蘭嬢は、それでも落ちたまま戻ってこない名探偵に顔を見合わせて溜息を落とした。

 最近のこの男は、ほんっとうに!おかしい。

 黒羽快斗に片思いしていた頃も、両思いになったばかりの頃も相当に可笑し…もといおかしかったが、今のそれといったら比べ物にならない。
 時々酷く痛そうに後頭部をさすりながら登校してくる頻度が上がっている事にも、聡明なる女性陣二人は気付いていた。ついでに工藤邸+阿笠邸に存在する本の幾つかの背が少し痛んでいる事も時折出入りする蘭は知っており、その経緯についても哀の半眼によってなんとなーく悟ってさえいたりする。
 知らぬのは、この恋にボケた名探偵ただひとり、かも知れない。
「遅刻ギリギリに走り込んで来たかと思ったら、1限目まるまる潰れたまんまってどーゆー了見なのよ新一君。しかも理由が夢見が悪かった、なんてセンセーが気の毒だとは思わないの!?」
「…うっせー園子、自分でも思ってもねーこと言うんじゃねーよばーろ…」
「相変わらず減らず口だけは叩くわけね」
「俺の勝手だろ、うるせーからどっか行ってろよ」
「はっ、それこそアタシの勝手だわよ。アンタのその台詞、黒羽君に告げ口されたくなけりゃおとなしく死体になってなさいな」
 うう、と唸る名探偵と、勝ち誇ったように胸を張るお嬢様。どう見ても勝敗がはっきりした様子に、流石園子、とお嬢様の親友であり名探偵の幼馴染でもある少女は内心拍手を送りたい衝動に駆られないでもなかった。
「でも新一、どんな夢見たの?今更死体だのスプラッタだので動揺するような新一じゃないだろうし」
「さらっとアンタもけっこー酷い事言うわね蘭…」
 流石は名探偵の幼馴染、優しそうに見えても突っ込みは厳しい。むしろ普段が天然とも言えるボケっぷりなだけに、こういう場合のソレは余計に辛辣ですらある。
 机に懐いた姿勢のまま、ごろりと首だけを回して恨めしそうに二人を見上げる名探偵、という構図は、駄々をこねているような姿勢の所為で異様に幼く見えて周囲のクラスメイトは思わずごくりと息を飲む。
 これは、ひょっとしてまた。あのリーサルウェポンの再来なのだろうか。
 類稀な頭脳と運動神経と容貌を併せ持つ、天は二物も三物も与えるのだという分かりやすい見本である工藤新一。彼が隣町の高校生と付き合い始めた当初の、だだ漏れらぶらぶオーラの被害者たちを救助して回ったあの数週間の惨劇を思い出し、伝播するように緊張が走る。
「ゆめ…」
 拗ねたような表情のまま、蘭が呟いた問いかけに従って記憶を巻き戻していた新一だったが、数瞬後にはその記憶にぶち当たったらしい。
 ぼっ、と顔を一気に赤く染め上げ、ぷしゅう、と再び机の上に突っ伏す名探偵。
 それだけで、なんとなく内容を悟ってしまってやさぐれた眼差しでけっバカップルめ、とお嬢様らしくなく乱暴に吐き捨てる園子。
 それを苦笑しつつ宥めながら、でもそろそろ本気でどうにかならないかしらと小首を傾げながら結構酷い事をさらりと呟く蘭。
 そして肝心の名探偵は、まだ沈没したまま戻って来ない。
 戻って来ないが、その理由が『ちゅーもまだなのに、それどころじゃない夢を見てしまいました』という脱力せずにはいられないものだとは誰一人思いもしなかった。

 なんだかんだと、今日も帝丹高校は平和だった。…たぶん。






2005.10.25.

B A C K * / H O M E * / N E X T *