05.±0を告げるequation-absolute







 先ほどから、手のひらの中の物体に視線を遣っては溜息を落とし、次いでぷるぷると頭を振って視線を彷徨わせ、結局また手のひらの中に、を繰り返している名探偵。
 ふらふらとした帰宅経路でも不審だったが(しかし普段背中にべったり張り付いている分厚い猫のお陰で、一時的だろうそれにはさほど奇異な眼差しも向けられなかったが)自宅でも相変わらず不審な行動を続けている。
 手のひらの中には、小さな円筒形のプラスチック容器。場違いに可愛らしいパステルカラーのそれは、俗に言うリップスティック。
 ほんのりとした薄紅色と、微かなストロベリーの香りをつけたかわいらしいリップは、この色恋沙汰にボケっ倒し名探偵のお悩みを(別に聞きたくなかったが成り行き上仕方なく)聞かされた園子嬢が、溜息と共に今年話題の新製品なのだと言い含めつつ押し付けてくれたシロモノだ。
 こんなモン俺にどうしろって言うんだ、と愚痴ればすぐさま『何言ってんのよ、勿論それつけて黒羽君を悩殺するに決まってるでしょ!?』と後頭部を叩かれた。
 更に悩殺の何たるかについても熱く語ってくれたが、沸騰した頭では右から左の筒抜け状態、段々えげつなくなっていくそれに流石に不味いと思ったのか蘭が止めて引きずっていってくれたが、それでも立ち直るまでずいぶんとかかってしまった。
 どつかれた頭はまだ少し痛い気もするが、それ以上に返しそびれた手の中の物品の処分に困っていた。
「アイツを、のーさつ、って…」

 …どうやって?

 思わずぐるぐるしてしまう新一の脳裏に過ぎるのは、自分をめろめろのとろとろに甘やかしてくれる大好きで大好きなコイビト。
 その、彼を、自分が、悩殺?これ塗って?
「…無理だ、俺には絶対無理…」
 がくり、と肩を落とす名探偵。しかし、この様子を見れば彼の無意識に撒き散らすフェロモンの方がよっぽど性質が悪いと周りの人々は溜息を落とすだろうが。
 何しろこの類稀な名探偵は、自覚は皆無だがとにかく人目を引く。本人は何かが起こってからでないと気付かないが、周囲の人間はそれ以前のなんとなーく粘っこい視線を自分に向けられたわけでもないのに感じ取って微妙な気分になっていたりする。
 それでも最近は、プライベートではほぼ快斗が傍に居て甘ったるい空気をかもし出しているのでそれどころではないわけだが。
 うう、と唸り声を上げつつ、何度か繰り返した思考をぐるぐると巡らせて、もう何周になるだろうか。悩殺、の二文字は不可能だと思いたいのに、なんとなくの期待から捨てることも躊躇われる小さなコスメ用品を手に、ふよふよと視線を漂わせ、落ち着きなく足を組み替える。
 なんとなくずっしりと重く感じるそれを、けれどもどうしようもないから、と言い訳してゴミ箱に放り込もうと立ち上がった瞬間。

 ぴんぽーん。

 びっくううっ!!

 あまりにもナイスタイミング、で鳴り響いたチャイムに、背筋を震わせ思わず直立不動のまま固まってしまう。かちゃり、と勝手にドアを開けて上がり込む(迎えに出られなくても上がってこいと快斗には伝えてある為、一応チャイムだけは鳴らして彼は工藤邸に上がりこんでくる)気配はよく見知ったもの。
「あれ、どしたの新一?そんなとこで突っ立ってさ」
「か、か、快…っ」
 思わず手にしたままのリップスティックをぎゅうと両手で握り締めて振り返った先には。
 きょとんとした表情で此方を伺うように小首を傾げたコイビトが、不思議そうに微笑んでいた。



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 なんで、どうして。

 ぐるぐると回る思考の中で、疑問符だけがはっきりと自覚できるすべてだった。
 どうしたの、と問われても、その原因を新一が快斗にきっちりと説明できるはずもなく。あくあくと唇の開閉を繰り返し何故か忙しなく手の中にある物品をしきりに弄っている様子に、快斗は更に首の傾いだ角度を深める。
「しんいち?」
「あ、うぅ…」
 かああ、と首筋まで真っ赤に染めてどもる名探偵、というのも可愛いけれど、原因がわからないままというのはどうにも落ち着かない。ふむ、と抜群の回転を誇る頭脳に少しばかり思考を強いて、快斗は目の前の恋人をじっくりと観察してみた。
 まず、真っ赤。そして挙動不審。
 しかしそれ以外に特にコレといって変わった様子は…いや、あるか。
「…ねー新一、何持ってるの?」
「も、持っ…!?
き、気にするなホントに何でもないっ!!!」
「…。」

 怪しい。
 思いっきり怪しい。

 思わずジト目で恋人を眺めてしまっても、快斗に罪はないはずだ。そこまで隠されると逆に暴いてみたくなるのが怪盗でもある己の性というもので。
「…えい」
「う、っわわっ!!」
 必死で快斗の目から隠そうとしていたらしい新一の手の中の物品を見事な早業で奪い去ると、じたばたとそれを取り返そうと躍起になっている相手の手足を巧妙に押さえ込み、快斗はそれをまじまじと見据えた。
 小さな、それこそ手の中に納まってしまう物品。
「…りっぷすてぃっく?」
 可愛らしいパステルカラーのプラスチック容器。見覚えがあるそれは、確か青子が『新製品なんだよ〜v』と浮かれながら見せてくれた(というか無理矢理見せびらかしていった)リップスティック。青子が持っていたのは爽やかな柑橘系のフレーバーだったが、今快斗の手の中にあるものはかすかに甘く香るストロベリー。
 思わずくらり、と意識が遠のきかけたのは、きっとコレが工藤新一に不似合いだとかそういうコトじゃなくて。
「…どしたの、コレ」
 思わず平坦な声で問うてしまった腕の中の人は、もう仕方がないと思ったのか観念した様子でむっすりと不機嫌な気配を纏って呟いた。
「…園子に押し付けられた」
「ああ…」
 日々パワフルな爆走お嬢様の高笑いを聞いたような幻覚に、快斗は力なく肩を落とした。何をこの非常識な名探偵に吹き込んでくれたんだ、と少しだけ恨み言を心の中で呟いてみる。
 どう考えても普通じゃない自分たちの関係に、好意的なのは有難い事だ。なんだけれども。
 何故か自分の周りの女性陣は、許容範囲以上に関係の進行を望んでいるような気がしてならない。
『いや俺の許容範囲は別にいいんだけど、さ…』
 ちらり、と横目で覗くのは、可愛い可愛い照れ屋で俺様な恋人。
 ぷしゅう、とオーバーヒートした機械のように煙を上げそうな勢いで赤面したまま、くったりと快斗の腕に縋るようにしてようやく立っている有様。
 それは問答無用で可愛いわけだが、あんまりつつき過ぎると脳みそ沸騰しそうな勢いですらあるので、この『平成のホームズ・名探偵工藤新一』の切れ味抜群の頭脳をすら愛する快斗としては躊躇いが残るわけで。
『…こんなヒトに手ェ出せって言われても、どーやってそこまで持ってくっつーの?』
 流石にあんなあからさまな物品を目にして、そこにある意図を読み違えるほど快斗は鈍くない。目の前の名探偵はそうもいかなかったようで今に至るまでぐるぐると悶絶しているらしいが(というか、そういう色恋沙汰に関するところだけがすこんと回路が抜けているに違いない)こんな物品をこの相手に渡した相手の意図など、明確すぎて涙が出る。

 だから、譲渡した園子嬢もそれを止めなかった蘭ちゃんにも疑問はもはやない。
 問題は、それをおとなしく今まで持っていた工藤新一の本心だけだ。

「…ねえ、新一?」

 抱き寄せた胸の奥がばくんと大きく鳴る振動すら感じられるほど顕著な反応を示す恋人に、快斗は唇の端を小さく綻ばせた。

 想いは確かで、触れる体温も向けられる視線も何もかもが互いを許容している事は知っている。
 けれど今までそういう意味で触れなかったのは、たぶんそこに怖れが混じる事が怖かった。
 無条件で自分を『許す』存在が、いつか『拒絶』を示すのが怖かったんだ。

 触れる、柔らかな頬。
 辿るラインは何処までも綺麗で、ぴくりと震えた肩と縋るように力を込めた指先が愛しい。
 掬うようにその背を抱き、とすりとソファに力の抜けた身体を落として、覆い被さるように全身を閉じ込めて、こつりと額を合わせて快斗は静かに囁いた。
「『許して』くれるなら…もっと近づきたいよ?」
「え…?」
「新一が嫌がる事はひとつもしたくないけど…許してくれるなら、我慢しないよ?」
「…かい、と」
 茫洋とした眼差しが、薄く滲んで快斗を見る。鋭さを失くした蒼の相貌は、酷く無防備でそれでも綺麗だった。
 魔術師の器用な指先が片手で手に取ったままのリップスティックのキャップを外し、新一の唇をなぞる指先を辿るように、ゆっくりと薄いピンクのそれを刷いてゆく。
 快斗のする事に対して一欠けらも存在しない拒絶と、果てがないような許容に眩暈がするような幸福を覚えて、そこまでされても薄く開かれたままの新一の唇に、そっと…舐めるように触れた。
「…好きだよ、新一」
 大好き。他の何よりも、誰よりもずっと。
 返答を待つ余裕すらなく、重ねられた唇は、酷く甘くて。
「ちょっと、いちご風味?」
「…ばか」
 少し掠れて濡れた声は、何に対してかなんて聞かなくても、たぶん。
 視線を絡ませてくすりと笑ったのは、きっと二人同時。

「「大好き」」


 そっと閉じた瞼の裏側で、かちりと何かが、嵌った音がしたような気がする。

 君を想う僕のココロと、僕を想ってくれる君のココロとが噛み合って繋がってひとつになって。
 そしたらもう、此処にあるものを計る方程式は、プラスでもマイナスでもない一番曖昧で一番確かな「0」を示すだろう。
 触れ合って溶け合って通じ合ったココロとカラダの距離の消滅を、いつだって互いに求めていること、きっと気付いてる。
 大好きと愛してるの境目で交わす唇の熱を抱えて、僕らの日常は終わらないまま。

 答えのない恋愛方程式は、いつだって新しい解を示し続けている。




E N D *



2005.10.25.

B A C K * / H O M E *