04


 本当に、これで良かったのか?、と。
 そう問う声が己の中から消えぬまま、快斗は…否、怪盗KIDは冷えた眼差しでこれから進入する予定の巨大建造物を静かに見上げた。

 あれから、『工藤新一』が『黒羽快斗』に対して接触を試みることは一度もなかった。
 白馬の説得が功を奏したのだろうか、とも考えたが、後日白馬本人から特に自分の声に耳を傾けていた様子はなかったから、何か自分の中で決着をつけたのだろう、というアバウトな判断を頂いた。
 まったく、ワケが分からない。
 兎も角、これで新一と快斗の関係は、関係とも呼べない振り出しに戻っている。怪盗と探偵としても、探偵の方で意図的に関わろうとしない限りは、そして快斗自身が殺人事件にでも巻き込まれない限りは接点はゼロといってもいいだろう。

 そして、快斗は平穏を取り戻した。
 …取り戻した、筈だったのに。

「……居ても居なくてもメーワクだなんて、どんな疫病神だよ…あのアホ探偵」

 只でさえ出来の良い快斗の頭の中から、あの夜の記憶も放課後の記憶も全く以って消えてくれはしなかった。
 それどころか、日を経るにつれてそれは痛みを伴い始め、あの縋るような眼差しが此方の罪悪感からか、詰るような眼差しだったのではないかとさえ思え始めた。
 あんなアホの事、知ったことかと強がっても、彼の知られざる過去を僅かながら共有した自分を自覚するだけに、それはなんの慰めにもならなかった。

 オレじゃなかったら、良かったんだ。

 あの夜、空腹の名探偵に遭遇したのがオレでさえなかったら、互いにこんなに傷付かずに済んだのだろう。
 例えば、彼の幼馴染。大阪の友人。隣の家の幼い科学者。
 そのうちの誰であっても、彼は今のような状況には陥らなかったろう。その好意は、確実な好意として受け止められる。自分のように打算や気紛れを疑わずとも良かったはずだ。
 そこまで考えて、ふと快斗は気付いた。
「ああ、そっか」
 こんなにも、自分が苦しく思うのは。彼の行動を理解出来ない、理解したくないと思うのは。
 何の躊躇いもなく、あんな傍迷惑な物体を家まで運ぶ。それは確実な好意であり、けれど快斗は特に見返りを期待したわけではなかった。
 あんまりにも無防備だったので、これは叱ってやらねば、とは思ったが、其処には打算は欠片もなかった。
だからこそ、彼に打算を疑われる、それが何より忌まわしくて、そこに至るだろう全てを拒絶していたかった。

 馬鹿じゃないのか、と己を嗤う。
 そんなこと、どうだって構やしないだろうに、と嘲笑う。

 それでも、時間は巻き戻らない。巻き戻らないから、自分は何度だって繰り返すだろう。考えるだけ無駄なこと、けれどもそれでは割り切れないから悩んでいる。

「……しっかりしろよ、怪盗KID」

 唇だけで呟いた己への叱咤の言葉に、予想以上に胃の奥が熱くなる。不愉快な気分は身体にまで伝播して、足取りを重く表情を暗く落とし込んでゆく。
 けれど、そんな事を考えている場合でもないのだ。目の前には本日の現場となるだろう建物。月は中天に、予告時間まで、一時間を切った。
 うまく気配を殺してはいるようだが、建物の周囲を取り巻く警官隊の存在は隠しようもない。…いや、ひょっとしたら自分のような輩以外には十二分に隠されているのかも知れないが。

 本日の獲物は、東都現代美術館の特別展の目玉として話題を攫っているビッグジュエル。
『朱の天鎖』と呼ばれる、深い赤を称えたルビーを中央に配した銀鎖の首飾りだ。芸術的観点からというよりも、確かな腕を持つ職人が作り上げたという銀鎖、そこに正確無比を誇る設計者の緻密な計算によって配置された他の宝石との対比が美しく、別名『数学者の輝石』とも称されている。
 数式の美しさに通じると言われる、小さな奇跡。
 全てを割り切る事が可能な美しさとは対照的に、そこに纏わる人の歴史はどこまでも不透明で相容れない。
 そして、今こうしてかの朱を求める自分さえ、割り切れない心を抱えて不透明なまま空を見上げているのだ。不条理というよりも、可笑しくて仕方がないような、そんな皮肉を感じる。
 果たしてそこに『不老不死』とやらが眠っているのだとしたら、余計に笑える結末だろう。数字と方程式の幾何学模様にも似た美しさに、不老不死などという無粋は似合わないにも程がある。
 それでも、可能性がある限り、快斗はそれを狙うだろう。かの朱を月下に晒して見ない限り、確実なものなど何もないのだから。
 現代建築の象徴のような、壁一面を覆うガラス板。垂直と曲線と極彩色と灰色が同居した、一見無秩序に見える物体。
 けれどそれは、別の視点から見れば整然とした秩序の中にあり、おそらくは物事の全てがそうした噛み合わない現実の中に一定の法則を以って其処にある。
 だからこそ、快斗は思う。不老不死など、終わらないものなど、くだらないにも程がある。
そしてそれは、己の意思によらずとも十年を遡った名探偵もまたきっと同じだったはずだ。彼の隣家の少女があの研究を封印したことこそが、その証明となるだろう。

 …結局、自分は無意識の中で、あの探偵に甘いのだろうか。

 はあ、と溜息をひとつ。あの夜からもはや癖のようになってしまったそれに、快斗は遠い目を星空へと向ける。青子辺りには『溜息ばっかりついてると、しあわせが逃げるんだから〜』とぶっ叩かれたりしたが、それで止まるくらいなら癖になったりしない。
 確かに、ちみっこくなった名探偵には、自分は甘かった。
過去のあれこれを思い返すまでもなく、我ながらちっさくなってるからって敵である探偵君相手に手ェ貸し過ぎじゃね?と思うくらいに甘かった。
 けれどそれも、彼が元の姿を取り戻した後は黒羽快斗的通常の対応に戻ったはずだ。なのに、疑われるほどに親切な行為と取られてしまうとは、己はひょっとして相当のお人好しなのだろうか。
「……正直、それは…凹むな…」
 はあ、と溜息をもうひとつ。
セキュリティが此方の干渉下にあることを確認してから、建物をぐるりと取り囲むアルミフェンスに手をかけ、軽い身のこなしでさほど高くもないそれを乗り越えた。
まるでそのものが芸術であるかのような、ブロンズ像が絶妙なバランスで配置された芝生の庭を横切る。カメラと警備員の死角は既に確認済みであり、昼間のうちに目立たないようにロックを外してすぐ外れるよう仮止めしておいた窓を開け、ひょい、と館内に身を躍らせた。
 相変わらず、ちょろい。監視システムに頼りすぎたセキュリティも、マニュアル通りの警備員も快斗にとっては何の障害にもなり得ない。

 障害があるとするならば、それはかの組織と、そして『彼』。

「それは…ないか」
 あれだけ手厳しく切って捨てて、反応が一切無い相手だ。いくらなんでも己の領域でもない事件現場に乗り込んで接触を図るようなことはしないだろう。
 目的の為には手段を選ばない一面はあるが、それでも人の心を無視するような無神経ではない。此方が確実な拒否をすると分かっていて尚積極的に出向くような理由は、新一には無いのだから。
 或いは、あの強引な接触は礼のひとつでも言わねば、と必死だったのかも知れない。そうだったら悪い事をした、と少しだけ落ち込みながら、快斗はふるりと頭を振った。

 忘れろ。今だけは、忘れてしまえ。
 黒羽快斗は此処には必要ない。

早く呼び覚ませ、『怪盗KID』を!

 すう、と意識のステージが切り替わる。幾つも存在する黒羽快斗の人格のひとつ、最も鋭利で紳士的なもの、今は『怪盗KID』に象徴されるそれが浮かび上がった。
 無駄のない所作で足を運び、事前に計画しておいた通りに使われていない資料室のひとつへと身体を滑り込ませた。設定しておいたセキュリティシステムと主電源への仕掛けへのカウントダウンを、噛み締めるように目を閉じる。

 スリー、トゥー、ワン、…ゼロ。

 カウントの終了と同時に目を開ければ、先ほどとは違う暗闇が周囲を覆っている。己の仕掛けの完璧な様にくすりと笑みを零し、快斗は…否、怪盗KIDは静かに行動を開始する。
 目指すは、特別展示室。
 ふわりと翻るマントの白を残像のように残して、先ほど入ってきたばかりのドアから身を躍らせる。但し、先ほどの落ち着いた色合いの服を着た、何処にでも居る男子高校生が、じゃない。
 白い戦闘服に身を包んだ、神出鬼没の大怪盗。或いは夢幻の類と同一視さえされているだろう存在。
 未だ電源が落ちた狂乱に揺れる館内の警備の隙を掻い潜り、僅かな月夜の灯りを頼りに、既に仕掛けを施しておいた高い窓へと手をかける。
 展示室の中から聞こえる、相変わらずな中森警部の怒号に唇をくい、と歪ませる。無意識の仕草だったが、そこにあるのは既に快斗の常の笑顔ではない。怪盗KIDに相応しい、あくまでもポーカーフェイスの範囲内に収まるだろう、アルカイックスマイル。
 僅かな床を蹴る音。同時に窓が枠ごとはずれて、がたりと少しばかり大きすぎる音を立てる。
 けれども狂乱と怒号に彩られた室内の音に比べればそれはずいぶんと控えめで、ガラスから強化アクリルに摩り替えられた窓は割れることもなくKIDの手によってそっと壁へと立てかけられるのみだった。
 こんなにも大胆に進入しているというのに、ただ闇に紛れて誰にも気付かれない。その事実が可笑しくて、そしてほんの少しだけ寂しい。
 もっと己を隙なく追い詰めて見せればいいのに。例えば、かつての小さな『彼』みたいに。
 そんな埒もない事を考えながら、セキュリティが死んでただの箱となった展示ケースを器用に開けて、暗闇にも確かな存在感を見せる石を無造作に取り出す。
 手袋越しにもひやりと冷たいそれに、こくりと息を飲み込む。頭の中でカウントしている主電源の回復までは…あと七秒。
 このまま事態が推移すれば大した障害ではないが、予定外の事態というのは往々にしてそういう場合にこそ訪れるものだ。今夜は『彼』のみならず白馬も参戦してはいないようだが、己が知らない要素が加わっている可能性はゼロではない。
 先ほどまで以上に神経質に、進入した窓から脱出する。窓の外へと身体が全て移行するかしないかのタイミングで電源が回復し、恐らくはマントの端でもひらりと視界に入ったのだろう。いつもの中森警部の『怪盗KIDだーっ!!』という叫びが聞こえる。
『…おせーよ、おっちゃん……』
 心の中で溜息を落としながら、頭の中に叩き込んだ平面図通りに階段を駆け上がる。館内に侵入する前に見上げた静かな月光を思い出し、今夜中に確認は可能だろうと、これだけは確かな楽観を覚える。
 三階建ての建物の、そう長くもない階段は直ぐに終わり。下調べ済みの小さな展示室のドアを開け、外へと開いたテラスに通じる大きな窓を押し開けた。
 通り過ぎる風に、新緑の匂いが混じっている。少し冷たいそれが頬を撫でるのが心地よい。
 右手に握り締めたままだった『朱の天鎖』を月光へと翳す。
 深い赤が銀光を反射して、何処か不可思議な光を宿す。
 …けれど、それだけだ。
「……ハズレ」
 期待をしていなかった、と言ったら嘘になる。
 けれど同時に、快斗はこの『数学者の輝石』に忌まわしい不死が宿っていなかったことに、安堵もしていた。だって、理と計算で形作られたこの美しさに、不思議も妖かしもあまりに相応しくない。
 あらかじめ準備していた小さな箱、中はビロード張りの宝石箱に宝石を落とし込み、かちりと蓋を閉める。これまた準備していたカードを蓋の隙間に差し込んで、そうっと足元に置く。
 この部屋の電源は、主電源が復旧したあとも戻らないように細工してある。中森警部がよっぽど抜けていなければ、夜明けまでには発見してくれるだろう。
ふ、と吐息をひとつ落として、テラスの手すりに足をかけ、躊躇いなく虚空へと身体を乗せた。この瞬間の浮遊感を、心地よいと思う。何度も体験し、その度に此処から逃げ出したい衝動をやり過ごす。

 そうやって過ごしてきた。今までも、そしてこれからも。
 追い詰める相手が変わろうと、自分が嘘吐きなのは変わらない。だからせめてその嘘が優しくあれば良いと思うのに。

 …そんな顔、すんなよな、名探偵。

 記憶の中の工藤新一は、自信満々な探偵としてのそれではなく。全ての印象が、あの日置いてきた縋るような眼差しの彼へと摩り替わっていた。快斗に固定されて動かない視線の強さが背中にへばりついているような幻想に、あれから何度悩まされたかわからない。
 幻なのだと、切って捨てられたらどんなにか良かっただろうに。
 振り切るように芝生の上を走りぬけ、ふわりとアルミフェンスを乗り越える。樹木と建物の僅かな死角を利用するように身を翻し、ふと視線を伏せて。

 そうして、気付く。
「めい……たん、て…?」

 息が、止まるかと思った。
 確かな存在感を普段では有り得ないほど希薄にして、ただ其処に佇んでいる。ペンキの剥げたベンチに腰掛け、焦点の定まらない眼でぼうっと空を見上げている様子は、快斗の知るどんな『工藤新一』とも合致しない。
 最強無敵の名探偵。意地っ張りで自信家で、けれどどこか抜けていて、極悪だけど基本的にはお人好し。
 けれど、こんな新一は…予想外だ。

 こくり、と息を飲み込む。退くべきか寄るべきか、己の行動を判断しかねている間に、ふと新一の青い双眸が夜空から此方へと向けられる。どきり、と心臓が跳ねる音を聞いたような気がした瞬間、快斗はもはや動けなくなる。

「…きっ、ど…?」

 ぱくり、と新一の口が開く。呆けたような呼び声に、双方の時間が止まったかのような錯覚を覚え、ざあ、と風が木々を揺らす音に瞬きも出来ずに立ち尽くす。

 馬鹿か、と冷静な己の一部分が嘲笑う。
 チャンスだ、と自覚もしていない感情的な部分が叫ぶ。

 けれど実際の自分はどちらも取ることが出来ず…ただ、無言で立っていることしか、出来なかった。
 どうして、とか、何故、だとか。疑問符が脳裏を駆け巡る。ぎゅっと握り締めた手袋の中の手のひらは汗ばんで、こんなに追い詰められた気分になったことはない、と快斗は思う。
 そんな中、目の前の名探偵は躊躇いがちに、低く呟いた。
「あの……KID」
 真っ直ぐな視線は僅かに逸らされ、たったそれだけでずきりと痛む己の中が理解不能だった。
 あの日、あの夜。余計なお節介でこのアホ探偵を拾いさえしなければ良かった。
 …否。そうでなくても、いずれ自分はこの心を覚えていたはずだ。だって自分は確かに楽しんでいた。この破天荒な探偵との対決を、いつでも楽しんでいたではないか。
 何も言わず、何も言えず、ただ新一の言葉を待つだけの快斗に、けれど新一はつっかえながらも、たどたどしくも、確かに言葉を紡いでゆく。
「あの、こないだは…悪かった。オメーに悪気があって、とか、そんなんじゃ…なかったんだ」
 そんな事は、分かっている。何かの悪意があってあんな可愛げのある芸当が出来るほど、この探偵は甘くない。
 むしろ一連の新一の行動に悪意が存在したのなら、恐らくは相当のお人好しなのだろう快斗の警戒など易々と掻い潜って、今頃自分は頭を掻き毟りたくなるような敗北感に打ちひしがれているに違いない。
「その…まだ、あの夜オメーに何をしちまったのかは思い出せたわけじゃねーんだけど…でも、悪かったとは、思うし」
 ゆらゆらと揺れる視線は確かに定まらず、そのまま彼の困惑と動揺を指し示している。
あの夜の無防備さは彼にとっても衝撃だったのだろう、それが今は快斗にも納得が出来た。
だが、快斗が本当に詫びて欲しいのは、そんな事ではなかった。それだけが…通じていない。再びきしりと痛みを覚える胸に奥歯を強く噛み締めて、快斗は硬く強張った喉を叱咤して声を吐き出した。

「…違う」
「え?」

 自分でもぎょっとするほど硬い声は、唐突に過ぎるほどの拒絶を示す音を紡ぐ。問い返す新一の声にすら苛立ちを覚え、快斗は根拠がはっきりしない気味の悪さを覚えながら、衝動に任せるように目の前の探偵へと詰め寄った。
「アンタ、何を聞いてた?そのお綺麗な頭の中身はカラッポか?オレの事なんざどーでもいい、オレはアンタに探偵ならもう少し自己保身に気をつけろって言ったんだ。
そんなアンタが、オレに近付いてどーなるっていうんだよ!?」

 そうだ、真に『名探偵』の事を思うなら。
 どう考えても、『黒羽快斗』と知り合いであるのはマイナスにしかならない。
 快斗とて警察に捕まるつもりは毛頭ないが、だからといって可能性がゼロであるわけではない。組織の手にかかって、死体だけ発見される未来も在り得る。
 そして、そんな事態に陥ったとしても白馬ならば自力で切り抜けられるだろう。けれど、目の前の『名探偵』にそれが可能だとはどうしても思えなかった。

 …だからこその、『名探偵』だ。
だからこそ、快斗はこの男と知り合いになってはいけない。親しくしてもいけない。切り捨てて、ただ敵対だけすればいい。其処に信頼があり奇妙な連帯感さえあったとしても、表面にあるべきは対決だけなのだから。

 勢いで吐き捨てた言葉は、けれども消えてもくれないし撤回もできない。しまった、と思った瞬間には新一の表情は強張り、その強い眼差しがずるずると地面を這う。
 言い訳を紡ぎかけた唇を、意図的に引き締める。
 これで、いいんだ。間違っていない。
 今度こそ、自分に近付いては来ない。好意も抱かない。そう、僅かな安堵と多大な痛みを噛み締めて、快斗は詰めていた息をゆるゆると吐き出す。

 けれど。

「……おまえ以外になんて、近付かない」

 ぽつり、と新一の口から零れた音に、快斗は一瞬意味を図りかねて動作を止める。けれども意味はやっぱり変わることはなく、今度はその言葉の意図を分かりかねて思考を止めた快斗に、新一は伏せていた眼差しを再び目の前の怪盗へと定めた。

「オレは覚えてないけど、でも肝心なことを間違えたりしねー。おまえだから、オレはあんなに無防備だったんだ」
「何、言って」
「間違えてない。おまえの説教だってちゃんとわかってる。
…わかってるけど、オレはたぶん何度だって繰り返す」

 …何を、言っている?
 この探偵は、何を言っている?
 何を馬鹿なコトを、探偵が怪盗を警戒しなくてどうするというのだ。オレが、怪盗が探偵を探偵として信頼するのとはワケが違う。自分自身の保身にも関わるというのに、何をこんな真っ直ぐな眼差しで呆けたことを言っている?

 ぐらぐらとする視界と意識に思わず額に手を当て、よろりと一歩後退する。人様よりもずっと回転が早いはずの頭は今はもう役立たずと化していて、疑問符を巡らせるだけの役立たずだ。
「何を言ってるのか、わかってんのか……名探偵」
「わかってなきゃ、オレはこんなこと言わない。
……おまえは、オレの『特別』だ。
おまえ自身にだって否定はさせない、オレの心はオレだけのものだ」
 だからこそ、悪かったと思うのだと告げる新一の声に、快斗の胸には甘い酩酊感が去来する。

 この、『名探偵』が。
東都……否、極東随一と言われるこの名探偵が、快斗が、快斗だけが特別なのだという。
 それがどれだけの意味を持つのか、快斗には正確なところはわからない。けれどこの快斗の感情を塗り潰すかのような歓喜は確かに真実で、無意識のままに白い燕尾服の胸をぎゅっと掴んだ。
「…オレは、怪盗だ。犯罪者だぞ」
「見りゃわかる。本気でオレが捕まえたいと思ったら、何時だって遠慮はしねーよ」
「全部アンタの買い被りかも知れねーだろ」
「そんなヤツは仮にも敵である探偵を、お人好しな事に家まで運んでくれたりはしねーんだよ、バーロ」
「……なんか企んでたら、どーすんだよ」
「そりゃオレの台詞だろ。第一、オメーはそんな事しねーだろ」
「……。」

 頭が、痛い。
 そして同時に、歓喜で胸が張り裂けそうになる。

 此処までの信頼を寄せられる何かが、自分にあっただろうかと考えるが、快斗にはどうにも思い当たらない。思い当たらないが、今となってみれば先日の下校時に襲撃されたのも、彼なりの親愛の情の表れだったのだろうかと眩暈を覚える。
 なんつーか、この探偵はいろいろ順番が間違っていないだろうか。

「…ホントに、アホだなアンタ…」
「む」

 言われた内容に流石にむっとしたのか、新一の細い眉がきりりと吊り上がる。けれど直ぐに泣き笑いのような快斗の表情に気付いたのだろう。ほにゃ、とあの夜の無防備な顔と同じように笑み崩れて、白い指先がシルクハットを退け、柔らかな癖毛を辿る。
 それが、心地良いだなんて、いったいどういうことなのだろう。

「…オレ、アンタの『特別』なのか?」
「おーよ」
「オレにもアンタは『特別』だったよ。アホだなーとは思うけど」
「誰がアホかっ!」
「…めいたんてー」

 腕を伸ばす。逃げない。
 肩を抱き寄せる。…逃げない。
 縋るように肩に顔を埋めても…やっぱり逃げない。寧ろ此方を気遣うようにそろりと背に伸ばされた少し冷たい指先に、なんだか泣きたくなるような安堵を覚える。
「仲良くしてーの?『怪盗KID』と?」
「おまえと、だよ」
「同じだよ」
「同じじゃねーよ、ばか」
 言い合う内容は上滑りして空回りで、けれど確かな温かみが其処にある。食い違うばかりだった自分と彼が、今は確かに此処にあるのだ。
 これが、幸福でなくてなんだというのだ。
 背中合わせだった存在が正面を向く、その意味はきっと自分たちにしか分からない。ただ、自分たちが歓喜と共に迎えるべきそれを、いずれ誰かが罪だと断罪したとしても。
「……それでも、嬉しいと思うのは、間違いじゃない」
「は?何て言った?」
「なんでもねーよ」
 ぎゅ、と抱き締めた肩は薄くて、慌てたように伝わる鼓動が少し早くなる。
 それが酷く可笑しくて、快斗は小さく笑みを零した。

 探偵と怪盗がともだち、…まあ、それも悪くない。

『だいたい、この抜けたアホ探偵には、だれかがついてて叱ってやんねーと、な』
 わたわたと慌てたように手足を動かしている新一に可笑しさを抑えきれないまま、快斗はそっと新一の肩に額を押し当て、瞼を閉じた。


 これではまるであの夜とは正反対の構図だと、何処か浮かれた気持ちで考えながら。



2008.12.08.

B A C K * / H O M E * / N E X T *