03


「…ありえねえ」

 ぽかんと口を開けて、次いで思い切り眉を顰める快斗の背中には、覚えのある体温と重みが、がっちりと張り付いていた。


 ……今日は、厄日だ。



■ ■ ■




 ダルイことこの上ない午後の授業をやり過ごし、昼休みに白馬に渡されたプリントは机に突っ込んだまま見ないふり……をしたかったが、白馬経由では後々面倒な事になりそうだったので(オレだって好き好んで青子の渾身の力を込めまくったビンタだの、白馬の黒い笑顔がオプションで付いた拳骨で、頭をぐりぐりされるのを享受する趣味はない)授業中に内職することでちゃちゃっと済ませて職員室に置いてきた。
 其処に少々の茶目っ気と遊び心という名のトラップが仕込んである事実は…まあ、快斗だからと納得されるだろう。
 そんなこんなで散々な一日をもうこれ以上満喫する気もなく、寄り道の予定もないことだし、さっさと帰ってだらだらごろごろ寝て過ごそうと企んでいる。
 三段飛ばしで階段を駆け下り、昇降口で靴を履き替える。別れを告げる友人たちの声に適当に応えながら、やや小走りの歩調で校門をくぐろうとした、その瞬間。

 がばー、ぎゅーっ!

「……どわあああっ!?」

 唐突に、背中に何かがしがみ付く感触。
 暖かくて柔らかくて重い、それの正体なんて昨夜、嫌と言うほど知らされたから、もはや叫ぶ言葉に迷いなんてあるはずが無い。
「てっめー、こっのアホ探偵!ナニしやがる!」
「……。」
 無言のまま、背後から抱きついている相手が誰かなんて、考えるまでも無い。
 東都の名探偵。日本警察の救世主。
 工藤新一、その人である。
「なんなんだ、なんなんだよオメーはよっ!?オレになんの恨みがあるってんだよ!」
「……べつに」
「だったら!は〜な〜せ〜っ!」
「…やだ」
 噛み合わない会話を続ける二人に、最初はぎょっとした顔で此方を伺っていた江古田の生徒たちだったが、何せ騒動の片割れは江古田でも有名なお祭り男。そしてもう一方は直接は知らないまでも、誰もが知ってはいる東都の名探偵。
 係わり合いにならない方が、身の為だと。周囲が判断するまでにかかった時間は記録的に短かった。
 皆、そそくさと視線を合わさないようにしながら快斗と新一の横を通り過ぎて行く。クラスメイトたちさえそれに加わっていたのを知った時には、薄情者、と恨みがましく呟いてみたが効果はなかった。
 ちくしょう、次のテストのヤマはあいつらには絶対教えねえ。
 不穏なことを考えながら、べっとりと張り付いたままの帝丹高校の青いブレザーに快斗ははあ、と溜息をひとつ。
「……あのな、めーたんてー」
「む」
 ぎゅ、と腕に力が篭もり、首が絞まる未来予想図に快斗はぐっと背筋に力を込めた。この探偵と快斗の背格好はほぼ同じ、体勢を崩しさえしなければ、跳ね除ける事も容易なはずだ。
 このアホ探偵が何を考えてこのような事態に発展したのかなど、想像もしたくない。したくないというよりも、できない。快斗の想像の範疇外だ。
 痛むこめかみを押さえながら、快斗は殊更噛み締めるようにして言葉を選び、問いかける。
「何しに来たんだ、いったい」
「オメーに会いに」
 さらっと告げられた言葉に、快斗は思わず絶句する。
 もう少し、婉曲な言い回しとか。飾った言い方とか、あるものではないのか。否、そもそもそれをオレに言うのがわからない。
 切羽詰ったKIDの現場でも、こんな気分になった事はない。
 なんというか、理解の範疇を超える。
 それは、快斗という規格外の存在にしては滅多にない感覚で、故に慣れない不安に眩暈さえ錯覚しつつ、ぐっと己の首筋に回された白い腕を掴んだ。
「と、とりあえずソコはわかった。わかったから離せ」
「やだ」

 …こんの、アホ探偵!?

 ひくり、と眉間に皺が寄る。
 どうにも言葉の通じない異星人を相手にしているような錯覚を覚えるのは、己の気のせいだろうか。ぐらぐらと不安定になる視界に、ざあと引くような血の気に、快斗は本格的にどこか遠くへ行ってしまいたい、と心から願った。

 落ち着け。落ち着け、黒羽快斗。
 このアホ探偵と言語を交わすのに必要なのは、根気と気力と心の広さだ。間違っても知性だの常識だの、社交性とかでは、ない。
 ひそひそと何かを囁きながら通り過ぎる江古田の生徒たちが恨めしい。ああ、きっと明日は何とも言えない噂話が飛び交うに違いない…!

 いっそ此処に誰かが、快斗と親しい誰かしらが通り掛ってくれないだろうか。そうしたら現状をぶちまけて、このアホ探偵の被った猫の大きさに期待するという選択肢もあったのに。
 しかし幸か不幸か、職員室にプリントを置いてきている間に青子はさっさと女友達と共に帰ってしまっていた。他にも、と考えるが、こんな強烈な個性を持つアホとはいえ名探偵に対抗できる相手など、そうそう居るものではない。
 きりきりと痛むような気がする胃の辺りを擦りながら、どうしようかとIQ400を誇る頭脳をフル回転させようとした、矢先。

「……何をなさってるんですか、貴方たち」

 快斗にとっては天の声。
 背中にへばりついている物体にとっては…どうだろうか?
 とにかく呆れたような声の主に、快斗はへにゃりと情けない表情を向けた。
「あああ、は、はくば〜!いーところに!!」
「…む」
 縋るような快斗の声と、不機嫌そうな新一の声。
 見た目そっくりな、制服だけ違う擬似双子が対照的な表情で此方を見つめている、という何とも言えない状況に、白馬の柔和な表情にもぴしりと亀裂が走る。
「コレ!このアホ探偵引っ剥がしてくれよ!理由も言わねーで人様の背中に張り付いて剥がれやしねえ!」
「…はあ」
 白馬が視線をちらりと向ければ、更にむっとした表情で快斗の背中に張り付いた新一が眉根を寄せる。仕方無しに剥がそうと手を伸ばすと、離れまいとしているのか腕に力が篭もり、喉が絞まったのか「ぐえ」と快斗が嫌な呻き声を漏らした。
「剥がれませんよ、黒羽君」
「…ううう、なんなんだよ、このアホ探偵……!」
 少しばかり粘ってみたが、どうにも新一が快斗から離れる様子もない。ぎゅうぎゅうと張り付いている擬似双子の片割れに、白馬は溜息をひとつ落として肩を竦めた。
「…黒羽君。離れたくないみたいですよ、工藤君」
「……あ、そぉ…」
 白馬と顔を見合わせ、二人揃ってはあ、と溜息をひとつ。
 昨夜から幾度同じような溜息を落としただろうと数えるのも億劫になりながら、己の首筋に顔を埋めている名探偵の体温に、ちり、と僅かな痛みを覚える。
 何を思ってこのアホ探偵が此処に居るのか、快斗に張り付いているのか。さっぱり分からないし、動機と言うには薄すぎる昨夜の出来事が余計に謎を深める。
 そして、肝心の相手はその本心をちっとも明かそうとはしない。
 いい加減に苛立ちを覚えつつ、快斗は聊か乱暴に背中に張り付いていた物体を引き剥がした。
「…いい加減にしろよ、アンタ」
「っ……」
「オレに迷惑をかけるな。…そう、確かに言ったよな?」
「い…われた、けど、」
 先ほどまで馴染んでいた体温が離れる寂しさを誤魔化すように、努めて冷淡な口調で告げれば、男にしては綺麗な白い頬がひくりと引き攣るのがわかった。傍らの白馬が其処まで言わずとも、と言外に非難の眼差しを向けているのも承知していた。

 けれど、これ以外に自分に、何が出来る?

 彼は探偵で、自分は怪盗だ。
 馴れ合いは望まないし、同情なんて余計に要らない。
 白馬を許容するのは、彼の中で『黒羽快斗』と『怪盗KID』への線引きが、ようやく形成されつつあるからに他ならない。
 工藤新一にそれを求めるには、彼との繋がりは希薄に過ぎた。あの夜が幻だったのだと、そう決めてしまうことが双方共に最も優しい結末だろうと思うのに。
 どうして、この探偵はそれをひっくり返そうとしているのだろう。
 どうして、わざわざ面倒な方向へと事態を向けようとしているのだろう。
 そんな苛立ちを押さえきれないままに、視線を反らしもごもごと聞き取れない呟きを漏らす新一に、快斗はぎゅっと拳を握り締める。

 もう、たくさんだ。うんざりなんだ。

「…帰る」
 無表情、無感情な声をぽつりと落とし、快斗は新一の横をすり抜ける。
 時間を無駄にした。こんなヤツに関わり合いになるんじゃなかった。ちりちりと脳裏を焼く焦燥は、何に起因するかなんて考えたくもない。
「ま、待って…!!」
 はっとしたように追い縋ろうとする新一を、視線だけで押し留める。ぐっと言葉に詰まって立ち止まる様子には少々罪悪感を覚えないでもなかったが、此処で仏心を出してしまえば昨夜の二の舞だということくらいは、快斗にだってわかっていた。
 だから。
「……白馬。ソイツ、追いかけてくるようなら押さえとけよ」
「君は本当に僕を何だと思ってるんだい…」
 本当に仕方ない、と肩を竦める白馬の善意に縋っているという自覚はあった。あったけれども。
「……。」
 まるで、縋るような眼差しで此方を見る工藤新一と、これ以上冷静に話ができる自信が、快斗にはなかった。感情的になる事を戒めているはずのポーカーフェイスが、作れなくなってしまうのは恐怖だった。
 だからこそ、振り向かずにさっさと足を進めるのに。

『…しせん、が』

 あの青い双眸が、何の迷いも無く、躊躇いもなく、ただ快斗の背中にだけ注がれている。
 白馬が彼を宥めている声は段々と遠くなるのに、その視線の強さだけは薄まる事無く快斗を射抜く。居心地の悪い感触と、同時に何かが満たされる感覚。相反するようでいて、けれどそれは同じ位置の裏返しなのだと。理性ではない、感情が告げている。
 寝覚めが悪い。何かが噛み合わなくて気味が悪い。

 何か肝心なパーツが抜け落ちたものを組み立てているような錯覚…そう、午前中も眠気に半分以上侵食された自分はそんな事を考えていた。けれど睡魔に負けて放棄してしまった思考だ。
 背中に纏わりつく視線は、未だ消えない。
 本来曲がる必要のない路地を一本左へと折れる。普段の登下校には使わない道。白馬辺りは理由に気付いたろうか。…あるいは、あの敏い名探偵も。
 頭を振る。どうでもいい。どうだって構わない。
 もう二度と、あのアホ探偵だって自分に関わろうなどと考えないだろう。そして自分も関わらない。不干渉に基づく無関係の構築、まさしく己が望んだ事態のはずだ。
 そのはず、なのに。

「ちくしょう…痛ェ」

 押さえた胸が、きしりと軋む。
 何か理性とは、頭とは別の場所が痛みを訴える。
 その理由を考えないようにしながら、考えたくないと必死で逃げながら、それでも快斗の脳裏を過ぎったのは。

 あの、綺麗で澄んだ青の双眸だった。



2008.12.08.

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