01


ぱかり、と唐突に目が覚めた。

 時刻は深夜、典型的中流家庭ばかりの江古田の町は、街灯の仄かな明かりを除いてすっかりと夜の静けさに包まれている。
 そんな中、唐突にとある衝動に突き動かされるようにして目覚めた黒羽快斗は、しょぼつく眼をごしごしと袖口で軽く擦り、ふわあ、とひとつ欠伸を落とす。
 きょろりと見渡した室内もまた、闇に落ちてカーテンから細く入る外の光だけが光源だったが、闇に慣れた快斗の視界を遮るものではない。
 ゆっくりと身を起こした快斗は、何の迷いもない足取りと手付きで自室の蛍光灯のスイッチをぱちりと押した。
 途端、明るくなる室内。
 その光量のギャップに目を細め、快斗は小さく瞬きをする。ふわあ、ともうひとつ欠伸を落とすのと。
「……腹、減ったなあ…」
 ぐきゅるるる、と正直な胃袋が悲鳴を上げるのとは、ほぼ同時の出来事だった。
 黒羽快斗、十八歳。ぴちぴちの現役男子高校生。
 育ち盛りの年頃は流石に過ぎたが、新陳代謝MAXな食べ盛りの時期はいまだ過ぎてはいない。夕食は腹いっぱい食べた筈なのに、夜中に空腹で目が覚めるのも珍しい事ではなかった。
「…食い物」
 静かに自室のドアを開け、暗い廊下へと足を踏み出す。裏家業で鍛えた忍び足で階段を降り、既に寝付いているだろう母親を起こさないようにキッチンへと向かい、其処に鎮座している白い冷蔵庫のドアをがぱりと開いた。

「なっにがあるかな、なにがあるかなー」

 マヨネーズ。マーガリン。ジャム。ハム。たまご。
「トースト、サンドイッチ……ダメだ、食パンがねえ」

 昆布の佃煮。辛子高菜。梅干。
「おにぎり……は、論外論外。米炊かねーと」

 鶏肉。豚肉。合い挽き肉。
「肉…はちょっとなー」

 本来真っ先に飛びつくべきインスタント食品やスナック菓子の類は、この間在庫一掃、とばかりに一月かけて消費しまくったばかりで、まだ次の備蓄を買い込んでいない。
炊飯ジャーの中身は今夜の夕餉で全て食いつくし、米はあるが炊けるまで待てるほど腹の虫は大人しくはない。今もまだ空腹を主張し続けているのだから。

 さて、ならばどうするか。

 黒羽快斗は、良くも悪くも全ての事柄に対して即断即決の男である。その回りすぎる頭脳によって思い悩む時間がすこぶる短いのと、そもそも思い悩むような殊勝な精神構造をしていない、というのもある。
 そして、この場合残った手段はただ一つ。
「……よし、行くか!」
 再び足音を殺して階段を上がり、自室へと戻った快斗はきょろりと辺りを見回して、目的のものへと手を伸ばした。
 学生服のポケットに入りっぱなしだった財布を引っ掴み、椅子の背に引っ掛けてあった薄手のパーカーを羽織る。下はパジャマ代わりのスウェットのままだったが、暫し無言で思考した後に『まあいいか!』と気にしないことにした。
 どうせ行き先は、深夜営業のコンビニだ。多少身なりが整っていずとも問題はないだろう。これが表であれ裏であれ『お仕事』だったら髪の毛一筋たりとて気を抜くことはない快斗だが、空腹に耐えかねて目を覚ました理性の足りていない現状ではどうでも良いことだった。
 夜中に抜け出すことが珍しくない身の上の備えとして、押入れに放り込んであったスニーカーを履き、おもむろにがらりと自室の窓を開けた。
 アルミサッシに足をかけ、きょろりと周囲を確認してからとん、と軽く蹴って身体を外へと押し出す。ふわり、と僅かな浮遊感の後に、足裏に響く振動。音だけは綺麗に殺したその一連の動作に合わせて、風を孕んだパーカーが背に沿って舞い降りる。
 垣根をひょい、と乗り越えて、家から歩いて5、6分の位置にあるコンビニへと足を向ける。いよいよぐう、と音を立てて主張を始めた腹を宥めるには、もはや何かを胃袋に補給してやる他にないのだから。
 知らず小走り気味にほてほてと足を進める快斗の背後で、三日月が笑うようにぽってりと光っていた。



■ ■ ■




「ありがとうございましたー」
 ヴィイイン、と少し重い稼動音をさせて自動ドアが開き、店員の見送りの声が背後から響く。
 店に居る間に腹の音がしなかったことに少しほっとしながら、快斗は袋をごそごそと漁り、温めてもらったホットドッグを取り出す。
 熱い、というほどではないが不快ではない程度に温められたそれはほのかにケチャップとソーセージの匂いを漂わせ、空腹を更に助長する。
 既に我慢する必要はないのだ、とごくりと唾を飲み込み、逸る気持ちを抑えつつびりりとパッケージを破き、はぐりと湯気を立てるホットドッグに齧り付いた。
「…〜〜〜♪」
 空腹に染み入るチープな味に、思わず相好が崩れる。他にもスナック菓子だのサンドイッチだの炭酸飲料のペットボトルだのが入ったビニール袋をがさがさ言わせながら、すわスキップかと思われる足取りの軽さで帰路を辿る。

 けれども、予想外の出来事というのはそういう日常の隙間にこそ転がっているものだ。

「…っ!」
「!!」

 ホットドッグをはぐりと銜えたまま、大通りの二つ目の角を曲がったところで、快斗はそれに遭遇してしまった。
 きょとり、と蒼い双眸を見開き、次いでぱちぱちと瞬きをする己とほぼ同世代の、背格好のみならず造作までよく似た少年。
そんな存在は、快斗の知る限りこの東都にはただ一人、かの『日本警察の救世主』しか存在しない。
『め、めめめめ、めーたんてー…!?』
 動揺も此処に極まれり、というほどの内心の乱れっぷりは表にはちいとも出しはしなかったが(腐っても怪盗KIDの名を名乗る存在であるからして、滅多矢鱈な事では鉄壁のポーカーフェイスは崩せない)咄嗟に何をしたらいいのか、思考が吹っ飛んだのも事実である。

 だから、快斗はこの場での対応を誤ってしまった。
 一瞬の空白時間。
 呆けたように立ち尽くした快斗が、口の中に入ったままだったホットドッグをがむ、と噛んだその瞬間に。

 『それ』は、起こってしまったのだ。

「…うまそ」

 ぽそり、と呟いた新一の声が脳に到達して、意味を理解するまでにかかった時間は、常日頃の快斗の頭脳の回転数からすれば有り得ないほどに遅かった。だから、咄嗟の反応も一拍遅れる結果になり。

 がぶーっ!
「っ!!?!??」

 目の前に迫る、新一の蒼い双眸。
 先ほどまでホットドッグを銜えていた唇に触れる、柔らかく暖かな感触。仄かな吐息。肩を掴んだ手の熱さが、やけに印象に残った。
 歯に確かに残っていた筈のホットドッグの感触と質量が消え失せるのと、ぺろりと快斗の唇を湿った柔らかい何かが辿ったのが、ほぼ同時だった。
「…けふ、」
 よろよろと後退りした快斗の目の前で、顔中に『ご満悦v』と書いてある新一が、ケチャップが付着した口の端をぺろりと舐めて、満足そうな吐息を漏らす。
「な、な、な……なんなんだ、なんなんだよアンタっ!?」
 漸く取り戻した冷静さと、それでも混乱している自意識の微妙なブレンドの中、それでも反射的に快斗は叫んだが、相手はほにゃんと緩んだ表情のまま、目の前で立ち尽くす快斗をぼーっと見つめている。
 混乱を極めた快斗の叫んだ内容を咀嚼するように少し小首を傾げ、次いでぱああ、と表情を輝かせて両腕が伸びた。
「え?ええ!?」
 しなやかな腕が、するりと快斗の首と肩に絡みつく。再び動揺する快斗を知ってか知らずか、またもや互いの唇が触れ合うほどに接近する探偵と怪盗。
 なんなんだ、なんだというのだこの異常な状況は。
もはや錯乱した意識は己の行動すら律すること叶わず、快斗はただ目の前で事件現場や対決の際には見たことがないほどの上機嫌な笑顔を振りまいて、東都の名探偵と思われる物体が浮かれている様を観察することとなった。
何をしたいのか良くわからないが、ホットドッグをもぎゅもぎゅと咀嚼し終わった名探偵はそのまま快斗に思い切り、ぎゅーっと抱きついてきて。
「ごちそうさまー」
「……はァっ!?」
「そんでおやすみなさいー……」
「…ええええ!!?」

 オチた。

「ちょ、ちょっと!めーたんてー!!」
「……ぐぅ」
「ねーるーなー!」
 がくがくと揺さぶっても何をしても、快斗の右肩に頭を預けるようにして寝落ちた新一は、眠りから覚める気配すらない。気持ち良さそうな寝息が首筋を擽っている。
「ナニ、なんなのアナタっ!何企んでやがんのっ!?」
「…くー……」
 一生懸命これはこの悪魔のような探偵の企みに違いない、と思い込もうとする快斗だが、気の抜けた寝顔でくったりと此方に重みを伝えてくる存在に、端からシリアスな考えが散らばってゆくのを自覚せざるを得なかった。

 いったい俺が何をしたというのか、単に夜中に腹が空いたからコンビニに出かけただけじゃないか。
 それともアレか、怪盗なんぞという副業を営む人間にカミサマとやらはとことん冷たいというコトか!?差別だ!

 …などと思考は空回りを続けているが、何か建設的な案が出るはずもなく。『真夜中の道端で、己が好敵手と見込んだ相手にホットドッグを奪われ、尚且つそいつに目の前で熟睡されて枕代わりになっている』という現実に太刀打ちするには、生半可な事ではない。
 黒羽快斗のIQ400という非常識な頭脳を以ってしても、途方に暮れる以外の事が出来ないのが現状であった。
「めーたんて…起きろよ〜…」
「…むにゃ」
 少しばかり乱暴に揺さぶってみても、うー、とかむー、などと寝言っぽい音が零れるだけで起きる気配さえない。はてさて本当にどうしたものか。捨てて帰る…のは、
「むにゅ…v」
ここまで安心しきった様子で寝こけられては、知らない相手でもないことだし流石に気が咎める。
かといって、これを回収してくれるだろう相手に連絡するのも、『黒羽快斗』には不可能なわけで。

「どうしろってんだよ〜(汗)」

 くうくうと気持ち良さそうに眠る名探偵を肩に載せ、快斗は途方に暮れて空を見上げた。
 夜空に浮かぶ三日月が、御伽噺の如きチェシャ猫の笑みに見える己を、ちょっとだけせつなく感じながら。



2008.12.08.

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