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 小さな子供の姿をした恋人を抱き締めながら、その嗚咽に震える背を撫でながら、快斗は至上の幸福を噛み締める。
 ただ、彼に会いたかった。
 その為だけに過ごしてきた時間は長くは無いが決して短くも無い。ようやく手の中に戻ってきた温もりにじんわりと浸っていると、唐突に腕の中の子供が声を上げた。
「あ……ヤベ」
「ん?」
「ちょ、快斗、離せ!緊急事態だ!!」
 じたばたと短い華奢な手足をばたつかせて下ろせと抗議する新一に、快斗は名残惜しくはあったが仕方なく力を緩め、腕の中から開放してやる。とん、と軽い足音と共に床に下りた新一は、何かを確かめるように顎に手を当てて視線を斜めに過ぎらせた。
「フィールドステータスが変動してる……マジかよ、マスタコードが拒否されてる?」
 小さな腕が大きく空間を薙ぎ払えば、その軌跡に沿ってこの『cube.』の構築回路が浮かび上がる。新一が組み上げた稀有なプログラムのその一端を見る快斗には、それが何を指し示しているのかは容易に想像はついた。
 立体的に浮かび上がるそれらに触れて、また書き換えて流す事を繰り返す新一の表情に浮かぶ焦りの色に、快斗は緩んでいた頬を引き締めてそっとある一点を指し示した。
「ココだ、新一。制御システムが良くわからない動作を繰り返してる……これ、何の接続コード?」
「ちょっと待て、E-094からF-402までは正常値だから……ココか?[H-R84-K]」
「そう、そこの……それだ、ログイン管理とフィールド構築の接続コード」
 白い手袋に包まれた奇術師の指先が、流れ落ちる寸前の僅かな違和感を与える数値を拾い上げる。電脳領域を視覚と触覚で理解する二人だからこその行動は、恐らくは大多数の人間に脅威を与えるだろう。
 だからこそ、『cube.』は画期的なのだ。
 新一が『cube.』の構築によって示そうとしたのは、こうした行為を全く特別ではないものに引き下げる事に他ならない。インターフェースとしての究極とも言える[SCS]を越える為には、もはやこれしか方法はなかったのだから。
 しかし、現時点ではやはりこうした作業を行えるのは二人が知る限りは互いだけで、そうして摘出されたエラー箇所に新一はこれ以上無いくらいに嫌そうな顔で舌打ちをする。
「最悪だ。テストフィールドの確保に失敗して、演算ユニット内で無限ループしてやがる」
「それって……やっぱ?」
「……閉じ込められた」
 吐き捨てるように呟いた声に、快斗は額に手を当てて溜息をひとつ落とした。どうやら先ほどの緑色のビジョンの形で見えたのは、ルナ・ベースの最新鋭演算ユニットの外殻領域だったらしい。こうなってしまえば仕様に基づいたログアウトはほぼ不可能、残るは現実世界からの強制シャットダウンだけなのだが。
「快斗、端末の電源落とすなよ。サーバの復帰が早すぎてこっちの意識が切り離せない」
「あちゃあ……それって」
「下手すりゃ分割してる意識のいくらかが永遠にサイバースペースの迷子になる。……俺たちにとっちゃ致命傷だ」
 黒羽快斗の自意識は、その半分以上を彼の養い親が構築した自律稼動式AIに依存している。同様に工藤新一の意識も、そのステージの幾割かは脳内に構築されたナノマシン群体のネットワークに補助されている。
 即ち其処に重大な損傷が与えられれば、彼らそのものを害する事になってしまう。ネットワーク上では無敵な彼らだが、今回はそれが仇となってしまう結果となったわけだ。
 新一がその指先で振り払うように広げていた構築式を消去し、埃っぽいソファへと腰を下ろす。もわ、と広がった綿埃に眉をひそめ、けれども立ち上がる事もなくどっかりと背を柔らかなそれへと預けた。
 何かを思い悩むようなその仕草に、快斗はひとつの可能性に気付いて目の前の子供の名を呼んだ。
「……新一」
「なんだよ」
 上目遣いに此方を見るその双眸に、快斗は己の考えが恐らくは正しいであろう事を悟っていた。
 恐らく、新一はとっくに気付いているのだ。この状況を打破する唯一の方法に。
「あるんだろ、脱出方法。俺に気兼ねしてんなら無駄だからな」
 さっさと吐け、と子供特有の柔らかな頬をむにょりと引っ張ってやって、殊更に意地悪い笑みを唇に刻む。痛ェよ離せバ快斗!と叫ぶ新一の頭をぐりぐりと撫でて、どうにも重い新一の口が開くのを待った。
 散々乱暴に撫でられてぼさぼさになった頭に閉口したのか、口をへの字に曲げてようやく新一は己の頬を引っ張ったままだった快斗の手をぺちりと叩いて、彼の知る唯一の方法について話し始めた。
「コイツは現在テスト中のミッションだが、クリアすれば初期設定上ではエリアが切り替わる。此処がダメならそっちもダメかも知れねーが、まあ一か八かやってみる価値はあるかも知れねえ。
ただ……マスタコードが無効にされてるからな、正式配備されてるスキルとアイテム以外は俺も使えねえ。しかもタチの悪い事に、今テストしてたのは現在考えられる中でも最高レベルのミッションだ。
ちなみに快斗、今のオメーのレベルって」
「ん?俺?」
 緊張感の欠片もなく、一応生きている設定になっていた自販機で激甘ココアを購入していた快斗は、新一の問いかけにへらりと笑って両手を広げ、そのうちの3本を折った。
「……25?」
 おそるおそる、といった様子で問いかける新一の声が震えていたのは気のせいだろうか。それとも。
 どちらにせよ、空気を読まずに快斗はあっけらかんと真実を告げる。
「いんや、7」
「低っ!!?オメーなんでそのレベルでこのエリアに来れるんだよ!!」
「はっはっはー、往年のゲームマスター快斗君をバカにしちゃいけないぞー、新一」
「冗談じゃねえ!このミッションの適正レベルは65~70なんだぞ?!」
 しかも往年ってなんだ、そんな歳じゃねーだろテメー!?と地団太を踏む新一の姿に、状況は最悪に近いはずなのに快斗は零れる笑みを抑えきれない。
 ああそうだ、こうして喋って触れて共に在ること、それだけで満たされると告げた、その言葉に嘘はなかったのだ。例え此処が奈落でも、新一さえ居るのなら快斗はそれでいい。生きる事と死ぬ事に理由も価値もないけれど、こうして存在することには意味も価値もある。
 だからこそ、嬉しくて仕方がないのだと全身で表現する快斗の様子に呆れたのか諦めたのか、新一は特大の溜息をひとつ落として、背を預けていたソファからゆっくりと立ち上がった。
「まあ……此処でくだ巻いてても仕方ねえ」
 ゆるりと振り上げた新一の両手に、ノイズと共に彼の装備品なのだろうリボルバーが握られる。現実世界でこんな子供が使えば身体ごと吹っ飛ぶようなシロモノだが、そこはゲームの世界、多少の融通は効くらしい。
 快斗もまた、ずり落ちかけていたシルクハットを目深に被り直す。黒羽快斗ではない、『怪盗KID』の意識のステージを少しばかり多めに切り取って、外へと通じるドアを一瞥する。
「……行くぜ。目指すは七十七階、中央研究室跡だ」

 その手が拒否されることなど、考えもせずに手を伸ばして。
 差し出された小さな手を、何の迷いも無く取って。

 二人は、揃って勢い良くガラスのドアを蹴りつけた。



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 廊下を疾走する足音に重なるように、形容し難い粘着音が背後から迫り来る。それはあの時ドアの隙間に逃げ込んだ溶けたボウガンの矢と同じ種類のもので、二人の呼吸の合間を邪魔するように弾丸と化した鋼鉄片が壁へと散弾のように打ち込まれてくる。
「何なんだよ、ありゃっ!?」
「フロア徘徊系の最強クリーチャー!液化金属で構成された個体で、得意技は分裂と形状変化!」
「弱点は!?」
「四十二階のセキュリティゲートに設置してある液体窒素ボンベをぶちまけたら止まる設定にはなってるけどなっ」
「……あとどのくらいあるんだよ、そこまで」
 牽制を兼ねてトランプ銃を打ち込めば、その一瞬だけは退いてくれるが、直ぐに足元まで追い縋ってくる。現状におけるゲームオーバーは強制シャットアウトと同じく、互いにとって生死の境目に直面する羽目に陥ることは確実で、故に何が何でも無傷で中央研究室跡のある七十七階まで辿り着かねばならない。
 そこかしこで遺棄された大型備品や防火シャッターが行く手を阻んでいる所為で、上階への道も曲がりくねった複雑なものとなっている。マップとクリーチャーの行動パターン、更にフィールドギミックを完全に把握している新一が居るから相当に短縮された経路を辿っている筈なのだが、ギリギリでスリリングな気分は変わらないままだ。
 壁に埋め込まれたパネルでギミックを操作しながら、タイミングを見計らって己も両手に握り締めたリボルバーをクリーチャーに打ち込んだ新一の促しに従って、快斗は飛ぶように走りに持つ運搬用のエレベータへと身体を滑り込ませる。
 金属片が周囲のコンクリートに打ち込まれるのと、鋼鉄製のドアが閉じるのはほぼ同時。簡易的に鉄板を貼り付けただけの床に、二人背中合わせにずるずると腰を下ろした。
「やれやれ……なんつーピーキーなゲームバランスだよ」
「うっせ。まあ、これで物資集積場がある七十階までノンストップで辿り着けるはずだ」
 裏道だけどな、と呟く新一に、快斗はようやく安堵の吐息を吐き出す。本業であるINP管理官の業務並みに綱渡りなミッションに、その額をつう、と冷や汗が流れ落ちた。
「なあ、フロアマップって見られねーの?」
「ん?……ああ、そうだな」
 ぱちり、と瞬きをひとつ零して、新一の指先が宙を踊る。浮かび上がるステータスウィンドウが青く広がって、半透明の立体マップがエレベータの狭い内部に展開される。赤で表示されているのがエネミー、緑色が自PC。目的地は青の塗り潰しの点滅で表現されている。百を越える階層から成るこの灰色の街に聳える塔の全容に、二人は食い入るように視線をその赤い光へと向けた。
「最上階から蹴散らしながら降りてきたからな……そう大したモンは残っちゃいねえはずなんだが」
 告げる新一の言葉通り、思ったよりも数は多くない。目的地までどうしても不可避な戦闘は一箇所あるかないかで、後は選択ルートとギミック起動でどうにかやり過ごせるだろう。新一の小さな指が立体マップを滑るように辿り、緑色のラインがその軌跡に描かれていく。
「七十階から先はノンストップで突っ走る。ルートは……」
 エレベータの出口から四階層分ぶち抜きのエスカレーターを駆け上がり、保安警備の詰め所を経由して非常階段へ。七十六階でフロアに戻り、セキュリティゲートを通り、ぶち抜きワンフロアの中央研究室へ。
「逃走できない設定のクリーチャーはこのエリアには存在しない。とりあえず接触はなるべく避けて進め」
「オッケー。……さて、そろそろだな」
 身軽な仕草で身体を起こし、子供の姿の新一へと手を伸ばす。重ねられた小さな手を取ってその身体を引き起こし、見つめる先の簡易ランプが到着を告げるように赤く光り、搬出のブザーを鳴らす。
 上昇速度がやや落ちて、がくりと殺しきれない反動が床から全身へと伝わる。ぞわりと背筋を駆け上がる重力の違和感に息を飲み込み、左右に開いたドアから飛び出すように二人は駆け出した。

 そこから先は、もう無茶苦茶だったように思う。

 兎に角銃弾という銃弾を撃ち尽くし、使えるスキルとアイテムは全て使った。足が折れるかと思うほどに走って、ゲーム内の事なのに現実世界の己の身体が早すぎる鼓動に悲鳴を上げるほどに必死だった。
 ぼろぼろになりながら二人ほうほうの体で七十七階に辿り着き、電源が落ちて書類が散らばった大きな部屋に駆け込んでドアのロックをがちりとかける。ドアを背に吐いた溜息は酷く重苦しくて、顔を合わせて苦笑を漏らす。
「はは……なんとか、なるもんだな」
「無茶苦茶だぜ……二度とやらねーぞこんな事」
 研究所からの脱出よりヘビーだった、と頬に走った擦り傷を袖で擦り、新一は目の前に位置している大きなコンソールパネルのアクリル樹脂でカバーされた非常用の起動ボタンを、カバーを叩き割って押し込む。西側の壁を埋め尽くす大きなモニタに走るOSの起動画面を何の気なしに見守っていた快斗だったが、次の瞬間には目を見開き、コンソールの前で呆然と固まった新一の肩を抱き寄せるようにして引き剥がした。
 モニタ全体が部屋に溶けるように広がり、快斗にも新一にも馴染み深いグリッドラインが広がる上も下もないサイバースペース特有の空間へと切り替わってゆく。

 それよりも何よりも、二人を驚愕させたのは。

『――やあ、マスタ。そしてリトル・ウィズ』

 その空間の主のように一人佇む、見覚えのある赤毛の青年の姿だった。



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 何処までも果てなく広がるグリッドラインの只中で、一人の青年が薄く微笑む。
 くしゃくしゃの収まりの悪い上に手入れもしていないだろう赤毛に、着古した謎の染みが付いたよれよれの白衣。足元は履き古した穴の空きそうなスニーカーで、姿勢もやや猫背気味で左に傾いている。
 けれども、最も注目すべきなのはその下。
 白衣の下に着込まれていたのは、新一にも覚えのある青い服、INP極東管理官のただ一人に許された制服そのものだった。
「オマエ……」
『おや、忘れたわけではないだろ?僕はあの瞬間から何時だって君と共に在ったのだから』
 くすくすと笑うその顔には、見覚えがある。
 あの日、INP極東支部で遭遇した自律可動式AI。新一の手に虹色を落とし込み、その後は音沙汰さえ無かった謎の人格プログラム。

 NPFE code:Hi-Pelion『スゥ・エィイ・レイ』。

 かの『極東の電脳調律師』が残した、『妖精の薄羽』と対を成す遺産のひとつなのだとは、無理矢理マスタに仕立て上げられてから知った事実だった。その経歴は実にかつてのネットワーククライシスにまで遡り、今となっては詳細を知るのはあの赤を代名詞とした極東支部の老人ただひとり。
『まったく……子供のやることだと見ていれば、まどろっこしいことこの上ない。君が君である理由は他人に拠るべきものではないし、それはヒトであることにも起因しない。
君に渡した『妖精の薄羽』――『ディジタル・ワールド・エンド』は、君の可能性の鍵となるべきものなのだから』
 主人と呼びながらも、その言動は言い聞かせるようなものを含んでいて、新一はぐっと奥歯を噛み締める。湧き上がったのは怒りだったのか、或いは反発だったのか。どちらにせよ目の前のAI如きに己を左右される理由を見出せず、食って掛かろうと己を抱く快斗の腕を退かそうとして、その硬直した腕の意味を知る。
「かい、と?」
「……嘘、だろ。アンタは」

 くたびれた白衣。履き古したスニーカー。
 けれどもその下に纏った真青の極東管理官の制服。
 かつて快斗の養い親が、憧憬の眼差しと共に語った姿そのもので其処に在る存在は、もはや快斗の知る自律可動式AI『スゥ・エィイ・レイ』とは似て非なるものだった。

「アンタは……ひょっとして」
『――そこまでだよ、リトル・ウィズ』

 つい、と伸ばした青年の指先に纏わり付いた虹色が、快斗の周囲を取り囲む。密着していた筈の新一を完全に避けて、快斗だけを取り囲んだ虹色は、呟きかけた『彼』の名前ごと快斗の存在を消去してしまう。
 途端に消え失せた肩の重みに、新一は愕然として目の前の白衣の青年に詰め寄った。

「何を、何した、何処へやった!!快斗……快斗はっ」
『落ち着きなさい『最深の青』、僕に君を害する意思は無い』

 それは君に連なる全てに適用される、と静かに告げた青年の青の眼差しに、新一はぐっと言葉を詰める。
 己を主と告げたその言葉に嘘は無いのだと、その表情が物語っている。プログラムが吐き出す数値で左右される電子の虚像とは別に彼の姿に重なる何かを、新一は息を詰めて見定めようと唇を噛んだ。
「……快斗を此処に寄越したのは、オメーだな?」
『僕は、ちょっとばかりロックされたゲートを弄っただけだよ。他の全ては彼の意思だ』
「俺と快斗をこのビルのフィールドに閉じ込めたのもオメーなんだな?」
『君と彼女が作った『cube.』は良い出来だね。いくら僕でも把握するまでにちょっと時間がかかりそうだったから、時間稼ぎをさせてもらったよ』
 あっけらかんと告げられた言葉に、新一は内心の動揺を抑え切れなかった。単なる自律可動式AI、そんな単語では語れない何かを目の前の青年に覚え、最後の問いかけを押し殺した声で静かに紡いだ。

「……オメーは、誰だ?」
『ふふ、それを言われかけたからあの子をログアウトさせたんだけどね』

 とん、と浮かんだ踵がグリッドラインを軽く蹴りつける。そこからばらばらと崩れるテクスチャの海の中、虹色に支えられるようにして彼だけが其処に残り、新一の足元もまた、その意識と模擬体ごとぱらぱらと崩れてゆく。

『かつて、誰かが僕をこう呼んだよ』

 凛と響いた声が、何処か懐かしく感じたのはどうしてだったのか。
 消えかけた意識の中で、『彼』が呟いたその名前。
 ある意味予想通りのその答えに、ある意味諦めを込めて瞳を閉じる。

「結局は、俺たちはまだアンタの手のひらの上って事かよ……くそったれ」

 呟いた言葉が音になる前に、新一の意識は静かに『cube.』から消えうせていった。





2007.12.12.

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