last game


「戻るのね、工藤君」
「ああ」
 かつてこの地に降り立った時と同じように、定期便のタラップに足をかけた新一は背後からの声に振り返った。
 小さな少女の姿に、似つかわしくない知的な眼差し。
 この月面で新一がただ一人共犯者として傍らに置いた、己に最も近い他人だった少女だ。
「ありがとな、『レイディ・グレイ』」
「……礼は必要ないわ、『最深の青』。全ては私たちの業が招いたこと」
 彼女と彼女の師である教授の研究こそが、『工藤新一』を作り上げる最後のファクターとなったのだと、『cube.』の完成と共に彼女は告げた。
 どういった運命の悪戯か、外見上の年齢を重ねることが出来ない彼女と、その細胞の一欠けらさえ人の手によって作られたが故に、その寿命も不明な教授が作り上げたのは、ヒトの精神を数値化する技術だった。
 喜怒哀楽、或いは記憶や感覚、ありとあらゆる不確定を解明するその研究こそが、新一の人格部分にまで食い込んだナノマシンの存在を許したのだという。
 だからこそ、彼女は贖罪の意味もあって新一に手を貸したのだと、最後の最後になって呟いた。
 ただし、それは新一への侮辱だったと、己の考えを改める言葉を付け加えた上で。
「戻れる場所があるって、アイツが言うんだ。
どう考えたって俺はバケモノで、それは変えようのない事実なのに、それでもいいって言うんだよ」
 だから、帰るのだと晴れがましく告げる少年のはにかんだ笑顔に、哀もまたくすりと微笑みを零す。哀にとってはとっくにこの月こそが、あの孤独な老教授の傍こそが居場所だと定めていたが、此処に縛られない生き方を目の前の少年が見つけられたのなら、それは喜ばしい事だろうとも思う。

 オンラインゲームとしての『cube.』は、相応の実績を以って終了を宣言した。
 結局次世代インターフェースとしては、引き続きINPとアカデミーが共同研究として進めてゆくことになるだろうとも、紫眼の教授は静かに告げた。
 それは、もう新一の手を離れたものだ。新一の望みは叶えられずとも、心からの、魂からの願いは叶えられるのだから。

 定期便の出港を告げるアナウンスに、新一は慌てて上りかけのタラップを駆け上がる。乗務員が苦笑交じりに新一を迎え入れ、慣れた手つきでドアを閉じ、真空加圧にも耐えうる三重のロックをかける様子をぼんやりと見つめた。
 その、分厚い強化透明樹脂の窓越しに、哀の手を振る姿が見える。

 此処で在った事、此処で得た物は決して無駄なんかではなかったのだと、頬を伝う暖かい何かを流れるままに。
 新一もまた窓に張り付いて、大げさなほどに大きく、その手を振った。



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『どうやら世界は、僕の予想よりもずっと意固地なものらしい』
 0と1が構成する世界の狭間で、行儀悪く足を投げ出した姿勢で『セイ・レイ=トゥエルフス』と名付けられた自律稼動式AIはぽつりと呟いた。
 かつて、自分が人間だった頃に呼ばれていた名を知っている。
 その名に迷い、惑い、今も尚様々なものが縛られ続けている事を知っている。
 けれども今の己は『人間』では無いから、その名を名乗る事もその名で何かを為すこともしようとは思わなかった。

 ――唯一、かの青い瞳の子供にお節介を焼く以外には。

 恐らくは、自分のような人間は一人で生きて一人で死んで、後世には何も残さない方が良かったのだろうとは思っている。けれども自分はどこまでも『ヒト』でしかなくて、その孤独にはどうにも耐えられなかった。
 見えすぎる目に蓋をして、見えてしまった未来は捻じ曲げて。
 どうにかこうにか人として生きて死んで、けれどもその過程で零れ落ちたものは何の因果か可哀想な鬼子を生み出す結果になってしまった。
『四半世紀も経てば多少は融通が利く様になってるだろうと思ってれば、未だに僕の作った骨董品が現役で通用する有様だ。これじゃあ迷子の子供に手を貸したくなっても仕方ないだろ?』
 言い訳がましい言葉は、誰に聞かせるものでもない。
 ただ、自分の中の細切れになって原型すらないような『良識』とやらに聞かせるためだけのもの。

 そうだ、元より『自分』は。
 この世界を遊び場に、己の自分勝手な願いの為に全てを為して、満足のうちに死んだのだから。

『辿り着くにはまだ遠い。……遠いけれど、無理なわけじゃない』

 己を継ぐ、たったひとりの異形の子供に祝福の言葉を乗せて。
 今一度電子の海で眠りに就くべく、告げられない名前を抱えた電脳の申し子はそっとその意識を闇に溶かしていった。



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 目覚めた時には既に目の前のモニタは真っ暗で、随分と長い間『落ちて』いたのだろう、大型のヘッドセットバイザーを装着していた部分に薄い鬱血の跡が滲んでいた。
 ぱちりとひとつ瞬きをしてそれを外せば、窓から差し込む眩しいばかりの朝日が部屋中を光で染め上げている。闇に慣れた眼には刺すように感じるその光に、黒羽快斗はごしごしと目尻を擦る。
「……戻っ、た」
 ログアウトも、強制シャットダウン受け付けなくなったゲームからの脱出。新一とははぐれてしまった結果となったが、電脳空間にリンクした『もう一人の自分』が、僅かに繋がった『cube.』から彼の無事を知らせている。

 自分は、どうやら大切なたった一人を取り返す事に成功したらしい。

 滲む微笑みは強張る事もなく、零れる涙は歓喜故のもの。くつくつと喉から漏れる笑いに、震える指先は安堵を伝える。
 己の傍らに青い制服の極東管理官が戻る日はそう遠くない。再び、極北と極東を行き来する日常がやってくるのだ。今度こそ新一には制服でエアバスに乗るなと怒られるかも知れないけれど、それさえ今は喜びでしかない。

 それに何よりも、多分自分は。
 あの時、あの場所で、この世界の奇跡の片鱗に触れたのかも知れない。
 ……或いは、伝説の再来の瞬間に。

「――其れは、現在に至るまで最強無敵の名を冠したまま、誰にも読み解かれる事のなかった電脳寓話。
その発動にあらゆる制約を受けず、INPの権限、その根幹とも言うべき特殊上位回線を制御するインジェクション・キー。
彼方と此方、あらゆるものを紡ぎだし破壊する、可能性の一欠けら。
唯一絶対の構築者である『彼』の死後は、誰も読み解く事のなかった不壊原典」

 呟いた言葉は、かつて幾度も快斗が養い親に、育ての親に聞いた、御伽噺のようなただひとりの物語。
 けれども、現実に其処に在った事実の物語だ。
 其処に抱いた憧れも、其処に至ろうと伸ばした腕もまだ此処に在り、ならば快斗の取るべき道はたったひとつしか残っていない。

 傍に居るよ、と呟いた言葉の響きがやけに優しかったことを、どうかただ一人にだけは分かって欲しいと切に願った。



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「……な、なあ、快斗。コレ、おかしくねー?」
「何がオカシイ事あんの、新ちゃん。だいじょーぶ、ちゃんと格好良いって」

 新一ただ一人の為に仕立て直された、新しいデザインの極東管理官の礼服を身に纏い、何処か不安げな表情で新一はくるりとその場で回ってみせる。通常の制服よりも上等な生地で仕立てられたそれは、動きを妨げない程度に装飾を施され、まるで淑女のドレスが如き華やかさを際立たせている。
 摘み上げた裾のパイピングは鈍い銀色、白い手袋に包まれた指先が覗く袖口は同じ色の三本のラインが刻まれ、INPの刻印が刻まれた銀ボタンが控えめに輝いている。通常制服が膝裏までの丈なのに対して、礼服はふくらはぎの大半を覆い隠す程に長く、胸元にはボタンと同じ銀色の飾り紐が絶妙なバランスで配置されている。
 彼の為にだけデザインされたかのようなその姿に快斗は素直に見とれていたし、少し離れた場所で彼らを見守るかつての管理官代理、現相談役の老人も孫の成人を見守るような温かい眼差しで幾度も頷いている。
 客観的に見ても十二分に鑑賞に堪え得る素材と服なのだが、肝心の着ている本人だけが似合っていないと信じ込んでいるのである。
 ブラシを片手に真っ直ぐなくせに何故か一箇所だけ跳ねてしまう新一の癖毛に悪戦苦闘していた快斗だが、あまりに繰り返される泣き言に肩を竦めてその額を軽く小突いた。
「あのな、どーせオカシイところがあったとしてもあと一時間後には俺もオマエも式典に出席しなきゃならねーの。いいから堂々と構えてな」
「だ、だってなあ……」
 もぞもぞと居心地悪そうに礼服のあちこちを引っ張りながら、新一は何度も控え室に据え付けられた姿見を覗き込んでいる。快斗の手によって一分の隙も無く整えられたその立ち姿は完璧な出来栄えであるのに、初めて着た礼服というものに気後れしてしまっているのだろう。
 これは何を言っても無駄かと思い、快斗はどうにか形になった新一の頭にワックスを含ませながらこつりと額と額を重ね合わせる。
「んじゃ、俺はどーよ新一?オマエと俺が似てるのは誰もが認めるし、俺の礼服はオマエの色違いなだけなんだけどな?」
「か、快斗が格好良いのと俺がどうかは別問題だろ……」
 ぽう、と僅かに藍色のナノマシン・コードが覗く頬をばら色に染めて、新一はごにょごにょと文句を言い出した。こりゃどうにもならん、と明後日の方向を見遣った快斗の様子に、背後からくつくつと喉を鳴らして笑う声が聞こえる。
 子猫がじゃれ合うような遣り取りは、海千山千の元管理管代理にしてみれば微笑ましいものなのだろう。相変わらず弱った足に白いブランケットを掛けた状態で、新一の後見人を請け負った老人を、快斗はきろりと睨み付けた。
「なー、じーさんからも何か言ってやってくれよ。俺が何言っても聞きゃしねー」
「君の言葉を聞かないのに、私の言葉が通じる道理もあるまいよ。なあに、前任者のようにその上から小汚い白衣を重ねようとせんだけ十分マトモだろうさ」
「いやいやいや、それ比べる対象が間違ってるだろ!?」
 遠慮の無い言い合いをする快斗と老人を尻目に、新一は未だ納得できかねる様子で喉元に結ばれたタイを弄った。

 これから行われる式典は『工藤新一』の正式な極東管理官就任と共に、これまで月面基地から一歩も出ることが無かった紫眼の教授のINP総裁への就任を宣言するものである。
 彼は変わらず恒久的に月から降りてくる気はないようだが、総裁の肩書きは彼の自由を多少は保障するものになるのだろう。ようやく此処まで来たか、と呟いた後見人の老人の感慨深げな溜息が、やけに新一の記憶に残っていた。

 あれから月での全ての後始末を終えて、極東支部に借り物を返す為に訪れた新一を迎えたのは。
「……ずいぶんと長い自分探しの旅だったようだね、リトル・ディ」
 にっこりと、笑みを形作りながらその目だけは笑っていない管理官代理の老人のキツイ一言と、山のように積まれた未決済の書類だった。
 結局、この老人の裁量で新一の退職願は握り潰され、長期出張という形で処理されていたのだそうだ。だから君はまだ極東管理官見習いなのだと告げられた瞬間の驚きと、まだ快斗と繋がる場所に居られるのだと分かった時の喜びは例えようもなかった。
 ……同時に、これでもかとデスクのみならず部屋中に溢れるほどに詰まれた未決済書類とそれに数十倍する電子書類の処理にかかった時間と労力と精神的疲労は別の意味で例えようがなかったが。

 あれよあれよという間に話は進み、結局此処まで来てしまった。
 この場所が正しいのか、いつか己は間違うのではないかという危惧はちっとも変わってはいないのだけれど。

「時間だな。……行くぜ、新一」
「ああ……!」

 何の躊躇いもなく手を差し伸べる快斗と。
 その手を躊躇いながらも取る自分が此処に居る限り、少しくらいは無駄でも足掻いてみようと思えるようになった。
 生きていることにも、死ぬことにも意味など無くても、此処に居る事には意味があるのだと、そう信じられるようになったから。

 押し開いた扉の先、式典用に敷かれた赤絨毯が眩しく。
 まるで未来へのそれであるかのように新一はそっと目を細めた。





2007.12.12.

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