game


「ふはー、こりゃー確かに難攻不落って言われるわけだ」
 白い奇術師の姿に似合わぬ快斗そのものの砕けた口調で、先ほどまで『敵(エネミー)』だったデータの欠片を蹴りつけた。
 僅かに歪んだシルクハットを被り直し、何処までも広がる果ての無い灰色の街を見渡す。時折吹く風は乾いて強く、苛立ちさえ感じる程に肌寒く頬をすり抜けてゆく。
 『cube.』の世界観は現実に最も近い非現実。
 その世界の中で、不定期に提示されるミッションをこなし、ゲーム内でのランクを上げることで更なるエリア、難易度の高いミッションへの挑戦権が得られる。灰色の街を徘徊するNPCたちからも、ランクが上がれば得られる情報は飛躍的に増えてゆく。
 オンラインゲームの常のように、このゲームにも実は明確なクリア条件は存在しない。
 けれども、このゲームに参加するプレイヤーの誰もが知っている。
 プレイヤーの最終目的、それは『cube.』と呼ばれる『モノ』を探すこと。
 それが『もの』であるのか『情報』であるのか、或いは『ヒト』なのか。誰も明確なビジョンを得られては居ないのに、それでもまことしやかに囁かれる言葉に引き寄せられるように人々は『cube.』に集う。
 快斗が得ていた前情報ほど、この『cube.』というゲームは排他的ではないらしい。確かにログインコードを入手するには相当のヤバイ橋を渡る必要はあったようだが、そうしてしまったのはゲームマスターの意思というよりは、それを求めるプレイヤーの方だったように思う。
 ログインコードさえ手に入れたなら、例えミッションがクリアできずにPCがロストしても、再度のコンテニューは無制限。同じミッションへの挑戦は不可能かと思われていたが、どうやらミッションの発生条件がすこぶるランダムなのに加えて、発生するミッションの数がべらぼうに多いだけで無理というわけではないらしい。プレイする過程で知り合った幾人かのプレイヤーたちに聞く限り、難易度は高いもののゲームとして十二分に楽しめる出来栄えだと、そういうことだろう。
 チート行為やシステムクラッキングを仕掛けさえしなければ、『cube.』は何者をも拒む事はない。それはまるで世界の如く公正で、また無慈悲なまでに難解な仮想現実。製作者の意図は見えるようで見えない、故に皆がこのゲームに惹かれ集う。

 けれども、快斗は知っている。
 INPの庇護をかなぐり捨ててまで新一が作り上げたこのゲームが、単なるゲームであるはずが無い事を。
 娯楽としてのゲームには有り得ざるオーバーテクノロジー一歩手前の技術の数々が、惜しみなく投与された稀有なものであることを。
 未だ『cube.』の情報もその製作者である新一の情報も満足に得られてはいないが、快斗にはこの『cube.』をプレイすることそのものに意味があるような気がしてならない。
 だらりと下げていた腕を持ち上げ、白い手袋に包まれた手のひらを見る。
 そんな些細な仕草にさえ、何の違和感も無くタイムラグも無い。まるで『SCS』を使用した時のような、或いはサイバースペースとのリンクを現実へと向けるそれよりも強めた時にも似た感覚。
 あらゆる動作に必要な処理が、動作そのものに集約されていると言えば分かりやすいだろうか。電脳領域上では0と1で示されるその全てが、あやふやな現実世界の感覚で構成されている。
 快斗にとっては慣れた感覚で、きっと新一にもそうだろう。けれども長いこと快斗の『白の魔術師』としてのアドバンテージであったように、それは他の人間には理解し難い、または行使不可能な技術であった筈だ。
 それだけではない、この灰色の街に、その住人に、来訪するプレイヤーに。何気なく使用された技術は皆様々な研究機関に隠匿されていた、またはせざるを得なかったものばかりではないか。技術としては確立するまで至らなかった現象、それが此処では確実に存在している。
 新一の目指すもの、願うことがほんの少しだけ透けて見えるこの街で、快斗はざらりと崩れて消えたテクスチャを目で追いながら、ぎゅっと拳を握る。
 ミッションクリアを告げるファンファーレが鳴り響き、ランクアップに伴う追加情報が頭の片隅を流れてゆく。その一部に、今まで封鎖されていた領域の開放を見て取った快斗は、躊躇いもせず踵を返した。

 一分一秒だって惜しい。だって自分は十二分に待ったのだから、もう待ってなんていられない。探すのだって時間が足りない。
 ココロの奥底の一番正直な部分が『新一が足りない』と喚くから、もう立ち止まってなんていられない。
「まってろよ、家出小僧め」
 今も尚鮮やかに残る愛しい人の面影に、快斗は僅かに唇を歪め、何処か挑戦的に微笑った。



--------------------------------------



 びくり、と今まで滑らかにホログラムパネルの上を待っていた新一の指先が、僅かな震えと共に停止する。
 新一自身とリンクしている、部屋中を埋め尽くす立体投影モニタと低い稼動音を上げている演算ユニットが一瞬その動作を鈍らせ、そこかしこでエラー音を響かせている。
 感情の揺れがそのままシステムに影響を及ぼすことは殆どないし、そうならないように設計されたハードだったが、それでも根幹が新一自身である以上、本体に重大な問題が起こればそれはシステムに直結する。
 激しい動揺を必死で押さえ込むように、震える指先が再びパネルの上を踊る。エラー音は次第に減っていったが、それでも不安定な動作を示す数値はそこかしこのモニタに浮かび上がっている。新一の白いシャツ越しに見えるナノマシンコードの発光も揺らぎを抱え、青白い頬をつう、と冷や汗が伝う。
「工藤君っ!!」
 システムエラーの警報が行ったのか、慌てた様子で駆け込んでくる哀の声に応える余裕すら無い。凄まじい勢いで流れる情報と開閉するウィンドウ、人間の動作限界を超えた速度で動く指先。バイザーに覆われた表情を見て取ることは出来ないが、唯一露になった口元は真一文字に引き結ばれ、現状の深刻さを知らしめているようだった。
 『cube.』を維持する為のシステムとは別に、自分の状態を過信する余りに暴走しがちな新一の体調を管理する機器もまた、哀の手でこの研究室に設置してある。手馴れた仕草でそれらを確認した哀は小さく溜息を落とし、唯一露になっていた新一の首筋をぺちりと叩いた。
「何をやったの、貴方は。体内のナノマシンが混乱して、体内環境が滅茶苦茶になってるわよ」
「……俺は、何もしてねーよっ!」
 絞り出すような声は、たぶん叫ぼうとして失敗したらしくかすれて力ない。
 しかも気管に詰まらせたらしく、げほごほと盛大な咳が喉から零れ落ちる。また止まってしまった指先と混乱しきったシステムの警告音が更にけたたましく鳴り響いた。
 このままではルナベースの根幹システムそのものへの影響も現れかねず、そうなったらこの基地を管理している軍部からの査察もあり得る。基本的に研究成果の研究者の自由は全てにおいて保障されているが、それが基地の保安に関わると判断された場合は容赦なく処分対象となる。
 只でさえ厄介なモノを抱え込んでいる自覚はあったから、哀は内心冷や汗をかきながら状況を見守る。咳き込む新一の背中を小さな手でさすってやりながら、やがてそれが収まり、ひゅーひゅーと喉が鳴る頃を見計らって傍らにあった水のコップを握らせると、ひったくるようにしてそれを飲み干した。
 ごっごっごっ、と喉が鳴るほどに勢い良く喉を鳴らして一気に流し込んだ新一は、はひゅ、と小さな呼吸音を漏らし目を閉じる。混乱していた全てが沈静化してゆく過程を、二人はそれぞれにじっと待ち続ける。
 段々と落ち着く呼吸に応じて、乱立していたエラーウィンドウと警報音が収まって行く。数分後には通常稼動へと移行し始めた室内に、哀はほっと胸を撫で下ろし、新一は長く深い吐息を落とした。
「まったく……予想外の脆弱性が露見したわね。貴方からのフィードバックは殆どないと聞いていたけれど?」
「う、いや、設計段階ではねーはずだったんだけどよ……。ちょっと」
 バイザーを外しながら明後日の方向へと視線を外す新一の態度に不審なものを覚え、哀はじっと冷静な眼差しで彼を見る。言い訳には一切耳を貸さず、ただ本当の事を白状するまで見つめてくる哀の視線に居心地の悪さを覚えたのか、もぞもぞと身じろぎしながら、新一は先ほどまでとは種類の違う危機感を覚えていた。
『ヤベ……本気で怒らせた……』
 沈黙を保ったまま、新一の本音を探るように視線を向ける外見だけは小さな少女に、新一は新たな冷や汗が背筋を滑り落ちるのを自覚する。此方でコントロールが必要となる微細な部分とのリンクは切断したのでこれ以上の悪化はないだろうが、それが新一自身の安全の保証には全くならない。
 けれども、この騒動の本当の理由を知ったらそれどころではないだろうと必死で口を噤み続ける。新一の動揺がシステムにまで伝播した理由、そこまで動揺した理由、どちらも到底他人に語れるようなものではない。
 更にそれが、新一のバックグラウンドを全て知る哀ならば、尚更だ。
 だらだらと流れる冷や汗と、ばくばく激しく刻む鼓動を必死で押し隠す新一に、けれども哀はそれほど甘くもなかった。
 にやり、と子どもの外見には似合わぬ読めない笑みを浮かべ、つい、と哀の視線が広がる立体モニタを滑る。思わずびくりと肩を揺らした新一の様子に更に哀の笑みが深まり、その小さな手がそっと新一の肩へと寄せられた。
「……工藤君?」
「は、ははははいっ、何ですか灰原さんっ!?」
 明らかに挙動不審な反応に、もはや白状しているも同然だと思いつつ、そっと彼女が思い当たる『正解』の名前を口にする。
「……黒羽、快斗」
 びくうっ、とこれ以上ないほどの過剰反応で肩を跳ね上げ口元を引き攣らせた新一に、更に哀の笑みが深まる。
「別に貴方が誰と恋愛していても構わないけれど……他人に迷惑をかけるのはどうかと思うのよ」
「え、え、いや、その……」
「そう・思・う・わ・よ・ね?」
「は、はいいっ!」
 全てを喋るまで有耶無耶にはしないとばかりに迫る少女に、新一は己の失態を喋ることを覚悟せざるを得なかった。



--------------------------------------



 哀に洗いざらい吐かされた新一は、ふらりとよろめきながら自分に与えられた小さなコンパートメントのドアを開けた。
 だだっ広い部屋を簡素な間仕切りで区切ったような、プライベートも何もあったものではない、最新鋭の技術の粋を集めて建造された施設には相応しくない部屋ではあるが、実際問題としてこの場所ならではの悩みが凝縮されたような場所でもある。
 元々機密研究を扱う連邦軍の基地として運営されていた場所ではあるが、所属研究者たちの研究が幅広く、また多岐に渡るようになった現在では既に独立組織としての側面すら覗かせている。
 つまりは、基地に関わる人間は増える一方であり、本来ならば一番優先されるべき居住性やプライバシーは全て二の次に追いやられている。限られたスペースと予算は研究区画の増設と維持に充てられ、必然的に研究者一人一人に与えられる余地も少なくなる。
 この前世紀に流行ったというカプセルホテルに似たコンパートメントが据えられた場所とて、かつては大型航宙船の開発が行われていたドックの跡地だったらしい。此処にあった施設と艦船、研究スタッフは、研究が大規模になるにつれ手狭になってゆくルナ・ベースでは限界があると判断、そのまま少し離れた位置にある『既知の海』の中心部に建造された連邦宙港へとごっそり移転したのだという。
 人類がその足で到達した場所は火星まで届き、その調査も本格的になりつつある。幾度もの調査チームの派遣に伴い、宇宙は人々を拒み続ける『魔女の海』では無くなりつつあるのだろう。
 それに伴って研究者に要求される船の性能や多様性は増すばかりで、故にこの基地の一部門としては既に不可能と判断されたのだろう。
 こうしてこの基地の航宙艦ハードウェア関連の研究室はごっそりと去った。それはいい。だが、ぽっかりと空いてしまった空間を遊ばせておくほどの場所と予算に余裕が無かったルナ・ベースの管理する上層部は、技術者と作業員と予備の資材を総動員してドックだった空間をまるっと居住空間へと変えてしまった。
 元々、月面ということもありオールコンディショニングが行き届き、また緻密な作業を必要とする故に重力制御も完璧なドック跡地である。場当たり的な要素は多分にあったが、大抵の研究者が自室になんぞ滅多に戻らない現状もあり、最低限のブロッキングで幾つものコンパートメントに分けられた区画を居住区域として使用することになったのだという。
 これが地上の一般的な研究機関であったら、いくらなんでも無茶の一言で済まない気もするが、物心付いてからの全ての時間を他人の監視、管理下にあった新一にしてみれば、カメラもマイクも無い時点で十二分に満足できる空間だった。
 先代INP管理官たちが開発したのだという、今以て現役であり続ける特殊携帯端末に静かに触れて、新一は静かに呟いた。
「……『全機構・起動(オール・システム・スタンダップ)』」
 ふおん、と小さな音を立てて、片手に乗る程度の小さな四方形の板が展開を始める。
 不思議な色合いの青い半透明の板だった物体からは、小さな正方体が静かに浮かび上がってくる。辺の位置から切れ込みが入り、ぱたりぱたりと展開図を形成するように広がったそこから、更に薄い青が広がってゆく。
 やがて、新一自身を取り巻くように展開したものは、彼の研究室に据えられた機器に良く似た、ホログラムのコントロール・パネルだった。最後に新一の眼前に浮かび上がる180度スクリーンを形成し、ブラックアウトしていた画面に起動準備のステータスが浮かび上がる。
 稼動に必要な情報や電源等、殆ど全ての機能をオンライン上に置いた上位サーバに依存するタイプの携帯端末機。恐ろしいほどの高性能を誇るINP謹製・セキュリティシステムの上に成り立った、当時を以って『オーバーテクノロジー』と言わしめた技術である。それは現在も同様であり、その使用はINP主要構成員のみに限られている。
 新一のコレは、退官を申し出た際に極東支部のあの食えない老人が押し付けるように渡してきたものだ。備品の横流しに当たるのではないか、と訝しむ新一に対して、正式な備品としての登録はされていないものだ、とあの老人は静かに笑った。
 確かに、全ての備品に刻印されているはずの管理コードの痕跡は無く、また新一の知る限りの記録上でもこのIDナンバーの端末が登録されていた過去は無い。
 どうにも得体の知れなさを拭えない端末ではあったが、ほぼ無手で世界に挑む新一には必要なものではあったから、唇を噛み締めながら受け取った。その瞬間の、安堵にも似た老人の顔だけを記憶に焼き付けて。

 INPの技術の粋を結集して作成された端末を制御するオペレーション・システムは優秀かつ最低の部類に入る。ユーザーへの配慮など何処かへ放り投げ、ただただ情報を処理する上での高速化と機密性に重点を置いたそれには無駄な要素は何一つない。起動アニメーションもログイン確認も全てをすっ飛ばし、新一が迷い無く触れるパネルの入力に従ってアプリケーションを起動し、必要とされるサーバに接続された演算ユニットに振り分ける。あらゆる動作はストレスを感じる間すら与えず、唾を飲み込みきるより早く新一の目の前に浮かび上がったウィンドウには、真っ黒な背景にひたすら広がる白い文字と、そこだけ切り取ったような入力エリア。
 既に暗記どころか指が覚えるほどに刻みついたIDとパスワードを入力すれば、慣れた文章がモニタに浮かび上がった。

[ --- Welcome to "cube." ---]

 こうして、研究室ではなく私的にログインするのも何度目になるだろう。
 システムを通しては見られない、直に感じ取る『cube.』の世界。資料でしか知らない新一が組み立てた灰色の街は、まるでおもちゃの箱庭のようだ。
 どんなリアルも、本当ではない。
 どんなフェイクも許される、それが『cube.』だ。唯一のルールは裏口を禁じること、それ以外は何だって受け入れる。
 新一の知識が増えるのと比例して、『cube.』の世界は広がってゆく。
 ログインするユーザーの言動、ユーザー同士との対話、ミッションクリアの為に披露される様々な専門知識や技術。
 それらがゲームマスターである新一へと蓄積され、更なる『cube.』の糧となる。

 けれど。

 ぎゅっと手のひらを握りこむ。僅かに汗ばんだその甲で、ひかるナノマシンコードが厭わしい。果たして知識を、技術を、求めているのは新一なのか、それとも新一であると思い込んだナノマシン群体なのか。世界を変えたいと願ったのは、本当に新一自身だったのか。
 それがわからないうちは、新一は快斗の傍には居られない。
 快斗を好きだと思うこの己が、本当に『人間』だということを確信するまでは、誰の隣にだって居られない。新一を月に誘った女の手を取ったのは手段で、協力者として哀を受け入れたのは、彼女が新一を計画のファクターとしか見ていなかったからだ。
 永遠に幼い姿のまま一生を終えるだろう彼女の苦悩と、彼女の恩師が図らずも提示してしまった可能性の罪と。そして、その罪の象徴である新一の存在。
 あらゆる要素が絡み合って、『cube.』という『世界』がある。
 偽りだらけの『世界』の中へ、新一は静かに意識を下ろす。開かれた扉とリンクするように、この狭い、ベッドと机くらいしかないコンパートメントで端末に向かう自分と『cube.』の中に在る自分がクロスしてゆく。

 灰色のオブジェクト、冷たい光と影を刻んだその街の中で、新一はゆっくりとその眼を見開く。
 現実とそれだけは変わらない、蒼い双眸が静かに世界を見つめていた。



--------------------------------------



 アスファルトを踏みしめる感覚。頬を撫でる風の乾いた匂い。身を切るような冷たさ。全てが現実に相似する仮想として此処にあり、そのように新一は此処を作った。
 チェックを兼ねてプレイヤーとしてログインする事は、新一にとっては息抜きを兼ねるがそれは哀には理解出来かねるようで、知られたら最後渋い顔程度では済まされない。管理者の一人としてプレイヤーの履歴を知ることの出来る立場に居る哀に、その手の隠し事をするのは至難の業だ。
 だが、そこは制御システムを兼ねる新一だからして、裏道のひとつやふたつは隠し持っている。幾重にも偽装したログインデータを、本来の管理サーバを通さずに新一自身で全てを処理することによってプレイヤーデータの中に埋没させる。裏口は存在しないと言われる『cube.』の、ただひとつの例外だ。
 無論こっそりと行われているチェックだからして、通常新一がネットワーク上で使用する『工藤新一』の模擬体とは違うグラフィックの模擬体を使用している。
 風に揺れる前髪は、新一の黒とは違う鮮やかな青。青すぎて黒い、と思えるほど深い色に染め上げた模擬体の足元で、小さな革靴が僅かに光を反射する。
 新一には既に記憶も乏しい、小さな小さな子供の姿。
 検査と投薬と実験と、その繰り返しで終わったほんの僅かな期間。哀の外見に近しい年の頃を移した姿に、無粋な黒縁の眼鏡をかけている。工藤新一のデータは何処を取っても知るものが限られる極秘事項だ。己の小さい頃の姿を模したとて、それが何を齎すものでもなかった。
 ……そう、黒羽快斗がこのゲームのプレイヤーとなるまでは。
「コイツも、もう潮時かな」
 基本的に洒落っ気もなければ凝り性でもない新一は、何時もネット上の模擬体は自分をそのままコピーしたものを使用してきた。新一の外見など知られても構うものではなかったし、本来秘匿しなければならないのは新一が抱えたナノマシンと、それによって可能となる工藤新一の『性能』の方だったからだ。
 けれども極東支部へと身を寄せていた一年余りの間に、新一の大切なものは増えた。むしろ増えすぎた。今まで自分の命すらどうでもよかったのに、いきなり増えたそれをどう捉えるべきなのか、未熟すぎる情感は答えを出すことが出来ないままに逃げ出したのだ。
 子供そのものの外見で、灰色の街を歩く新一は強く奥歯を噛み締める。その動作もゲーム上の単なる仕様だと知っているけれど、今は押し込めたままの何かが暴れだしそうな予感にそうすることしか出来なかった。
 並立したもう一人の自分、現実世界で小さなコンパートメントでモニタに向かう己の手が、ミッションを受諾するコマンドを打ち込むのを感じ取る。情報が脳裏に閃くような感覚は慣れたもので、とん、とアスファルトを蹴りつければ周囲の景色が一瞬にして歪む。
 短距離転移の特殊スキル。幾つもの上級ミッションをクリアすることで手に入れられるレアスキルのひとつだ。現在このスキルを有するのはゲームマスターである新一だけだが、そう遠くない未来にはユーザーの何人かは到達するのかも知れない。
 ふっ、と一瞬身体が浮くような錯覚を覚えたかと思えば、次の瞬間に新一の目の前に広がっていたのは灰色の空。この灰色の街で一番高いコンクリートの塔の屋上、そこから上にはただ重苦しく広がる雲の海だけが存在する。
 見下ろせば、街を行き交うユーザーたちの模擬体の姿が見える。新一の存在など知る筈もない彼らは、ある者は一人で、またある者は徒党を組みミッションに取り組んでいる。現実と同じように様々に起こる事件、それを解決する、という形でミッションは形成されている。それらは新一が『青の探偵』として関わった事件にヒントを得た非常にリアリティ溢れるものであり、故にクリアは非常に難しいものともなっていた。
 今回の新一がテストするミッションは、言うなれば『宝探し』に近しい。これが問題なく機能するようならば、膨大なランダム要素の中に放り込んだミッションのひとつとしてゲームを構成する一片となるだろう。
 静かに街を見下ろしていた新一だったが、何かを振り切るように頭を振って踵を返した。今回のテストミッションの舞台はこのビルの内部だ、屋上は実は直接には関係はないのだから。……そう、この心に染みのように広がる苦い感傷以外に。

 けれども、新一は気付かなかった。
 そうして街を見下ろしていた新一を、じっと……静かに迷い無く、見つめていた視線があったことに。
 気付かぬまま、錆びた鋼鉄のドアに手をかけ、その冷たさに痛みを覚える。

 『ゲーム』なのだと割り切った筈の心が、悲鳴を上げるのを知覚しながら。



--------------------------------------



 灰色の冷たい街の中、ふと見上げた空に在るはずのないものを認めて、快斗は思わず足を止め、食い入るようにそれを見つめた。
 高層ビルの最上階、本来なら見えるはずのないそれを、けれども快斗の……否、『白の魔術師』の視覚は確実に拾い上げた。
 蒼。間違えようの無い、鋭ささえ兼ね備えたその色を、快斗だけは見紛うはずが無い。
 たったひとりと定めた相手。他の何もかもを擲ってでも傍に在りたいと願った相手だ。こんなに簡単に遭遇できるとは思っていなかったが、この偶然をそのまま逃すほど快斗は愚鈍ではないつもりだ。
 現実の快斗は現在遂行中のミッションを破棄するための操作を淀みなく行い、サイバースペース上の白の魔術師は躊躇いなく目的のビルに向かって駆け出した。
 灰色の街のランドマークのように、一際高く聳え立つコンクリートと硝子と鉄の塔。あの区画は高ランクミッションのエリアだから、快斗であっても未だ足を踏み入れた事はない。というより、快斗の知る限り足を踏み入れた事のあるユーザーは居ないと言った方が正しいかも知れない。
 この冷たい街は幾つかの区画に区切られ、そのエリア毎にランクレベルの設定が為されている。高ランクミッションの対象エリアには、低ランク者が立ち入る事は可能だが行動は著しく制限されることとなる。
 例えば、先日までミッションをこなしていたハイウェイ・エリア。あそこに入る事は誰でも可能だが、ドライバー・ライセンスとなんらかの車両を所持していなければただのだだっぴろい道路に過ぎない。ゲームバランスを崩さないギリギリまで自由であり、けれども確かな線引きがされた『cube.』らしい構成ではあるかも知れない。
 兎も角、快斗の探し物は姿を見せた。
 ならばそこに至る手段も、労苦も、なんの問題にもなりはしない。ただ其処に在る、だからこそ疾走する。
 幾つかの角を曲がり、交差点を渡って辿り着いたのは、巨大な門扉とそれに連なる堅牢な壁が何処までも続く。果たしてこの街にこんな場所が存在する余地があったのかと思いながらも、此処は現実ではないのだと次の瞬間には薄く自嘲する。
 息を吸い込む。白い手袋に包まれた指先を強く握り締め、次いでそっとそれを開いて立ち塞がる門扉へと触れる。それはなんということもない、単なる反射のような仕草だったのだが。

「っ……!?」

 光が、閃く。
 周囲の景色を形成していたテクスチャが崩れ、『cube.』を『cube.』として構成していたプログラムが露出する。見慣れた、素地というべきグリッドラインと数式が羅列する空間が一瞬だけ快斗の周囲を取り巻き、次の瞬間には消えていた。
 ――先ほどまで、快斗の行く先を遮っていた門扉諸共。

「新一……」
 呟いた名前に宿るものは、余りに多過ぎて一言では伝えられない。
 彼は快斗を拒絶して、同時に何処までも受け入れている。新一が憂うのは己の事ではなく快斗の事だと知っているから、頑是無い子供の我侭のようなこの一連の行動でさえも責める気にはなれない。
 快斗と出会ったあの瞬間から、工藤新一は生まれたのだと思う。
 それまでずっと研究施設に押し込められ、その最低限の人権さえも阻害されてきたマシーナリィ・インジェクト・ヒューマノイドは、あの一瞬まで世界中でたったひとりきりだった。
 それが覆ったのが、あの夜の邂逅だったのだと、そう今となっては認めざるを得ない。ようやく人間として生まれた新一は、しっかりしているように見えて心と知識と身体はアンバランスに過ぎる。
 やることなすこと無茶苦茶で、けれど快斗はそれを憎めない。
 快斗もまた、たったひとりであることに慣れた存在だったから、彼の苦悩はかつて通ってきた通過点のひとつだと知っている。
 門が開いた理由。それはひょっとして、深層意識化では快斗を求める新一の心ではないかと期待する自分が居る。単なるシステム上のバグなのだろうと冷静に判断する自分も居る。快斗の中で乖離する思考も二律相反する意見も慣れたもので、その整合性を求めるのはいつだって徒労に終わる事を知っていた。

 黒羽快斗は、単体では生存さえままならない不完全な個体なのだから。

 見上げたビルは尚も堆く聳え立つ。
 それが新一の心であるようにも、悲鳴であるようにも感じて、一旦止めた足を再び動かす。それは急ぎ足から小走りに、小走りから全力疾走へと容易くシフトしてゆく。
 虚構の街のただひとつの真実を求めて、快斗は一際強くコンクリートの地面を蹴りつけた。





2007.12.12.

B A C K * / H O M E * / N E X T *