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 死ぬときに何かを道連れになどしたくない。
 生きるというのなら尚更だ。

 …だから。
 なあ、快斗。

 俺のたったひとつの我侭を、許さなくてもいいから覚えていてはくれないだろうか。
 オマエは、俺の『   』だったから。



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 じっとしているだけで悲しみに押し潰されて痛みを堪えるのがやっとな事もあるのだと、黒羽快斗は人生で初めて思い知った。
 たったひとりの大切な恋人が告げた別れの言葉は鮮やかに、その刃の鋭さを聊かも損なう事無く此処にあって。
 流れる血は止まる事無く、また痛みも薄れることは無い。きっと工藤新一という存在そのものを忘却しない限り、そんな気休めの安楽は訪れないだろう。

 その瞳の鮮やかさを知っている。
 その心に封じ込めた過去が苦痛なのだと、知ることさえ許されなかった不遇と不器用さを知っている。

 …泣くだけの無様には、もう飽きた。

 ぐい、と乱暴に涙を拭う。制服の袖口を濡らし、生地が擦れた目元が少し傷んでも、どうだって構わない。

「…しんいちは、しらねーんだ」

 どれだけ。
 黒羽快斗という個体にとっても、その存在がどれだけ救いだったのかを。可愛らしいキスに繋いだ手に照れたように笑ったその笑顔に、素直じゃないふくれっつらに、その言葉のひとつ声のひとつにすら、どれだけ幸福を覚えたのかを。
 工藤新一ほどではないにせよ、十二分に『バケモノ』と呼ばれるに相応しい能力を備えた己の、たった一人の同胞だったのだと。
 泣いて過ごした数日間、頭の中を占めていたのは、そんな些細な新一との思い出ばかりだったから、快斗はもう決めた。いや、最初から決まりきっていた結論だ。
「そんな簡単に、別れてなんかやらねーからなっ…『白の魔術師』をなめんじゃねーぞっ!」
 もはや本能のように組み上がる、走査プログラム。
 認知領域を最大にまでシフトして、本気で『黒羽快斗』が臨むならば、叶わないことなど電脳世界に在りはしないのだ。

 最も虚構に近い現実。現実に近い虚構。
 ヴァーチャル・リアリティ・サイバーグラウンド。第二の故郷。

 ぺろり、と唇の端を舐め、快斗は真っ直ぐに此処ではない何処かを見据える。
 彼の望むたったひとりを、一刻も早く見つけ出す為に。






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 学問の金字塔。
 研究者の聖地。
 既にその名を冠するようになってから半世紀以上の時間を経て尚、その場所はそう呼ばれ続けている。世界規模の学術機関『アカデミー』と連邦政府の直轄施設である月面基地『ルナ・ベース』は、現時点で数万人の研究者と軍人が所属する最大規模の研究施設である。
 そして、その中枢ブロックに研究室を持つ少女、灰原哀は喧騒に包まれたエアポート・ブロックを静かに見下ろしていた。
 この出会いが、何を意味するのか哀にはわからない。
 哀は哀の理由を以ってかの紫眼の老博士に従って真理の追究を続けてきたし、それを後悔したことは一度も無い。哀が哀である、その一点を肯定してくれた只一人の恩師が目指した場所は余りに遠く、道程半ばの今、そんな事を考えている暇もなかった。

 けれど。

 それでも哀がこの場で待つのは、彼女と恩師の歩んできた道の最も極端な一例。あらゆる負の側面の集大成。
 ヒトの可能性。技術の可能性。あらゆる意味から模索したその果てが、これほどに悲しいものだなんて思いもしなかったから、哀は出来れば直ぐにでも此処から逃げ出したいとさえ思う。
 哀が夢見たのは、恩師が追い続けたのは、決してあのような悲劇ではなかったはずだ。それを成した存在が自分たちでなくても、自分たちが作り出したものが引き起こしたものである事は間違いない。己たちの業…それが形を成した存在に、面と向かうのは正直震えがくるほどに恐ろしかった。
 あるいは。
 恩師は、知っていたのかも知れない。自身もまた可能性の名の下に形作られた存在であるが故に、既に哀が今感じているような迷いは通り過ぎたのかも知れない。
 定期便の着艦を告げるアナウンス、エアロックを促すアラームが響く。
 刻一刻と迫る不可避の出会いの時は、もう直ぐ其処だ。

 その『最深の青』と称された瞳の前に、一体自分は何が成せるのだろうと、漠然とした不安と共に哀は静かに唇を噛む。
 室内に放置されたままのモニタでは、ナノマシン・コードに彩られた異形の少年が真っ直ぐな蒼い眼差しで虚空を見据えていた。



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 ふわり、と地上よりも軽い重力に驚きながら、新一は爪先をシャトルから月面へと付けた。とん、と僅かな音を立てて靴底が擦れ、前髪が浮き上がる。
「へえ…おもしれーな」
 つい最近まで某研究機関に軟禁状態であった新一には、ただでさえ見知らぬ事々が多すぎる。そうでなくとも月面は、一般人には未だ旅行さえそう簡単には許可の下りない機密区域でもある。
 地上とはあまりに違う己を取り巻く状態に、新一はその蒼い双眸をきらきらと輝かせながら辺りを見渡す。その背後からタラップを降りた同行者である女性も、苦笑を浮かべながらもまるで幼子を見守るかのような柔らかい視線を彼へと向けている。

 『これ』が一歩間違えば世界を崩壊させる存在なのだと、誰が思うだろう。

 彼自身は良くも悪くもただの子供だ。通常より少しばかり賢くて少しばかり常識を知らない、単なる子供に過ぎないのに。
 けれども、彼に与えられた力はそれを許さない。たった一人と定めた人間を傍らに置く事さえ憚られる、そんな存在にしてしまったヒトのエゴが、女はただ哀しいと思った。
 漠然とした思いは答えを生まず、踊るように足を動かしてそこらじゅうを眺めている新一を目で追うだけだ。女に出来るのは彼を此処に連れてくる、ただそれだけだ。その後は。
「…ベルモット」
 少しキーの高い、けれども幼ささえ滲ませる声の割に落ち着いた響きで己の名を呼ぶ。その存在をたった一人だけ知っていたから、ベルモットと呼ばれた女は赤い唇に薄く笑みを刷いて『彼女』へと向き直った。
「久しぶりね、シェリー」
「…哀よ。確かに久しぶり、というのは認めるけれど」
 眼下には、小さな少女の姿。年の頃は6、7歳といったところか、けれども理知的な瞳と冷静な態度がそれを著しく裏切っている。
「失礼…『レイディ・グレイ』。プロフェッサーはお元気かしら?」
「殺しても死なないくらいに元気よ。…それは、気の毒なほどに」
 最後の台詞が一瞬暗い響きを持っていたのには気付かぬふりをして、そう、と小さくベルモットは告げる。
 それ以上の追求を、今はとりあえず止めて目の前の少女を見つめる。昔から良く知る存在、ベルモットと同じ場所からコードネームを与えられ、自ら投げ捨てた存在。今はもう、違う名前と姿で呼ばれる存在。
 かの教授が小さな助手を呼び始めた通称は一人歩きをして、今では彼女とイコールで結ばれた通称が『レイディ・グレイ』。それは『今の彼女』を指し示す、最も手軽な名前のひとつ。
 かつての彼女のぴんと伸びた背中を知る人間のひとりとして、脳裏を過ぎった画像をひとつ頭を振ることで振り払い、幼子のように無邪気に辺りを眺めている新一へと視線を向けた。
「…彼は、周囲が思う程に強くも弱くもないわね。或いは、プロフェッサーやかの『極東の電脳調律師』とは違った未来を探せるかも知れない」
 彼は『ヒト』だから、とぽつりと告げて、ベルモットは胸ポケットに落としたままだったサングラスをかける。黒い硝子に遮られたその視線の先を読み取りかね、哀は痛みを堪えるような表情で新一を見る。
「…それは私たちの罪であり、プロフェッサーの罪であり、希望でもある。
だからこそ、逃げるわけにはいかないのよ…彼も、私も」
 きょろきょろと物珍しげに周囲を見渡す新一へと近付き、哀はこくりと息を飲み込む。
 勝手な都合で彼を作り、勝手な都合で彼を連れ出す。彼を都合で振り回し続けた周囲の人間の思惑がどんな刃となろうとも、哀はそれを真摯に受け止めなければならない。
 何故なら。それが『彼』という存在の根本を作らしめた『我々』の。
「…貴方が、工藤新一?」
「オメーは…」

 振り返る新一の、蒼い双眸が哀を射抜く。
 『妖精の薄羽』と称された、現在過去未来を同一視するという双眸。それが眉唾であることも流聞であることも哀は誰より良く知るというのに、一瞬真実と錯覚しそうになるほどの。
 それは、強くて真っ直ぐな眼差し。

「はじめまして。…私は、灰原哀」
 小さな右手を、静かに差し出す。
 これは契約に近しい。彼を裏切らない、彼の望みを叶える、彼と言う存在を肯定し続けるという約束の証。
「人は、『レイディ・グレイ』とも呼ぶわ…『最深の青』」
 一瞬、新一の瞳が大きく見開かれる。まじまじと己を見つめるその視線が居心地が悪く、そっと視線を伏せかけたその瞬間。
「へ、え…そっか、オメーがか」
 一瞬にして、刃のようだった双眸が綻ぶ。哀は実物を見た事はなかったけれど、それは確かに空のようだと称された、かの電脳調律師に連なる色。
 ひやりとした、ナノマシン・コードが這い回る手が哀のそれを取る。ぎゅっと握り締めた感触は乾いてさらさらとしていて、目の前の笑顔と同じようにとても綺麗なものだった。
「じゃあ、オメーがオレの『共犯者』になってくれんのか?」
「…貴方が、望むのなら」
 だって哀はもう決めた。
 あの紫電の瞳の教授に師事した日から、こんな事態は予測できていてしかるべきものだった。過去は過去として取り返しが付かず、既に形を成して此処にある。だったら。

「…よろしく、レイディ・グレイ」
「こちらこそ…最深の青」

 小さな子供の手と、まるで無機物のような異形の手。
 共通点などまるで無いその中で、けれどあたたかいと感じたのはきっと一緒。定期便の出港を告げるアナウンスが響く中、二人はぎこちないながらも確かな笑みを交わしたのだった。





2007.02.16.

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