game


 人類はその領域を月面まで広げ、地球圏全体へとその活動範囲を広げようとしている時代。
 地上においては、その情報伝達手段としてのサイバー・ネットワークが未曾有の規模で拡大を続けていた。
 そして、その広大な電脳世界を統括し、より健全な拡大を守護する組織としてINP…インターナショナル・ネットワーク・ポリスは全世界に知られる存在となった。
 かつて、その活動基盤の脆弱さから『毒にも薬にもならない』とさえ嘲笑された過去は見る影もなく、日々進化を続ける電脳世界の導き手として常に時代の最先端を行く組織。
 けれども、その些か先進的に過ぎる彼らの性質は、けれども同時に周囲の畏怖と疑惑と不安を煽る一面をも併せ持っていた。

 現在INP以外にはほぼ使用されていないSCS…物理的な入力手段を必要としない特殊インターフェース・ユニットも然り。
 未曾有の規模で上層部に食い込んだ、コーディネイターの存在然り。
 現実的に彼等を律するものが彼等以外に存在しない事実は、彼等に二心が無いゆえに余計に疑心暗鬼を生み、敵性組織を育てる事にもなり得たのは皮肉だろう。

 NiCL…アカデミーと比肩する唯一の世界規模の学術組織。
 輝かしい経歴のその裏では誰もが名を知る数国のバックアップの元に非合法な研究を行い、潤沢な活動資金によって相応の成果を為した。
 今やINP同様に学術の道を志す人間の金字塔となり、特に生体工学に特化した体制は誰もが知るところだろう。
 だが、この組織のそもそもの存在理由はといえば、完全独立独歩を掲げあらゆる国家の思惑を活動内容から排除したINPに対しての大国の当てつけのようなものでもある。
 予想外に力を持ちすぎた非国家・非派閥の組織。独自の活動理論と経営体制を築き上げ、全く政治と権力の関わらぬ場所で彼等は彼等に拠ってのみ行動を定義する。
 あらゆる国家間協定を無視し、唯一地球連邦議会の決定のみが彼等の行動を制限し得るが、それすら非常事態宣言上のものでしかない。
 その自由は全人類規模の非常事態を以ってしか制御されぬと明言された組織、その行動は、一定の法と秩序に則り平等で公正、決して無軌道でないだけに余計に性質が悪い。
 相応のしがらみを持つ各国首脳部にとっては、この上なく邪魔な存在とも言えただろう。

 しかし皮肉にも、そういった大国の庇護下にある特務機関・NiCLの研究成果の一部は現在に至って様々な経緯を経てINPへと流出し、新たなる礎のひとつとなりつつもあった。

 極東管理官・工藤新一。
 かつてNiCL極東支部第九研究室に所属していた被験体にして、第八次アーキテクト・サンプリングコードがINPによって封印された現在では存在するはずのない[8th Coordinater]。
 [8th Coordinater]の最大の特徴のひとつである希少能力『妖精の薄羽』と称される世界記憶(アカシック・レコード)認識能力を有する。更に後天的に付加された各種ナノマシン群によって、単体でINPの中枢演算ユニットに匹敵する演算能力・心臓か脳を潰されない限りはほぼ蘇生可能な修復能力・物体、精神、空間に干渉可能な特殊操作能力。ほぼ全能と思われる能力をその齢17歳の身体に詰め込まれた、生きた機密そのものだ。
 そしてもう一人、極北管理官代理・黒羽快斗。
 十年近く前のINP極北支部の違法研究施設の摘発によって保護された、デザイナーズ・チャイルド。電脳世界の申し子とも言える、インターフェースを必要とせずにリアルスペースとサイバースペースを認識する特殊能力者。
 一切の負荷を無に、電脳世界と現実世界を掌握する彼の頭脳は、一説にはIQ400を超えるとさえ言われている。本人の経歴上情報工学に特化している事は事実ではあるが、多岐に渡る分野で第一人者と渡り合える知識と才能の持ち主でもある。

 無論、彼等の所属については彼等を『製造』したNiCLにとっても『保護』したINPにとっても予想外な事ではあったろう。けれども、現実として一人だけでも脅威である存在が二人も…否、それ以外にも多数の有能な研究者と技術者を抱え込むINPという組織は、今現在を以ってなお混沌の最中にある。
 そして、だからこそ彼等と敵対することこそを命題としたNiCLもまた、独自の思惑を以って策謀を張り巡らす事だろう。

 どこまで、この事態をかの『極東の電脳調律師』は予想し得たのか。
 或いは、既に彼の予定調和を外れて事態が動き始めたのか。
「…新一」
 唐突にラインが途切れた携帯端末を呆然と見つめながら、黒羽快斗は震える唇で愛しい相手の名前を呼ぶ。
 先ほど、つい先ほどこの鼓膜に響いた言葉が、声が消えない。消えないのに、理解が出来ない。

 …いや、したくないのか。

「うそだろ…?…なあ、新一、」
 嘘だろう、と呟く声の最後は、声にすらならない。ぼろりと零れた水が頬を伝い顎に届いて、堪りかねたようにぽたりと水滴となって綺麗とは言いがたい乱雑なデスクの上に落ちた。
 書類が濡れる、と自分の中の掻き消えそうな理性が囁くのと、暴れ狂う感情が最後の箍を外すのは、ほぼ同時だった。

「…ぁ、あ、ぅああああっ…!!」

 泣く、というよりは叫ぶ、に近い慟哭。
 とても人の声とは思えない獣のようなそれに、周囲が何を思うのかさえどうでも良かった。
 とめどなく零れる水が涙だと認識するのと、心臓を押し潰すような悲哀を知覚したのはずいぶんと後の事だ。その時はただ、ただ絶対的な喪失に対する感情の奔流に身を任せていただけだった。

 ただ、失った。
 たった一つと定めていたものに、おまえはもう要らないと宣告された。
 それが無ければ生きていけない事を思い知らされてしまったのに、もうそれに必要とされないのだと告げられた言葉は、黒羽快斗という存在の意味を消去するには十分過ぎる言葉だったから。

「なん…で、なんでだよぉっ…!!しんいちぃ…っ!?」

 小さな子供のように頑是無く泣き喚く、漆黒の制服を纏う極北管理官代理。
 その背を、そっと撫でて消えた蒼い双眸の少年の幻には…気付かぬまま

 『最深の青』は名に相応しい真青の制服を纏い東の果てに。
 『白の魔術師』は深い闇色の制服を纏い北の地に。

 それは、約束にも似た永遠の現実であると、夢想であるにも関わらず妄信していたのは誰の咎か。

『…お別れだ、快斗』
 INP特製の携帯端末、その格段に優れた解像度を誇る画面で、鮮やかに笑う極東管理官、工藤新一の笑顔は曇りなく晴れやかで。
『今まで、ありがとう』
 どこかはにかむように告げられた言葉の意味を、理解できない快斗の事など置き去りにして。
『オマエがしてくれたこと、全部、嬉しかった』
 何もかも過去形にして、君は笑った。でも。
『…さよなら』
 「それ」が別れを意味する言葉だなんて、認識できなかったし、したくなかったんだ。

 ねえ、俺と二度と会わないなんて、嘘だよな?

 無数の悪意の刃を、無遠慮な大衆の噂を跳ね除けて。それまで、二人は通じ合っていた筈だった。
 ずっと一緒に走っていくと、告げた言葉に期限があるなんて考えた事もなかった。
 けれども彼等の中の『欠落』は、仮初の紛い物で埋めたところで綻び始めるのを止められる筈もない。
 …それは、理解っていたはずだったのに。

 快斗は告げられた別れの痛みを、新一は告げた痛みを抱えたまま、北と東の果てで膝を抱えて唇を噛んだ。

 切欠は些細な事。けれども動き出したものはもう止められない。
 『工藤新一』という稀有な存在を鍵として。
 また禁忌の扉として。

 新たなる事件の幕は、上がろうとしていた。



--------------------------------------



「…これで、満足か」
 ぱちり、とINP特製携帯端末の主電源を落とし、工藤新一は底冷えのする眼差しで値踏みするように彼を見る女を睨み返す。
 赤い紅を引いた唇が愉快そうに歪み、口角が吊り上がる。上等なソファに腰を下ろしたまま、組み替える足は白くて長い。10人居れば10人ともが美しいと称える容貌の女は、肯定とも否定とも取れぬ曖昧さでただ肩を竦め新一の出方を待っているようだった。

 たった今、新一は己のただひとつの大切なものに別れを告げた。

 それ自体は後悔はしていない。いずれ訪れるだろう別れの時が今になったとしても先延ばしにされたとしても、この心臓の奥で燻り続ける痛みが消えることは無いし、傷が癒えることもない。
 けれど『工藤新一』と名付けられた化け物が、化け物であると彼に知られる前に離れること。それだけは果たせたのだと信じたい。
 彼を振った、酷い男と罵られるのならば耐えられる。憎悪でも忘却でも、彼がそれでもかつて恋した相手なのだと思ってくれるのならば新一はそんな痛みくらいいくらでも耐えてみせる覚悟はあった。
 耐えられないと思えたのはただひとつ。あの綺麗な藍色の眼差しが怖れと怯えと嫌悪を以って、己等とは違うものを見るように新一を見ることだけだった。
 黒羽快斗を失った工藤新一は孤独だ。他のあらゆるものを隣に置くことが出来ず、孤立したまま死へと向かうただの物体であり続けるだろう。
 快斗がそう見ないなら、もう誰も工藤新一という特異な存在を『新一』として見る者は居なくなるのだから。

 胸の奥は変わらず鈍く痛む。その痛みを押し殺すように沈めて、新一は不機嫌を装い目の前の女をじっと見つめる。
 何を思ってこの女が自分に近付いたのか。
 そして彼女と己の今後の行動が、どれほど世界を揺るがすのか。
 或いは激震を各業界に及ぼすだろうそれにも、新一はもう興味は無い。興味、と呼べるほどの自我を、得る意味がもう『工藤新一』という人格に存在しないからだ。

「…俺はもうあの場所には戻らない。アイツの隣に戻らないのと同じように」
「そうね。そこまで都合良く進むとは流石に思ってないわ」

 淡々と告げ合う言葉には、裏の裏まで意味が含まれている。
 それを読み合うように交わす視線は双方共に冷たく、そして鋭い。長い金髪を弄ぶように細い指に絡め、女は僅かに目を細める。
「…貴方の存在は誰にとっても邪魔なのよ、そして同時に切り札にもなる。たったひとりに与えるには過ぎた能力を得過ぎてしまった貴方を、『ヒト』は排斥せずにはいられない」
「だろうな。俺個人の希望なんぞ、些細なモンしか持っちゃいねーってのによ」

 新一の望みなど、たかが知れている。
 ただ、生きていたい。様々な事を知りたい。色々なものを見たい。己が己であることを、諦めずにいたい。
 そして何より、快斗の傍に…ヒトとして在りたい。
 たったそれだけだ。それだけが叶えられるのなら、新一は他の何も欲しくない。この身に与えられた稀有な能力の全てと引き換えにその願いが叶うなら、いつだってそんなものは投げ捨ててみせる。
「…可哀想な子。他の誰よりも些細な幸福を望むのに、それさえ叶えられないのね」
「憐憫で叶うなら、いくらでも哀れんでくれればいいさ。そうでないから、俺は動く」
 新一の白く細い指先が、きつく真青の極東管理官の制服の胸を掴む。皺が寄ることなど気遣いもせずに、ただ溢れる何かを堪えるように指先が震えた。
「…それでも、私は貴方を哀れむわ。他に何も出来ないのだから」
 痛ましげに、女の睫が震える。伏せた眼差しの向こうにあるものを特定できず、新一はただ女の視線を追うように絨毯を見る。世界規模の組織、その第一階梯の支部に相応しい上等なそれには、手入れが行き届いているのだろう、塵ひとつ見当たらない。
「俺を…何処へ連れて行くんだ?」
 沈黙以外を欲するように、具体的な施策を求める新一の問いに、ようやく女も視線を上げる。美しい、けれども棘の存在をあからさまにする女の唇が薄く笑みを刻んで、そのマニキュアに彩られ丁寧に磨き上げられた指先が天井を…否、それを通り越したはるか上を指す。

「古くは御伽噺に、そして今は最先端の科学に彩られた天空の城」

 雲ひとつ無い上天気な青空に、ぽかりと浮かぶ白い影。

「…月か」

 半世紀近く前に地球連邦の軍事基地と研究施設が建設されて以来、学術都市として地上の喧騒とは一線を画す場所として形成された閉鎖空間。
 様々な新技術がそこから地上へと齎され、多くの研究者がこぞって目指すユートピア。今も尚、名の知れた学者たちがルナ・ベースに研究室を構えている事は周知の事実だ。
「貴方を月に。それから先は、貴方が決めればいいことよ」
「…そうだな」

 たったひとりと決別したなら、未練なんて元より希薄なものは微塵も残るはずもない。世界を楽しめ、と己に告げた老人の横顔に少しだけつきりと痛むものを覚え、けれどもそれさえ頭を振った瞬間に消え失せる。

 此処には、思い出が多すぎる。
 元より、新一には思い出なんて高尚なモノは多くなかったから、余計に。

 ソファから立ち上がった女が差し伸べた手に、新一は躊躇う事無く己のそれを重ねる。
 女の指先は、予想通り少し冷たく滑らかだった。





2006.06.11.

B A C K * / H O M E * / N E X T *