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世界の定義はいつでも曖昧だ。
己が認識する世界と、他者が認識する世界は常に同一にはならず、故に人は大勢の中で孤独を生きることを甘受するしかない。
だからこそ、生命は生まれ落ちた瞬間から永遠の孤独を強いられるのだとは、誰が告げた言葉だったか。
そんなことをぼんやりと考えながら、工藤新一はかしりと安物の事務ボールペンの端を噛んだ。
思考は、奈落に落ちる螺旋階段にも似ている。踏み外しそうになりながら、おっかなびっくりと一段一段を下りてゆく。その先にあるものの確かさを、妄信したいのは人の弱さだろうか、あるいは強さか。
それすら、既に生まれながらにして『ヒト』を外れてしまった新一には、どうでもいいことであったけれども。
強張った肩と背筋に走る痛みのような感覚に、ん、と小さく声をあげて伸びをする。対角線の同類にして恋人であるところの快斗からは、猫のようだと揶揄されたことのある仕草だが無意識の産物である以上直す気はさらさらない。
永遠の孤独。
この広い世界でたったひとりであることを知覚すること。
馴染んだ思考だった。
既にこの身体は新一の自覚や他者の判断を頼らずとも既に人類種から大きく逸脱していることは明確で、その弊害も相俟って新一から他者に深接触を図ることもままならない。
こんな自分を好きだといってくれる、己も好きな人間に明け渡すことさえ出来ない。
いつか離れることを覚悟して始めた関係だったけれど、日に日に覚悟は錆付いて、強固だったはずの意志は揺らぐ。泣いても喚いてもその日はいつかやってくるのに、新一はかつてほどの冷静さでその瞬間を待つことはできなくなった。
アイツが、悪い。
こんな俺を、甘やかすから悪い。
研究材料として、それ以上でも以下でもない扱いを受け続けた研究所時代は良かった。あの頃の自分は部品であり実験動物であり、ヒトとしての自我もココロも、ただ己の中に仕舞いこんで隠してしまえば事足りたのに。
今は駄目だ。どうしたって駄目になった。
知って欲しい、分かって欲しい、愛して、欲しい。
欲というものを知ってしまった自分は自覚の無いままに感情に飢えていて、快斗の与える全てが惜しい。
たくさんのものを貰った。そして未だに返せない。あるいは、一生返せないかも知れない。
それでもいいと思っていた過去は、近いはずなのにもう遠すぎて思い出すことさえ苦痛が伴う。
自由になりたかったんだ。
何処までだって歩いて、走っていけるなら、おまえの隣が良かったと思ったことも嘘じゃないんだ。
でも。
「…苦しいよ、快斗」
ぎり、ときつく歯を食いしばり、新一は胸の辺りを強く抑える。指に纏わりつく虹色の幻影にも随分慣れたけれど、きっとこの痛みにだけは、慣れる日は来ない。
来ないほうが、いい。
はじまりは、電子の海。
虚構が入り混じる0と1の羅列の世界にも鮮やかだった白い魔術師。
だからこそ、新一は自由を渇望した。
現実の邂逅を経て、けれども揺らがない想いが嬉しかった。互いが互いの『たったひとり』なのだと、定められたことが嬉しかった。
「いつまで居られる?
いつまで…居てくれる?
俺は、此処に居ても、本当にいいのか?」
湧き上がる疑問に答える存在もないままに。
新一はきつくきつく目を閉じる。
ようやく広がり始めた世界の中、まるで迷子の子供のように、頼りない指先が更に強く上着に皺を刻んでいた。
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悲しむべきことだと、見知らぬ誰かは痛ましい顔をするだろうか。
愚かしいことだと、見知らぬ誰かは嘲笑うだろうか。
けれども、どちらともが少女にはどうでも良いことだ。排斥される己は既に慣れ親しんだものであり、そんな少女を少女として認識してくれたのもただひとり。
窓の外に広がるのは、大多数の人類が見ることがない景色。
無限に広がる漆黒の宇宙。その中にきらめく星々と、眼下に見下ろす青い地球。
「どうしたの?」
「…プロフェッサー」
やや濃い目の褐色の髪に白いものが混じり始めた、薄く皺を刻んだ初老の男性。プロフェッサーという呼び名の響きに似合う通りに、何らかの研究施設の制服と思しき青い服の上に、いささかくたびれた白衣を着込んでいる。
穏やかな声色と、静かな笑顔。そんな老教授こそが、少女を少女として存在たらしめているたったひとつの因子だった。
「別に、何も」
「嘘は良くないよ、レイディ・グレイ」
とん、と老教授が伸ばした指先が少女の小さな肩を叩く。明るい褐色の髪を揺らして、それでも視線を窓の外から外そうとはしない彼女に、老教授は小さく苦笑を漏らす。
「強情なことだねえ…行きたいなら、止めはしないよ?」
「…貴方が此処に居るのなら、私も此処に留まるわ。それに…」
ゆっくりと、少女は瞬く。
幼い外見に似合わぬその仕草に、けれども老教授はただ微笑みだけを浮かべて沈黙を守った。
「…それに、私が此処を離れてしまっては困る人たちがいるのではなくて?」
「僕には、そんなことを君が気にするとも思えないけどなぁ。僕の若い頃とは違って、今となっては世論も政府も彼らには障害にもならないだろうし」
くすくすと笑う老教授のその仕草は、年を刻んだ外見に似合わず奇妙に若々しい。それは多分、彼という存在自体の特異性であり彼が歩んできた人生の数奇性でもある。
髪は白くなり姿形は老いても、そこだけは未だ鮮やかなの紫電の瞳に宿る悪戯っぽい微笑みに、レイディ・グレイと呼ばれた少女もまた、唇を綻ばせることで答える。
「私は…所詮は他愛のないピースのひとつでしかないわ。重要なファクターであった貴方や、極東の電脳調律師。そして…今極東の地にある『最深の蒼』のように、世界を覆す何かを持つわけではないの」
「それは全て結果論だよ、レイディ・グレイ」
「…そうかも知れないわ、プロフェッサー」
それでも、と少女は囁く。
沈黙を守ったまま、老教授は頷く。
窓の外に広がる漆黒の中、ただただ鮮やかに青い地球が輝いていた。
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INP第一階梯・極東支部。
その正面玄関の前にはためく連邦政府旗・INP総合旗・極東支部旗の三本のポールが並んでいたが、何時もと異なりその全てが半旗とされ、ポールの半ば程の高さで風にたなびいていた。
「…早いな、もうそんなになるのか」
「じーさん」
ぽつり、と呟いた老人の声には、どこか力ない過去を辿るものの響きが残る。常ならぬ遠いものを見るかのような己の後見人の声に、工藤新一は幾度か瞬いて控えめに彼に呼びかけた。
それすらひょっとしたら邪魔だろうかと思ったが、新一は声をかけずにはいられなかった。それほどに、いつになくかの老人の表情には、寂寥と呼ぶにもあまりに深い痛みが横たわっていた。
「あれが死んだ時、私という存在の半分はもぎ取られていったようなものだ。今此処に在るのは、単にあれがこの『場所』の存続を望んだからに他ならない」
極東の電脳調律師。奇跡と隣り合わせの現実を示し続けた稀有なるサイバー・ネットワーク・システムの先駆者。
老人が懐かしむその男の命日たるこの日、INPに所属する全ての支部が喪に服する。
その存在を知らずとも、その存在に支えられて今日の組織を築いた男に対する敬意を表して、既に無い存在を悼む事はきっと間違いではないのだろう。
未だ、人の死も人の生も遠い新一は、ぼんやりとそんなことを考える。
きっと自分は、この目の前の老人の痛みの欠片も理解できていない。
存在の消失、というものに対する正しい痛みを感覚を、把握できない己を知っているからだ。
「…リトル・ディ。君は、新しい世界の担い手のひとりだ」
こくり、と息を呑む。
新一の恋人であり元好敵手であり現在の唯一無二のパートナー、黒羽快斗を呼ぶのと同じ響きで、老人は慈しむように孫のような年齢の新一の頭を撫でる。無条件に優しいそれに、くすぐったいような居心地の悪さを覚えたのは、果たして良い事なのか悪い事なのか、それすら新一にはわからない。
偏った人生を送ってきた元実験体は、今は必死で『普通の人間』を学んでいる最中だ。
故に、この老人の深く染み渡るような言葉の端を、刻み込むように己へと仕舞い込む。じっと老人を『最深の蒼』という二つ名に相応しい青い眼差しで見据えると、目元の皺を更に深くして老人は半旗へと視線を投げかけた。
「だからこそ、世界を楽しみたまえ。君は痛みを知っている。痛みという感覚を忘れてしまっていても、君の心は苦しいことを痛みを知っている筈だ」
「…けど」
「君はひとりではないだろう?
…探したまえ、君の唯一と共に。我ら傍若無人な永遠の快楽主義者を許すほどに、この世界は美しく、広く、楽しかった」
何を、とは老人は口にしない。その視線すら窓の外にたなびく半旗に向けたまま、懐かしむような愛おしむような複雑な色を瞳に宿し、随分と皺の増えた指先で窓の桟を握った。
「じー、さん…」
「我々は、いずれ去る。そう遠くない未来だ。けれども微塵も、一欠けらたりともこの世界で為した事、後悔なぞはしてない」
それが、老人の強がりであったのか掛け値ない真実であったのか、新一には確かめる術もない。けれど。
「…駄目だ。俺は、最後には…ひとりで、いなくちゃ」
「ディ」
「駄目なんだよ、絶対に」
老人の声から逃れるように、新一はその視線を己の爪先へと落とす。
形ばかりは人に良く似た、けれど本質的に異なる有機系素子を主とした無機物との混合構成物。それが新一が自覚する新一自身だ。
そんなものが人と社会生活を営めるわけはなく、単に今こうして活動を続けていられるのはINPという組織の庇護下にあるからに他ならない。
国際的サイバー・ネットワーク警邏組織、INP。その影響力は無論下手な国家が太刀打ちできるものではないほど強固であり、また研究組織の別名が伊達ではない事を証明するように柔軟である。
新一がかつてNiCLに所属していた頃、『最深の蒼』のHNで世界中に名を轟かせた行動の数々は既にINPの手によって数々の証拠隠滅作業が行われている。それに伴い、『工藤新一』という人物の偽造された国籍と諸々の経歴もINPという巨大組織、そしてソレに連なる世界最大の学術組織・ユニバーサルアカデミーの助力を得てちょっとやそっとでは動かせないものとして表舞台に示された。
鍍金ばかりの表面の奥、孤独を抱え人の姿をした、能力ばかりは高い未熟で無知な化け物を飼い慣らす餌のひとつとして。
新一は、基本的に希望を持たない。
あるのは、新一の能力が可能とする限界を推し量る正確無比な未来予測と、現実をあらゆる感情を廃して捕捉する認識能力だけだ。
人間が人間として社会生活を営む為に必要なものが己に欠けていることなど最初から承知している。けれども、それを正す理由がないだけだ。
いずれ、周囲も知る。
優しいばかりの人々も思い知る。
『工藤新一』が、化け物であることを。自分たちとは根本的に異なる存在であることを。
ヒトが生み出したヒトの紛い物、その歪さを。
「快斗も、いずれ気付く。だったら」
暗い瞳を静かに伏せて、諦め混じりに呟いたその言葉と共に、半旗に向けられていた瞳が新一の頭上へと固定される。落ちた肩と視線に深く溜息を落とし、老人はくしゃりと艶やかな新一の頭を撫でた。
「…リトル・ディ、君は良い子だね」
「ちがう、俺は単に我侭なだけだ」
「いいや。だから、君はもっと楽しんで良い」
「おれは…!」
嗚咽交じりになりかけた声に、殊更に優しく老人は皺だらけの手で新一の頭を撫で続けた。
半旗が風に翻る或る晴れた日の朝。
ひとりの老人とひとりの子供が、無言のままに窓の外を見る。
どこまでも、空だけが青く広がっていた。
2006.03.28.
H O M E * / N E X T *