06
「…めーたんてー…」
ことり、と肩に落ちた重みにどきりと心臓の鼓動を早めたのは一瞬。
おそるおそる覗き込んだ彼は、ものの見事に熟睡中。
よく知らない奴の隣で爆睡だなんて、緊張感足りな過ぎだよ名探偵、と口中で呟きながら、直ぐに仕方ないなあと快斗は苦笑を漏らした。
本来ならば、工藤新一は被害者であって逃げる立場にはない。むしろ堂々と司法の手に己の身を委ね、彼に対して無体を強いていた組織に正当な報復を求める事が可能だったはずだ。
但しそれは、彼の能力が本当に資料上のものと同一だった場合にのみ可能な選択肢だった。未来を楽観視するには、少々『工藤新一』は異質に過ぎた。
それを示すかのような彼の現在の格好は、一言で言えば異様としか言いようがない。焼け焦げたような穴が幾つも空き、袖や裾は引き攣れたようにほつれている。靴は異様に底が磨り減り、膝は薄くなり繊維が引き千切れたように色を失っている。そして何より、その破れた服の間から見え隠れするナノマシン・コードは一般人が見れば息を呑むような鮮やかな色合いで肌を這う。
その身ひとつでセキュリティハックを可能とする高度な演算能力を有し、限定空間とはいえ物質の分子結合を操作し、周囲空間の重力、密度すらも自在に繰る。それを本当に『人』と呼ぶのかどうかは、快斗にもわからなかった。
ただ、此処で眠る彼は何も悪くない。
彼は彼に与えられた能力を行使しして、彼が当然求めてしかるべき『自由』を手に入れようとしただけだ。
それが罪悪だというのなら、快斗が此処に居る事もかの電脳調律師がしてきた事も全て、贖いようもない罪そのものだ。
ぎゅっと、繋いだままの手を強く握る。其処にあるのは人の境界線を彷徨う機械と生身の融合生命…けれど、この暖かさは生きているものの証。
僅かに纏う気配を変えて、冷涼とした声でヘリのパイロットに告げた。
「…極東支部へ。『リトル・ウィザード』がキャス老にお会いしたいと、伝えてくれ」
了承の返事と共に、パイロットは無線でどこかしらに連絡を取っている。幾度かの通信の末、パイロットが親指を立て交渉成立を伝えてくる。ほっとした様子を見て取られたか、ヘルメットから覗く口元がにやりと笑みを刻んだ。
何ひとつ諦めないと決めたから、この手を離さない。その為に出来る事があるのなら、快斗は惜しむつもりもない。
ビルが乱立する都会の夜の空を渡り、ヘリは危なげない操縦でひときわ立派で高いビルの屋上へと降り立った。
お気をつけて、と微笑むパイロットに礼を告げ、眠ったままの新一を担ぎ上げてヘリから屋上へと降り立つ。少し冷え込む夜の空気も、降り注ぐ月の光も強い風も、こうして触れている以上再会のあの場所とは違うのだと信じている。
出迎えの人間の差し出す手を拒否して、新一を抱えたまま快斗は空を見上げた。
こんな月夜の出会いも、悪くはないと思いながら。
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インターナショナル・ネットワーク・ポリス極東支部。
北米に存在する本部に次ぐ優先権を持つ第一位の高位支部であり、かつては無味無臭・人畜無害と揶揄された組織を現在の地位まで押し上げた『極東の電脳調律師』が亡くなる寸前まで管理官職を勤め上げた場所でもある。
プログラマでありエンジニアでもあった彼が生涯をかけて構築したハードとソフトの双方共に世界最高峰と言われる電子の砦は、この道に関わるもの全てにとって憧れの地でもある。
けれども、快斗を含む実情を知る者にとってはそんな大層な肩書きなど意味がない。ここは単なる『コドモの遊び場』に過ぎない。
いい年をした大人たちが子供のように夢を追った、その結末としての形骸に過ぎないのだと。快斗の養い親を含む張本人たちこそが笑い飛ばすから、カタチだけは立派な入れ物に恐れ入ることもなく、快斗はやけに立派な絨毯敷きの廊下をぴくりとも動かず寝こける新一を抱えてすたすたと進んでいく。
幾度か来た事もある場所で迷うはずもなく、ぴたりと進んだ場所は重厚な木の扉の前。はて手が塞がった状態でどう開けようかとしばし悩んでいると、それを察したかのように観音開きの扉が内側から開かれた。
「…やあ、久々だね『リトル・ウィザード』」
銀糸のような髪を隙なく整え、過ごした年月を皺として刻み込みながらも尚美しいと称されるべき老人が、部屋の奥から此方に声を掛けてくる。年齢により僅かにしわがれた、けれども低く引き込むような声色に、快斗は思わず苦笑を刻む。
足が悪いのか杖を傍らに、真白いブランケットを膝に掛けている。重厚なデスクとそれに釣り合う椅子に深く腰を下ろしたまま、往年の凄腕ネットワーカーは薄く唇に笑みを刻み、老いてなお健在な事を知らしめるかの如く思慮深い眼差しで二人を見据えた。
「だが、少々唐突に過ぎる来訪ではないか?この老体を訪ねてくれるのは嬉しいが、せめてもう少し先に連絡を寄越したまえ」
この箱庭の城の、仮初めの主を名乗る老人。
けれども快斗にとって彼は、闇雲に恐れるより先に親愛を覚える類の知り合いだった。
「ああ、悪かったよ。けど急用だったんだ、どうしても今じゃないと駄目だったからさ」
抱えていた新一を、とすりと応接用のソファに下ろして自分もその傍らへと座り込む。適度なスプリングが効いたソファは見かけどおりに高級品で、体重を掛けても軋む事無く二人分の重さを容易く受け止める。
快斗と、眠り続ける新一を交互に眺めた老人は、一度だけ考えを巡らせるように目を閉じ、再び開く。
やや薄い青の瞳に迷いの色は無く、飴色のデスクの上に肘を付いて組んだ両手の上に顎を乗せる。ともすれば年齢ゆえに鈍重なものと映りかねないその動作を優雅なまでにこなして見せ、老人は快斗の傍らで眠り続ける新一を一瞥する。
その、遠慮ない何もかもを見透かそうとする眼差しにどこかひやりとした気分を味わう快斗を余所に、老人は僅かに唇を吊り上げ可笑しそうに呟いた。
「なるほど…面白いものを見つけてきたものだ。何処で拾った?」
その言い様に、冗談とはわかっていても快斗のこめかみがかっと熱を持つ。ものとして扱われる事は、自分たちのような履歴を持つ人間にとって最大のタブーだ。
それすらわかっていて告げられた言葉だと理解しながらも、自分に対してではない言葉に覚えた怒りに、ぶっきらぼうに答えを返す。
「NiCLの極東支部。けど、俺はコイツを俺と対等だと認識してる」
「『北海の賢者』の秘蔵っ子たる『白の魔術師』と対等、と?」
頷くことで肯定を伝えると、今度こそ可笑しそうに喉を鳴らして老人が笑う。伸ばした指先でデスクの上のコンソールを叩き、次いで右に据えられたカードスロットから数枚を抜き出し快斗へと放った。
「…ふむ、確かに興味深い人材ではあるな。いいだろう、リトル・ウィズの要望は了解した。彼の社会的庇護は今後、極東支部が全面的に受け持とう」
「…って、何も聞かないのかよ」
あっさりと、訳有りのヒト一人を匿う事を了承した老人に片眉を吊り上げると、くつくつと笑みを零しながら老人は新一を指して快斗へと視線を向ける。
「マシーナリィ・インジェクト・ヒューマノイド。大方、非合法なナノマシンとの融合被験体だろう?私とて多少の情報ルートは持っているのだよ」
ぐっ、と受け取ったカードを手に言葉に詰まった快斗の様子に苦笑しつつ、幼子を諌めるような口調で老人は更に問いかける。
「そこの彼だが、私のような見知らぬ人間が傍に居ても起きないほど疲労しているのだろう?君たちの話は後日聞くから、今日の所はきちんと休ませてやりなさい」
「あーもう、なんでそうヒトの思考の先を読んでくるかなじーさんたちはっ!」
確かに、こんこんと眠り続ける新一に焦れていたのも確かだが。あの養い親とその部下との腹芸を見本に長年培ったポーカーフェイスも海千山千のこの老人には通用した試しがない。はああと大きく溜息をついて、快斗は先ほど渡されたカードキーを手に再びくてりと寝ている新一を担ぎ上げた。
本当に全く、この老人ときたら今も昔も呆れるほど厳しくて優しい。そのどちらも判りづらいのに、確かに与えられた者の本質にじわじわと染み込む類のものだ。
背中越しに小さく呟いた感謝の言葉に応えるように、視界の端で皺だらけの手がひらりと空気をなぞっていた。
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絶対的な幸福感。
傍らにある温もりの気配と、常に刺すような観察の意思を向けられていないという開放感。それらの感触に覚えた感情は、まさしくそう名付けられるべきだろう。
眠り、というよりは休息にも似たまどろみの中、時折触れる指先の感触をくすぐったく甘受しながら新一は目を開ける気にはなれないでいた。
微かな、けれど此方を労わる気配が離れないなら、この幸福をいつまででも味わっていたい。
そう眠りながらも唇を綻ばせる新一の停滞した思考に、けれど僅かなノイズと共に割って入った意識があった。
つきり、と一瞬走る、痛みににも似た不快感。
自身の思考へと介在する他者の思惟の感触に、わざと深く深く眠らせていた意識のステージを切り替え、新一は自分の中に入り込む意識と正面から向き合った。
「…誰だよ、オマエ」
新一自身の生体脳と、己の身体中に共存しているナノマシンが独自に構築した伝達領域。その特殊な構造をしている彼の神経伝達網は、独自のパーテーションを持つ異質な脳磁図を形成している。
自身でも意識しないそれを証明するかのように、その存在は新一の深層意識へと降り立ち、『工藤新一』の精神及び人格そのものと対話を求めるかのように薄く微笑んでいた。
これもまたこの存在のもたらすイメージにしか過ぎないのに、新一の脳は存在そのものとして享受する。舌打ちをしたい気分に陥りながら、問いかけに返る答えを待った。
よれよれの白衣に、履き古したスニーカー。擦り切れそうなジーンズに、そこだけはかちりとした印象を与える真青い『極東管理官』の制服。
此方を見据える瞳もまた、蒼い。
そう、『工藤新一』の双眸と同じ、何処までも澄んだ『最深の蒼』。
「やあ、そろそろ起きる気にはならないのかと思ってね」
「俺はオマエが誰かって聞いてるんだよ。人の意識の中に入り込んで偉そうに抜かすな」
ひやりとした、自分でも好戦的だと自覚する口調で告げればそれは可笑しそうに笑う。童顔も相まってやや小柄な印象を与える癖の強い赤毛の青年は、ふわりと伸ばした指先に虹色を纏わり付かせて新一へと歩み寄った。
「…セイ=レイ・トゥエルフス。
しかしここで名乗る僕の名前には、あまり意味はない」
「それは俺が決めることだろ、テメーの判断で勝手に省略すんな」
先ほどまでの深い幸福感があっただけに、多少の苛々はすぐさま不機嫌へと転化する。意識だけで対話しているに等しい現状では、外面を繕う事はあまり意味がない。故に明らかな怒りを身に纏い、新一は赤毛の青年の姿をした不法侵入者をきつくねめつけた。
「用があるなら早くしろ、でなけりゃさっさと『俺』から出てけ」
「つれないなあ、僕はただ確かめたかっただけさ」
つい、と虹色をまとわりつかせた指先で、セイ=レイを名乗る存在が新一の顎を取る。不愉快な感触にすぐさまそれを振り払い睨みつけたが、何故かこの無礼な侵入者はにっこりと笑って恭しく腰を折った。
「…ねえ、『後継者』殿?」
「ああ?」
意味の通じない言葉にきりきりと眦を吊り上げる新一の様子に瞼を伏せ、ふわりと虹色を翻す。思わず息を呑んだ新一の右手を取って、鈴の鳴るような音を立てる虹色の光を手のひらに乗せ、その蒼の双眸で新一の同色の眼を覗き込む。
「偶然と奇跡の繰り返しが、君の位置を決定付ける。
いいかい、君が『彼』の後継者だ。他の誰も成し得ない事だが、君にはその資格と権利が存在する」
歌うように告げるセイ=レイの声に、新一は網膜の裏を焼くような突発的な怒りを覚えて腕を払う。ぱりぱりと走るノイズと、思考を切り裂くフラッシュ。がくん、と意識のステージが落ちるのを認識して、新一はぎりぎりと歯を食いしばる。
「ざっけんな…!おい、まてこのヤロー!!」
手を伸ばす。
薄くなる意識の狭間で、悪態を繰り返し殴りつけようとして…
「し、しんいち?」
「…あ?」
目が、覚めた。
「ど…どしたの?なんかすごい魘されてたけど…」
驚いた様子を隠そうともせず、途切れがちに問いかける快斗の声に、新一ははたと我に返って辺りをきょろきょろと眺める。
…知らない部屋だ。
「…何処だ、ここ?」
淡いクリーム色の壁紙が貼られた壁には、機能的なカレンダーと埋め込み型の液晶モニタ、何故かアナログな壁掛け時計。新一が先ほどまで寝ていたのは簡素かつ丈夫で軋む音ひとつ立てないパイプベッド。ベッドの脇にあるパイプ椅子は先ほどまで快斗が座っていたのか、足元にブランケットが蟠っている。
ホテル、というには少々簡素すぎ、誰かの居室、とするには生活感が無さ過ぎる。適度に人の使用感が滲んで、適度に個性が付くほど使用されていない部屋に思い当たる節はなく、首を傾げながら新一はベッドの傍らに立つ快斗に顔を向けて首を傾げた。
「ん、INP極東支部の宿直用仮眠室」
「は?」
予想外の単語に鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする新一の様子に気付いているのか気付いていないのか、快斗はそう、と肯定の意思を返して言葉を続ける。
「今の『工藤新一』を位置するなら、此処が一番安全だったんだよ。
名探偵が物理的やった事に対する司法の手は、現状を知らない限りはそう簡単には伸びないし、ネットワーク上でやった多少の事は此処の権限なら強引にでも誤魔化せるし。
あ、この中は後で詳しく案内するね」
「ちょっと待て、オマエ…INPには協力してただけじゃなかったのか?」
「ああ…そっちは趣味のバイト。俺の本業はバイトに仕事を出す方」
そこではじめて新一は、ふわりと笑う快斗の服装の違和感に気付く。
無造作に羽織った黒のフリースパーカーは、気楽かつカジュアルで昨夜の服装の印象を払拭するものではなかったが、その下の服装は大きく異なる。
ぬめるような光沢を持つ特殊素材で織られた生地をベースに、艶消しの銀色で縁取られた上衣は膝丈まであるミドルコートタイプ。詰まった襟に印字されたINP-FNのプリントと、緩く取られた袖口の折り返しから覗く白はきちんとプレスされたワイシャツのそれ。
左胸に下げられたIDカードにK・A・KUROBAの名前と、彼の所属を示す襟口と同じINP-FNの文字が印字されており、その横で硬質な表情で此方を見る快斗の写真が貼り付けられていた。
それは、すなわち。
「インターナショナル・ネットワーク・ポリス第伍階梯:極北支部管理官代行、黒羽快斗。それが俺の本当の仕事だよ」
「…詐欺だ…!!」
ぽかん、と口を開けて快斗の言葉を反芻しかけたのも一瞬の事、次いでがっくりと肩を落として新一は呟く。
詐欺って何さ、俺は嘘は言ってないと反論する快斗の口を無理矢理その手で塞いで、溜息をひとつ。
予想出来ない事実ではなかったはずだが、新一の慎重な未来予測からこの事態はぽろりと抜け落ちていた。こんなに驚いた事は早々無い、と自身の不甲斐なさを嘆きつつ相手の非常識に憤り、非常に疲れた気分で顔を上げる。
「もー、訳わかんねえ…オマエは詐欺だし、変な奴は人の中まで入って来るし」
「…は!?」
何気なく呟いた新一の言葉に、過剰反応ではといえる様子で快斗は笑みを崩して新一の肩をがしりと掴む。何なんだこの反応は何なんだ、俺何かしたか、と自問自答を繰り返す新一の動揺を他所に、快斗は酷く真剣な眼差しを向け、低い声で問う。
「し、新一…。ひょっとして、アイツに会った?」
アイツって誰だ。
代名詞で聞かれてもわかるか、と言い返そうとして、視界を過ぎる白い色にぎょっとする。唐突に思い浮かんだのは白い電脳奇術師の姿だったが、新一の予想を裏切るように、ふわりと宙に舞う白はよれた白衣の白。
悪戯っぽく笑うその顔には、確かに見覚えがあった。あったが、こんなところでこんな風に見るべきものではないはずだ。
ぱかり、と顎を落として口を開く新一と、こめかみに手を当てて痛みを堪えるように眉を寄せる快斗。
そして、にこぱーっ、と全開の笑顔で宙に浮いた白衣姿の青年は、それはそれは楽しそうに眼下で固まる二人の少年を見渡していた。
つづく。
2005.04.25.
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