07
こめかみに手を当てて眉根を寄せる、黒衣の極北管理官代理と。
かぱーっ、と顎を落として呆気に取られる蒼瞳の名探偵と。
悪戯っぽく無邪気に笑う、爪先が宙に浮いた白衣の青年と。
「…コレは何の冗談だ」
「や、それは…俺に聞かれても答えようがないというか」
あんぐりと口を空いたまま震える唇で紡がれた名探偵の言葉に、ふるふると軽く頭を振って白の魔術師は視線を逸す。
そして、その原因とも言うべきふよふよと浮いたままの白衣の青年は、くすりと唇を吊り上げて部屋の片隅のプロジェクタを指し示した。
「ホログラフィだよ。
この姿は、一時的に視覚に認識可能なグラフィックを形成しているだけ。僕という存在の中枢は極東支部の中枢領域の演算ユニットに常駐しているからね」
すい、と伸ばした彼の指先が壁に触れると、ちかちかと光を乱反射してすかりと壁を通り抜けるかのように消え去る。成る程、どうやらこの存在はINPの十八番であるところの『自律可動式AI』であるらしい。
あらゆる制約を受けず、電子の魂すら持つといわれる傑作パーソナリティ・プログラムを目の当たりにして、けれども新一は側頭部に走る頭痛を自覚せざるを得なかった。
「…俺が聞いてるのはそーゆーことじゃねえんだけど?」
「あはは、極東支部は僕の家みたいなもんだからね、其処にある電子機器は大体僕の意思によって融通は利くんだよ。…それこそ」
ぱちん、と部屋の天井近くを浮遊するホログラフィが鳴るはずもない指を鳴らすのと。
ふっと部屋全体の照明機器が唐突に稼動を停止するのと。
唐突な行いに新一が目を見開くのと、快斗が額に手を当てて俯いた、それらは全てほぼ同時の事だった。
「…こんなふうに、ね?」
にい、と悪戯っぽい笑みを刻んだセイ・レイ=トゥエルフスの意図をどうにも掴めぬまま顔を見合わせ、ぎっ、とこちらを睨みつける名探偵とああまた面倒な、とでも言いたげに視線を斜め下に泳がす魔術師。
どうにも見事な線対称と言わざるを得ず、くすくすと零れる笑みをそのままに、それでも己の根幹を成す、かつて電脳調律師が組み上げた命題に従って意識を広げる。
0と1の羅列する、単純明快にして複雑怪奇な電脳領域を泳ぐ存在。
その一員としてセイ・レイに与えられた力は決して小さなものではなく、この玩具の城の構築者亡き今全域を掌握していると言っても過言ではない。
声もなく、ただその意思だけでINP極東支部を把握するAIは、僅かに目を細めてその腕を持ち上げた。
ひとつ、またひとつと。
ぱらぱらと部屋中に広がるホログラフィック・スクリーン。無数のそれらに一つたりとも重なる事無く、あらゆる情報が流れて増殖してゆく。電子の言語で記述された言の葉は、こんな場所で無造作にばら撒かれる類のものではない。
電脳調律師、或いは世界律の終焉と呼ばれた存在、その御柱の不壊原典とも呼ぶべきこの電子の言の葉こそ、間違いなく。
「『妖精の薄羽』…!?」
「あ?」
血の気を引かせて叫ぶ快斗に、事態を理解出来ない新一が首を傾げる。
妖精の薄羽。
それはかつて新一が、研究所で何度も聞かされた言葉だった。
研究員たちの口ぶりから、その言葉は現在過去未来を同一に視認するこの双眸を差す言葉だと、そう認識していたのだけれど。
「流石は『北海の賢者』の継承者『リトル・ウィズ』。そうだよ、正解だ。
これこそ、既に四捨五入すれば一世紀を数えようというのに『彼』の死後は誰も読み解く事のなかった電脳寓話」
幻像の腕が踊る。纏わり付くのは…あの、虹色。
酷くなる頭痛にこめかみを押さえ、新一は部屋に広がる虹色を見つめる。
…そうだ、俺はアレを知っている。
「『ディジタル・ワールド・エンド』。
…そして、その終焉を迎えるものを決定するのは、その名を持つものだけ」
セイ・レイの、蒼い双眸がひたりと此方を見据える。
ずきずきと広がる苦痛に歯を食いしばり、それを見返す新一の双眸もまた、蒼い。
自分の内的世界の只中で出会った事が夢でもなく、また幻影でもないのなら、再び此処に現れたこのAIの言葉と行動は、全て意味あるものであるはずだ。
見極めろ、と自分に言い聞かせ、痛む頭を意思で捻じ伏せ右手を振り払うと、たったそれだけの動作で新一の表層部位から深層に至るまで食い込んだ微小機械は忠実に役目を果たす。
其処に何も無い事を示す空間測定値。セイ・レイの言葉が嘘で無い事を証明する電力消費量と司令経路。そして、この部屋中に広がった図形と文字と彩色パターン。
いっそ、嘘だった方がマシだったかも知れない。
視線を落とした新一の、その手のひらに蟠る色。
舌打ちせんばかりに苛立ちを誘うその色は、形容しづらい虹色をしていた。
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緩く渦巻く虹色を手のひらに纏わり付かせ、新一はぎゅうと眉根を寄せて己のそれを見る。視線につられてそれを覗き込んだ快斗も、ぎょっとした様子でそれを覗き込んだ。
鈍く光る七色の光の粒たちは、恐らくは現実世界の映像として為されるものではないはずだが、特殊構造をしている新一の脳はそれを仮想現実として認識し、常にネットワークとリンクしている快斗の精神は多重現実として認識する。
「…妖精の、薄羽」
ぽつり、と呟いた新一の声に呼応するように、ふわりと浮き上がる虹色。それが何を為し何を可能とするのか、たったそれだけで理解する自分を新一は心の底から呪った。
世界律の終焉。彼方と此方、あらゆる現実と仮想を紡ぐ不壊原典。
既にあれほど新一を苛んだ頭痛は欠片もない。その代わりに、脳内に構築されていたナノマシン・ネットワークが更に複雑化した事を自覚して舌打ちを抑え切れなかった。どうやら、あの頭痛はこの正体不明のプログラムを制御しうる自身を構築する
こんなものを作り上げた人間は、それだけで脅威に値する。まじまじと虹色の幻影に見入る新一の傍らで、薄っすらと笑みを刷いたセイ・レイが囁く。
「そう、現在に至るまで最強無敵の名を冠したまま誰にも読み解かれる事のなかった電脳寓話。その発動にあらゆる制約を受けず、INPの権限、その根幹とも言うべき特殊上位回線を制御するインジェクション・キー。
彼方と此方、あらゆるものを紡ぎだし破壊する、可能性の一欠けらだ。
いいかい…それらのすべてが」
広げた手のひらの中、揺れる虹色。
君の手の中にある、と告げる声。機械で合成されたものとしてはあまりに情感と息遣いすら模倣した、リアリティ溢れるものだった。
新一の手のひらのそれに幻影の手を重ねて、相似した蒼の双眸で此方を見るAIと、それを見据えるマシーナリィ・ヒューマノイド。傍らで事態を見守るデザイナーズ・チャイルド。
冗談のような組み合わせだ、と嗤った自分を自覚しながら、新一はゆっくりと目を閉じた。
あの脆い、けれども長く自身を束縛していた檻はもうない。
手には強靭な猛禽の翼が戻り、足の向く先を決めるのは自分自身。煩わしい監視の眼も何処にも在りはせず、不本意な偽りを纏う必要もない。
何の意図でこのAIが、こんな重要なものをほいと渡してきたのかは知らないが、それに乗ってみるのも面白そうだ。
「…いいぜ」
伏せた眼差しを上げた時、そこに宿るのは挑発的な笑顔。
「オマエ等の思惑に乗ってやるよ。その後に何があっても文句は受け付けないぜ?」
何処までも真実を射抜くような視線にも、満足そうに頷くセイ・レイの笑顔は正直気に障らないでもなかったが、それ以上に。
こんな面白そうな事に乗らなかったら、今後絶対に悔やむだろう自分を、工藤新一はよく知っていた。
ゆるり、と目の前の宙に浮かんだままの幻影が、丁重な仕草で腰を折る。
ネットワークの海を渡る自由気侭なはずのAIが、上のものへと向ける最上礼で以って新一を遇し、薄く開かれた唇から現状を決定付ける単語が零れ落ちる。
「…イエス、マイ・マスタ。
NPFE code:Hi-Pelion『スゥ・エィイ・レイ』、以後貴方の手となり足となり働きましょう」
どこか芝居がかった仕草で腰を折るホログラフィと、無感動な様子でそれを受ける新一。ちりちりとノイズを走らせ、瞬きする間にセイ・レイの姿も新一の手のひらの虹色も、あっけなく霧散する。
けれど繰り広げられた光景を見つめていた快斗の目には、かつて己も通った過去が鮮やかに蘇っていた。
それしか、自分には選択肢はなかった。彼の手を取り、彼等の庇護の元にあるしか『黒羽快斗』の人格と生命を永らえさせる術はなかった。
とはいえ、自分で選んだ未来を後悔なんて欠片もしてはいないけれど。それでも、今まで出生と特殊能力故に籠の鳥を強いられ続けた工藤新一には、他にも選べる未来はあるはずなのに。
その躊躇を残したまま、おずおずと快斗は傍らの新一へと視線を向けて、問いかけた。
「…いいの?新一」
「ああ」
ちらりと横目で此方を伺いながら問われる快斗の言葉に、けれど新一は二つ返事で頷いた。含まれる意味が多分に複雑な問いである事は無知な新一にも十二分にわかっていたが、それ以上に。
こんなドキドキする事も、ワクワクする事もあの檻の中ではついぞなかった。
生きているのか死んでいるのかもわからないあんな状態に逆戻りするくらいなら、後先見えない状況に飛び込んでみるのも悪くない。
そうでなくては『最深の蒼』、『名探偵』の名前が廃るというものだ。
そんな新一の思考回路が想像できたのか、悪戯っ子の笑みを浮かべる新一に呆れたように肩を竦め、快斗はそっと頬から額の生え際へと指を伸ばした。
「いや…物凄くめーたんてーらしいけどね」
「そうだろう?」
呆れたように、けれども楽しそうにこつりと額を併せてくる快斗の体温と、皮膚に触れる柔らかな癖毛のくすぐったさに喉を鳴らして唇を綻ばせる。
他人との接触はあまり好きではないはずだったのに、この手を拒む、という選択肢はもはや新一の中にはない。
現状を決めてしまうのは、ひどく簡単なことだ。今の新一は何ひとつ持たず、この大して親しくもないはずの彼しか拠って立つ場所がないのだから。根無し草のように流されて生きてゆくのも可能だっただろうが、それでも新一は確かに快斗の傍に居心地の良さを覚えてしまった。
だとしたら、それを持続させるための努力はしても構わない。選択肢ひとつでそれが為されるのなら、躊躇う理由すら見つからない。
見慣れぬ黒い制服を纏った快斗の肩に顔を埋めて、そっと蒼の双眸を閉じる。
他人の思惑に乗るのは気が乗らないけれども、きっと。
この選択肢は間違ってなんかいない。
「だって、俺とおまえとさ」
手を重ねる。触れ合う感触は優しい人肌。
新一も快斗も、純粋な意味では既に人類とは呼べないかもしれない。いつまでたっても社会に迎合できない、異分子であり続けるかも知れない。
それは歴史が証明するかのように、生き急いで逝ってしまった電脳調律師の人生こそが示している。けれど。
それがシアワセでないなんて、誰が決めた?
ぎゅっ、とナノマシンコードが侵食した濃紺の幾何学模様が浮き出た手で快斗のそれを握って、新一はけれども、自信満々に宣誓する。
「二人揃ったら、何があったって無敵だよな?」
ぱちくりと目を瞬かせた快斗も、一瞬後に彼の言葉を噛み締めて強く頷いた。握り返す手のひらの熱も、徐々に馴染んで心地よく染み渡る。
「ちょっと、新一さん、最高かも…!
ああもう、そんな事言われたら俺、どこまでだって一緒に行っちゃうよ?」
「おう、任せろ。何処までだって一緒に行ってやる」
「やーもーホントに大好き…!」
手だけでは飽き足らず、ぎゅっと全身で抱きつく快斗の背中に新一もまた手を伸ばす。かちりとはまり込むようにしっくりとくる体温も気配も、慣れないようでいて既に違和感は何処にもない。
たったひとりのまま生きてきて、この存在に出会った奇跡。
この先ずっと走っていく傍らにコイツが居るのなら、きっとどこまでだって行けるだろう。
「一緒、だよな?」
「一緒だよ」
互いの肩口に額を預け、その暖かさと重みに覚える幸福。
どこまでだって一緒に行こう、と言葉には出さずに頷きあって、二人視線を合わせて楽しそうに笑い出した。
鳥籠はもうない。
鎖は錆び付いて用を成さず、
監視する目は盲いた。
君の手を取る僕の手は、きっといつまでだって離れやしない。
わくわくどきどきする未来に向けて、二人揃ってようやくスタート地点に立ったのだと。
確認するかのように触れ合わせた唇は、やはり温かくて柔らかかった。
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『相変わらず無茶苦茶するなあ…。ま、俺は新一のそーゆートコも好きだけど』
「言ってろ、バ快斗」
ハンズフリーに設定した子機から零れる押し殺した笑い声に、思わず眉根を寄せて通話を切り、放り投げたままの上着を手に取った。
目の覚めるように蒼いそれは、色こそ違えど通話先の相手のそれとまったく同じものだ。
朝食代わりの栄養補助食品のスティックに齧りついたまま、些か乱暴な仕草でそれを羽織る。見た目の割に着心地が良い事に、数年前はいたく感心したものだが今となっては着慣れすぎてあまり感慨はない。
脳内と目の前のスクリーングラスに転写され、凄まじい速度で流れてゆく情報を目で追いながら、袖を通し終えた右手で咥えたままのスティックをもぎ取り、空いた左手で空間を撫でるように広げる。
触れた端から何も無い空間に、ホログラム入力ユニットの幻像が広がる。上着の合わせも留めぬまま、舌打ちひとつを落として通信回線を立ち上げる。
「…状況は!」
モニタに映るのはやや不明瞭なコントロール・ルームを背景に、通信オペレータの硬い表情。よく通る声がスピーカー越しに震えて響き、新一の求める情報を簡潔明瞭に告げてくる。
『C−204EからDまでシャットダウン、メイン領域の復帰までシステム課の試算は3分28秒です』
「遅い、2分でカタを付けろ。セキュリティ・ベースの構築終了後、第弐級非常警報を発令。以後の全指揮権を極東管理官より担当各部署に移行」
『…管理官!?』
慌てたようなオペレータとの通信を瞬き一つで切り離し、ナノマシンコードが這い回る腕をゆるりと揮う。
まるでオーケストラの指揮でもするかのような手付きで操るのは、この『極東支部』の全てのオフェンシブ・システム。
SCSの介入を脳内領域に確認するとほぼ同時に、乖離した部分意識はいとも容易く現実世界を離れ仮想現実区域へと降り立つ。
纏う蒼も射抜く瞳の蒼もそのままに、何ひとつ偽らず降り立った新一の視線の先で、白を纏った電脳奇術師が藍色の瞳を和ませゆっくりと腰を折る。
さらりと流れるマントの動きひとつとっても違和感の欠片もない、優雅さを形と成したようなその存在こそが、新一を此処へと誘う切欠だった。
「…行きましょうか、『名探偵』」
「ああ、行こうぜ『魔術師』サン?」
手を取る白い手袋越しにも伝わる幻の体温に、工藤新一は絶える事のないどきどきとわくわくを今も感じる。
何処まで行こうか?
君と一緒なら何処へでも。
だってもう此処に鳥籠はないから、何処へだって行けるだろう。
この一歩が百年の旅路に繋がっても、僕等は後悔なんてしない。
君が僕の傍らに居る限りは、
君と走り続ける幸福を、噛み締め続けるだろう。
未来、へと。
おわり。
2005.04.30.
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