immortal mind





File.3 eyes

「…特定の患者に思い入れるのは、危険だと思うか?」
「は?」
 するり、と薄青いYシャツを肩から落としながら、唐突に犬飼が猿野に問う。
 零病棟の医師は基本的には皆職員寮住まいであり、それは最古株の猿野とて新入りの犬飼とて変わることはない。多少造りの良いマンション、といった風情の職員寮だから、当然その部屋の作りも大抵同じようなものだ。
 インテリアや各人の趣味によって多少の差異は出るのだろうが、それでも画一性は拭い難い。目の前の相手と『こういう関係』にもつれ込んで他人の部屋に出入りする日常を得た犬飼の、それは率直な感想だった。
 猿野の私室は、よく言えばシンプルで機能的、悪く言えば独創性と個性に欠ける部屋だ。
強いて特異なものと言えば、書斎に使っている部屋の机周りに積み上げられた専門書類と、その壁一面にこれでもかと押しピンで留められた殴り書きの紙片くらいか。
その、個性に欠けるシンプルなグレイのソファにどっかりと我が物顔で腰を下ろしながら、ぽかんと質問の意図が掴めずにネクタイに手をかけたままの猿野の呆けた様子に焦れてその手を引いた。
「お、わっ!」
「何呆けてやがる、さっさと答えろよ」
 ぐらり、と傾いだそれを引き寄せようと腕の力を強めるが、我に返った猿野が踏み止まり理性の光を瞳に戻す方が早い。ぱしり、と悪戯をする子供を嗜める母親のような仕草で犬飼の腕を払うと、きろりと半眼でねめつけてくる。
「油断も隙もあったもんじゃねえな、この駄犬は…」
 ぶつぶつと文句を口にしながら、しゅるりと濃紺のネクタイを引き抜く。ぱさりとソファの上に落ちたそれを目で追う合間にも問いの答えを求めてじっと猿野の顔を凝視する後輩兼恋人の様子に、根負けしたように目を伏せる。
わかったよ、と一言呟いて、猿野は犬飼が座した横にどかりと腰をおろした。
「…患者に、思い入れるのか危険か、だって?」
「ああ」
「んなもん聞くまでもねえことだろ?」
 ふと普段の柔らかい陽光にも似た茶の瞳が細められ、冷たさを含んで床を見据える。フローリングのその硬質な印象にも似ている眼差しにただただ次の言葉を待つしかない犬飼の銀色の髪をくしゃりと撫でて、猿野は囁くように決定的な一言を投下する。
「危険どころじゃねえよ。或いはソイツの医者としての根幹を揺るがしかねない。死病に関わる医者は皆そうだが、ウチみてえな場所では特にそうだ」
「…それは、過去のおまえか?」
 おそるおそる、といった様子で尋ねられた言葉に苦笑を零して猿野は首を傾げる。
「否定はしねえよ、ここンとこに消えない傷を作ったのは俺だ」
 とん、と己の胸を指してみせ、猿野はふと天井を仰ぐ。合わない、合わせない視線は彼の罪悪感の証なのだろう。重ねてきた年月はあまりにちぐはぐで、悟りきったような言動と行動の端々に滲み出る外見そのままの無軌道さが愛おしい。
 あの、赤くて白い記憶は双方の間に変わらず横たわっており、痛みなくしては関係が持続することのない証明でもある。
 愛している、と一言口にするたびに壊れてゆく何かを特定できぬまま、犬飼はそれでも猿野の頬に手を伸ばした。少し乾いた、柔らかいそれは二十代の瑞々しさを保っているのに、其処にある精神は老成した賢人のものというアンバランス。
 少し困ったように笑い、その手に頬を摺り寄せる猿野の仕草は愛玩動物めいて、どきりと心臓を跳ね上げる感触は何度経験しても慣れない。唇を辿る指先に促されるように、僅かに開いたそこに視線が吸い寄せられる。
「それでも傷は癒せる。後悔は、どんな選択肢を選んだってするんだよ」
 言葉の重みは、そのまま彼が重ねてきた年月の重みでもある。膝の上に置かれた己よりもやや高い体温の手のひらの感触に気を取られた隙に、その外科医らしいしなやかな腕がとん、と犬飼の肩を何気なく押した。
「っ…!」
「いっつでもきりきり張り詰めてる割には、相変わらず隙だらけだなぁ」
 とすり、と犬飼の長身がソファに沈む。猿野の膝がその腹に乗り上げそれ以上の身動きを封じられて、犬飼はぎっと目の前の年上の恋人の顔をねめつけた。
「テメエ…何のつもりだ」
「そっちこそ。あんな問いかけ、誰に吹き込まれた?」
「それは…」
 思い返すのは、金色の髪の上司。あの、どこか希薄な表情。
 それほど遠くないはずの過去を太古の物語のように語る彼の言葉は、何故か犬飼の中に沁みた。患者に対して多分彼も自分も『彼ら』よりは冷淡だ。それほどの思い入れをして振り返る事が可能な強さが己にない事くらい、誰よりも自分たちが良く知っている。それゆえの無関心、そして義務的な日々の職務。
 けれど、だからこそ、『彼ら』に届かない己を知る。それが、痛みの原因であり根幹。
「…牛尾サンか、あの人も辛いな。振り切っちまえば楽になれるのに、それが唯一だったから身動きが取れやしない」
 何がしかの過去を知るだろう猿野の言葉に揺れ動くのは、おそるらくは嫉妬。
 唇を湿らせるようにひらめいた赤に噛みつくように口付けると、苦笑の形に唇をゆがめたまま猿野は子供に言い聞かせるように穏やかに囁いた。
「拗ねるなよ…それでもオマエはまだマシなんだ。置いていかれるのは俺で、おまえじゃない」
 ぞくり、と背筋を何かが駆け下りる。
 嫌だ、と呟いた言葉は音にならずに喉で凝る。宥めるように犬飼の固い銀色の髪を撫で梳く指先は優しく、暖かさに満ちているのにその端から冷えてゆく何かがある。ここにあるもののすべてを無に還す、それは絶対定義の免罪符。
「…何を」
「覆しようがねえことだ。俺を置いておまえは死ぬ。それが近い未来か遠い未来なのかは俺にもわからないが」
 それは、猿野にとっては既に確定している未来としてこの関係を始めた時から覚悟していた事だったが、犬飼にとっては違ったようだ。否、わかってはいたが理解しきれていなかったというべきか。
 ぐい、と犬飼の青いアンダーシャツの襟を掴む。引き寄せる強さに抗おうとする力を上手く封じて、まるで獣を躾ける時に言い聞かせるが如く低い声で呟く。
「…理解しろよ、『犬飼冥(マンカインド・アウトサイド)』」
 ぎりぎりと食い合うように激しい視線の応酬の中で、逸らされない茶水晶とオレンジ色のそれはとても色艶事を交わす仲とは思えぬほどに切れ味を増す。どくどくと早くなる鼓動は情動や欲の為ではなく、更に本能的な生存欲によるものだった。
 食うか食われるか。人間が人間としてあるための理性的な人格を凌駕する、どうしようもない現実として。
「オマエは、俺を置いていくんだ」
 頬を伝う涙は悲しみというよりも痛みの為だ。
 その痛みが何に由来するのか、二人ともに見ないふりをしている。そうでなくてはこれから先、生きていくことすら危うい事を本能的に知覚するからだ。
 互いの涙をぬぐう指先に互いに口付け、祈るように目を閉じる。
 何処へも行けない自分たちの終着点は『破滅』しかない事を知りながら、この刹那の夢に縋るように生きている。

 或いは、まだ見えない明日への片道切符として。


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 知り合ったのは、ほんの偶然だった。
 桜が散る春の校庭の片隅で、入学式を終えたばかりの自分はぼんやりとこれから3年間を過ごす校舎を眺めていた。
 おろしたての学生服は未だ着慣れず、新品の学生カバンの中身は配布されたプリントやら小冊子やら教科書やら、収まりきれずに紙袋まで傍らに転がっている有様だ。
 それでも、希望があったのも事実だ。
 これから先に夢を持っていたのも事実だった。
 青葉と花と、太陽に照らされた土の匂いが微かに漂うその場所で、『彼』と出会った。
『…なあ、何ば見えっと?』
『…え』
 ぼんやりと、銀杏の木に背を預けたまま校舎を眺めていた自分は、唐突にかけられた声に戸惑って振り返る。その先には、やや癖の強い赤毛の少年がにこにこと微笑みながら立っていた。
『なあ、何ば見えっと?よかもんでもあるとね?』
『あ…いや、別に』
 訛りの強い方言に更に困惑しながら、まじまじと目の前の少年を見据える。
 けれども、少年はそんな不躾な視線にもひるむ事無く笑顔を絶やさず、どこか人懐っこい仕草でポケットから取り出した何かを自分の前に差し出した。
『…食う?』
 少年の手のひらの上に転がっていたのは、幾つかのキャンディ。ピンクの包み紙のそれは可愛らしくて少年にも自分にもギャップを感じたが、にこにこと笑う少年の笑顔に釣られるように手に取った。
『あ…ああ』
 包み紙を剥いて、口の中に放り込んだそれは甘酸っぱいイチゴ味。舌先に残る甘さは嫌味ではなかったが、それでも口中に消えない甘さを残してゆく。
 しばし無言で二人飴を含んで校舎を眺めていたが、そのどこか楽しげな少年の様子におもわず口からするりと言葉が零れる。
『…虎鉄、大河』
『ん?』
 くるり、とこちらを振り向く少年に自分の名前だ、と告げると、それは晴れやかに笑った。
 少年の口から彼の名前を聞いて、その日のうちに二人は『友人』になり、一ヶ月も経たないうちに『親友』になった。
 そしてそれは。
 虎鉄大河が親の都合で外国へと留学するまで続いた友情だった。


「…馬鹿みてえだRo?」
 自嘲めいた響きの言葉を紡いで、虎鉄は僅かに目を伏せる。
 それでもその手が一分の狂いもなく所定の動作を続けるのは、慣れと経験の成せる業か。規定量をきっちりと計測して作成してゆく麻酔弾は、この病棟の多くの医師の命綱となるべきものだからか。
「俺はあっちに渡って、向こうに慣れるのに必死で…こっちの事は全てないがしろにした。最初の頃は交わしていた手紙も面倒になって数が減り、しまいには出さなくなった」
 かちん、とガラスが触れ合う硬質な音が響く。
 ビーカーの中で化学反応を起こしている液剤の色が薄い青から透明へと変化していくのを注意深く観察しながら、それでも虎鉄は語る言葉を止めない。いや、止められないのかも知れなかった。
「…そのうち俺は『変異』を起こした。体中が引き千切れるかと思うような痛みにケダモノじみた叫びを上げて、狂ったみたいにのたうち回って、気付いたら病院のベッドの上だった。
そうして、目を覚ました俺に担当だった黒人の医者は実にシンプルに状況を伝えてくれた」
 『人類規格外品(マンカインド・アウトサイド)』。
 ヒトから発生する、ヒトでないもの。世界のリンクの外側に位置する、連鎖性のない特異点(アウトサイドケース)。
「二度とヒトとしての人生は望めないだろうと言われた。ヒトの社会に適応しヒトに擬態する事は出来ても、根本的なところでヒトと相容れないだろうと…まあ、真実だったけどNa」
 反応を終えた薬液を遠心分離機にかけながら、特殊プラスチック製の銃弾本体を充填機にセットする。薬剤の分量と配合さえ間違わなければ、後は勝手に機械がやってくれるだろう。ふう、と溜息のような吐息をひとつ落として、虎鉄は麻酔科へと所用で訪れていた犬飼に向けて薄く微笑んで見せる。
「そうして俺は何もかも捨てた。おぼろげだったミュージシャンの夢も、付き合っていた彼女も、微温湯みたいな家族も何もかも捨てた。その残り滓で医者になって、気付いたらこんな場所にいたってわけDa。おまえさんの方が、何倍かマシだRo?」
「…比べるモンでも、ねェと思いますが」
「ま、そりゃそうだNa」
 ことり、とかすかな音をたててアンプルを棚に戻してゆく。三重のロックを棚にかけて、虎鉄は犬飼の尤もな回答に盛大に笑った。意味が分からないながらも気分を害した様子の後輩に、悪いと謝りながらも声が震える。
 だって、これほど可笑しい事があるだろうか。
「そうやって捨ててきたはずなのに、それでも俺はアイツを死なせたくないと思ってるんDa。どうにかならないだろうかと、どうにもならない事を一番良く知っているはずの俺が考えている。
…なあ、こんな可笑しい事が、他にあるKa?」
「それは…」
 滑稽といえば、滑稽な事だろう。けれどもその真逆に、どうしようもなく切実な願いである事も理解できてしまうから犬飼は口を噤むことしか出来なかった。
 この、陽気で前向きで軽い先輩の、これほどまでに悲痛な声を聞く事になるとは思いもしなかった。だからこそ、ここで気の利いた言葉のひとつもかけられる存在でない己を痛感する。無力な、何も出来ない自分たち。
「…誰も、悪くはないのにNa」
 誰一人として、責められるべき存在はいない。
 患者に何もしてやれない、患者を救えない医師の苦悩はこの無手の現状では覆せない現在。
 己の命を購う事が出来ない患者の悲哀は、誰もが強くない事を指し示す未来。
 そして、たったひとりで過ぎ行く時間を見据える『到達者』の絶望を孕んだ過去。
 あらゆるものが加速度的に不幸と退廃と絶望に絡め取りながら、それでも巻き戻せない時間だけは均等に過ぎてゆく。いずれ、虎鉄も犬飼もその時間の果てに死に絶える。それは、生命である以上抗えない現実だ。
 唇を噛む痛みは自分すら救えず、誤魔化せるほどの効力を失って久しい。
「おまえさんは…どうするんだろうNa」
 犬飼がこの麻酔科を訪れた主目的だった予備の銃弾を収めたケースをその手のひらに落とし、虎鉄は窓の外を見る。
 あの、春の日と変わらぬ空の色は青。
 けれどもここにあるべき想いと現実は随分と変質してしまったことを嘆くように、うっすらと虎鉄は似合わぬ苦笑をその唇に浮かべた。


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「センセイにも、怖い事ばあっとね?」
「けっこーヒドイ云われ様ですね、俺にも、って。世の中なんて生きてれば怖い事だらけですよ」
 病棟内の喫茶スペースで偶然に出くわした患者の言葉に、猿野は困ったようにそのぼさぼさの茶けた髪をかき回した。
 にこにこと笑いながらこちらに問いかけてくる青年の顔には覚えがある。麻酔科の虎鉄が異様に気に掛けていた患者…確か、猪里といったか。
 何処かで見たような濁りのない笑顔は、患者がするには少々違和感がある。
けれどそれを突き詰めて考える事はせず、パジャマ代わりのグレイのスウェット姿で新聞を広げる青年の斜め向かいに腰を下ろして、先ほど買い込んできたばかりのパックコーヒーの容器にストローを差し込んだ。
 ああそういやこのコーヒーとは名ばかりの牛乳製品、アイツが好きだったなあとぼんやりと考えながらそれを啜る猿野に投げかけられた問いが、前述のそれだ。
 少々面食らいはしたが、その揺らぎの少ない笑顔に彼の覚悟と悲哀を知る。猿野天国という医者は、知らざるを得ない。
「…怖いですか?」
 どうだろう、と曖昧に笑う青年の顔に覚えた既視感を、漸くの事で思い出す。
 そうだ、こんな眼をした患者は、皆。
「そうでしょーね、あなたが怖いのは死でも苦痛でも別離でもない。…あなたが恐れてるのはたったひとつだけでしょうから」
 ぴくり、と猪里の笑みが固まった。
 すう、と笑みが引いた表情の中でただひとつ、瞳の光だけが冷えて猿野へと向けられる。けれども齢を重ねた老爺の如き青年医師の外殻には皹一つ入らず、妙に甘ったるいコーヒー飲料をまた一口啜って猿野は淡々と言葉を続けた。
「俺もね、こう見えても結構長生きしてるんで。沢山の患者を看取ってきましたが、時々あなたみたいな眼をしたヒトにも出くわすんですよ。苦しみも悲しみも乗り越えるなり投げ捨てるなりして、たったひとつを決めた眼をしたヒトに」
 無言で此方を見据える猪里の瞳は窮屈でじっとりと締め付けるような強さを持ってはいたが、それでも居心地の悪さを感じるほどでもない。患者として猿野が接している人間の中でも恐らくは理性的な部類に入る存在なのだろう。
「あなたは、もう覚悟している。とっくの昔に腹が据わってる、死ぬ事なんて恐れちゃいない。
家族も将来も夢も何もかも、とっくに諦めてるでしょ。あなたが欲しいのはそんなものじゃない」
「…センセイは怖か人とね」
 ぽつり、と零された言葉と共に、困ったような笑みを浮かべ先ほどまでの柔和な患者が戻ってくる。底知れぬものに怯える事もなく、ただ見抜かれた後味の悪さを恥じるように視線を落としながら。
「俺がですか?俺なんて恐れるに足りませんよ、本当に怖いのはそれを知らない連中だ。
それらは…全て、俺にも覚えのある感情ですから」
 たったひとり。
 そうなってしまった事はあくまで副次的なものだ。
 誰もが彼と同じ道を辿る事が出来るのに、彼の次は現れなかった。だからこそ、猿野天国は、『到達者』はたったひとりで居続ける。その孤独の最中に求めてしまった『規格外』の青年が、ひょっとしたら更なる悲哀を齎すかも知れなくても。
「ヒトは、どこまでも孤独を恐れる生き物です」
 其処にあるのが恐怖だからこそ、誰もが誰かに依存する事でようやく生きている。そこにある痛みも苦しみも、その上での必要最低限だと今の猿野はよく知っている。

 『あの瞬間』、嫌だと理屈でなく揺れ動いた。

 己の目の前で重度変異患者(デミ・ミュータント)に腹を裂かれ、肩口に噛み付かれた後輩の姿にざあと血の気が引くのを感じた。かつて、偽善と自己保身の為に呟いた言葉の繰り返しを求められ、猿野はそこでぷつりと何かの糸が切れたことを知覚した。
 まるで獣の咆哮のように喉から迸る絶叫と、己の手の中で青ざめ、力なく血の海に沈む『規格外品』の青年。がたがたと震える手で施した処置は経験から来る医師としての理性は正しい、それ以外にないものだと告げるのに、無軌道な感情がまた失うのか、これでいいのかとがなりたてるのを止められなかった。
 だからこそ、猿野は知る。
 『到達者』なんて言われていても、ほんの少しの孤独にさえ耐えられない弱い生き物だという事を。
 自分が、ヒトと異なるイキモノにはこの心を持つ限り無理だろう事を。
「…俺が出来ることなんてたかが知れています。同様に、虎鉄サンに出来ることにも限りはあります。
あなたの願いは、それを越えられますか?」
 眼を伏せ、指を組み、猿野は目の前の第一階梯患者(ファーストステージ・クランケ)を見る。未だその外見はヒトのそれを逸脱する事はなく、おそるらくは死も遠いだろう。けれど。
 猿野が辿ったその道筋を、辿れなければ…否、辿ったとしても待ち受けるのは別離の未来だ。
 その覚悟があるのかと言外に問うた医者の言葉に、けれども患者は薄く微笑む。

 ゆっくりとその首が縦に振られるのを、猿野は痛みとも喜びともつかぬ感情のまま見据える事しか出来なかった。

 
 
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2005.05.18. Erika Kuga