immortal mind





Last.file phycologic

「虎鉄」
「…猪里」
 あの日と変わらぬ青い空。
 変わったのは互いの立場と、想いと、それから。
「なあ、何ば見えっと?」
「…そうだNa」
 未来に限りがあるなどと、信じられなかったあの頃の自分たち。
 何もかも捨て去る事など考えもしなかった自分たち。
 けれども、既にここにあるものしか残されていないのなら、決別も必要悪だと断じるだろう。
「空が…青いと思ってNa」
「…そうか」
 視線の先には今日も晴れた空。変わらぬ青と雲の白。
 変わってしまったのは、多分。
「…いくなよ」
 何処にもいくな、と虎鉄が呟く。いかないよ、と猪里が笑う。
 そっと触れた手のひらの感触は、あの頃よりもずっと成長した男のそれだったけれど、あたたかい温もりだけは変わらない。
 綺麗な思い出ばかりの過去を互いの胸に仕舞いこんで、ふたり、ただ静かに空を仰いだ。


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 がちゃり、と屋上に通じる鉄製のドアを開けると、其処には既に先客があった。ごくごく弱い風に紫煙を立ち上らせながら、覚えのある匂いに思わず零れるのは苦笑。
 此方に気付いたのか、振り向いた銀色の髪の後輩医師の視線。射抜くような強さを持ちながら、若さゆえに荒削りなそれは未だ猿野の中枢に食い込む事はないのが救いだった。
 双方共に傷を負う未来を確定しながら、それでも別れられないのはどちらにも共通する我が儘だ。それを知るからこそ、猿野はそのまま足を進め犬飼の元へと歩み寄る。
「よォ、オマエも休憩かよ?」
「あァ」
 マルボロの、独特の香りのする煙に眼を細め、猿野は己もまたポケットに突っ込んだままのマイルドセブンのソフトケースを手に取った。残りが半数まで減ったそれはややくしゃりと歪んでおり、そこから一本を取り出すのも難儀する。それでもようやく取り出したそれを口に咥えたまま今度はライターを探してポケットを探ろうと両のそれに手を突っ込むと、無言のまま犬飼の無骨な手が百円ライターを差し出してくる。
「…ん」
 かちり、とかすかな発火音と共に発生する炎に煙草の先をかざし、火を点ける。点火を確認して顔を離し、一息に煙を吸い込むと肺一杯に充満する煙草の匂いと酩酊感に、じわりと瞼を閉じた。
 書きかけの論文はそのままで、相変わらず患者は死んでゆく。医者が減るのも増えるのも慣れたものだというのに、この男と出会ってからそれは色合いをより濃くしたように思う。
 擦れ違うだけのものに思い入れるのは危険だと、告げた端から己が裏切る。その現実は滑稽で、けれども『ヒト』ならばそれもいいだろうと薄く笑んだ。
「…何笑ってやがる」
「べぇっつにー」
 何でもねぇよ、と笑う笑顔に、曇りがなければいいと思う。
 この手が何も救えないのは今に始まった事ではないし、この変わらない自分の横を誰もかれもが駆け去るのもいつものこと。
 だからこそ、望まれるのならば叶えてもいいかと思うそれは妥協ではないはずだ。
「なあ、犬飼」
「…なんだよ、猿」
 残り少なくなった煙草の吸殻を律儀にも携帯灰皿に落とし、こちらを不機嫌そうに振り返る犬飼の顔に更に笑みを濃くする。

ああそうだ、コレはもう俺のものだ。

 そう、俺とコイツが定義したなら、コレはもう俺のもので俺はコイツのものだ。
 それがいつまで続くかなんて、考えない方がきっといいんだろう。
 愛とか恋とか、甘ったるい単語で語られる想いではきっとない。けれども、利害や損得だけで生まれた想いでもないのだろう。孤独を紛らわすための手段だったとしても、ここに生まれた感情は偽りではないのだから。
「犬飼」
「だからなんだよ、はっきり言え」
 苛ついたように、詰るような眼差しを此方に向ける青年の、己よりもやや高いその頬に手を伸ばす。さらりと長めの髪が指に絡むのさえ心地よいと感じながら、小さく呟いた言葉は聞き取れなくとも構わない。
 途端に不審に歪む恋人の眉根に、猿野は己の半ばまで短くなった煙草を唇から離し頬に寄せた手を犬飼の首筋へと滑らせ、
引き寄せるように力を込めて犬飼の唇へと己のそれを重ねた。
 己のそれとは異なる煙草の味に、苦味を感じたのは一瞬。交換する唾液に覚える甘さは、きっと錯覚ではないのだろう。
「…好き」
 口内に、くぐもるように響いたその言葉に犬飼の瞳が困惑に揺れる。
 あいしてる、と更に続け、泣きそうな表情へと変化する年若い恋人の体温に目を閉じる。
 泣き出しそうな表情はきっとお互い様だ。この選択肢は、どちらも傷つける結果しか生まない事はわかりきっている。どうしても譲れない一線を踏み越えてしまった自覚に、猿野は犬飼のオレンジ色の瞳を覗き込んで囁く。
「いいよ…もう、いいよ。置いていかれるその最後まで、俺はオマエをあいしてるよ」
 ひょっとしたらその先も、と続く言葉だけは口中に飲み込んで、再びその唇へとくちづける。零れ落ちる吐息と同量の涙は、いつか後悔のそれに変わるかも知れないけれど。
 だからこそせめて、この一瞬のしあわせだけは疑いたくはないのだ。

 何も救えぬ腕と、何も成さぬ身体と、何も残さぬ現実を抱えているのは変わらないけれど。
 それでもまだ、生きている。

「…あいしてるよ」
 涙の気配を色濃く留め、猿野は壊れたスピーカーのようにその言葉を囁く。
 この言葉が救えるものが、互いであればいいと願いを、込めて。

 
 
END

2005.05.18. Erika Kuga