immortal mind





File.02 legs

 零病棟の新規入院患者は、通常の病院のそれより多くもないが少なくもない。
 その発症率は、癌等に比べれば驚くほど低い。飛行機事故に遭う確立とそう変わらないと断言したのは『VIS』を定義する論文を書いた猿野その人であり、それは多数の研究者が多角的に検証を続ける現在でも覆ってはいない。
 けれども、何せ『VIS』患者の受け入れ先は広い世界でこの『零病棟』ひとつきり。
 しかも、ほぼ確実に死に至るそれは、物理的に隔離したところで何の意味も無い、感染経路も発症条件も明らかになってはいない奇病。故に、世界中から患者は集まり、そして日々死んでゆく。
 だから此処には常に血と硝煙と、死の匂いが溢れている。
 それは生命へと繋ぎとめようとする医療従事者の願いを嘲笑うように強く、あまりに濃い。
「…悲しいと、思うかい?」
 どこか儚げに微笑む青年医師の前髪が日に透けて、金色に弾く。さらさらと書類の上を滑るボールペンのインクのかすれた黒に、犬飼は黙って言葉を飲み込んだ。
 何を喋っても偽善にしかならないなら、この口から零れる言葉はひょっとしたら罪悪かも知れない。
 思い詰める、というほど意固地になっているわけでもないし拘っているわけでもないが、うまくない口で現状を打破する言葉を見つけられない言い訳かも知れない。
「うん。…それも、選択だね」
 バイタルサインが完全に停止した事を確認し、手元の書類に最後のサインを書き込む。また一人、こうして黄泉路を辿る患者を見送って、病棟長と研修医は二人ベッドの上の患者を見据える。
 通常ならば、死亡を確認した時点で遺族に引渡し、若しくは葬式等の所要手続きにかかるところだが『零病棟』ではそうはいかない。『VIS』は未だ確定しない病気であり、また死亡時には既に『人間』とは厳密に言えない外見まで変異している事が大半を占め、そういった患者たちは人知れず病棟内で処置される。
 実際、こうして犬飼が見下ろす患者もまた、化け物じみた異形へと変異(ミューティション)を来たしており、たとえ遺族や故人と親しい人間だったとしても区別をつける事は困難だろう。網膜に広がる幾何学模様の刻印は網膜パターンの読み取りを、甲殻化(アーマーブロック)した手足からは指紋・掌紋も消失している。遺伝子(DNA)の欠損と変異は言うまでもなく、彼が彼だと示すべきものは全て失われて、患者の遺族に遺体を引き渡して拒否された事例は過去にいくらでもある。
 既に、此処へと来た時点で彼岸へと足を踏み入れているのだと。そう解釈するのは少しばかり切ない。
「犬飼君は、…慣れると思うかい?」
「いえ…いいえ。アイツがずっと痛いのと同じように、俺たちも痛いのだろうと思います」
 脳裏に浮かぶのは、溌剌とした生命力を宿しながらも何処か希薄な彼の存在。零病棟の最古株である彼の痛みは、きっと重ねられて更に強いものなのだろう。救えない患者の数を数える事は犬飼でさえとうにやめたが、猿野はそれすらも諦めきれずに己の中に囲おうとする。
「…その、痛みを忘れたら、此処にいる資格が無いような…気がして」
「そうかも、知れないね」
 淡々と、遺体を目の前にして繰り広げる会話の異常さは今更だ。此処自体が異常なのを取り繕ってもむなしいだけだろう。ふとどこか遠い目をした牛尾は、病棟長としてのそれとは異なった雰囲気の横顔を犬飼に無防備に晒したまま、小さく呟いた。
「…僕にもそんな時期があったよ。まるで君と猿野君のように毎日怒鳴りあって、喧嘩ばかりで…」
 どこか過去を懐かしむ、柔らかい、けれど痛みを隠す事無く抱えた眼差し。それをなんと表現するのかも分からぬまま、犬飼は彼の名すら呼ぶことが出来ず、ただ真一文字に唇を引き結んで過去を辿る上司の言葉を待つ。
「あの頃、きっと僕はしあわせだった。他の誰が不幸だと言おうと、今の僕よりあの頃の僕の方がしあわせだったんだ」
 犬飼君。
 君は、間違えないようにね、と何処かほろ苦く微笑む彼の眼差しの向かう先。そこに在る己に困惑さえ覚えながら、犬飼はそれでも頷いた。頷くことしか出来なかった。
 羽目殺しの窓から差し込む西日がオレンジ色にカーテンを染め上げるのを茫洋とした瞳で見つめながら。
 あの日の血の色の記憶が拭えない己の存在を、どうしようもなく、知った。
 誰も救えない手なんてない。
 少なくともあのひとの手は俺を救った。
 ここまで『ヒト』を踏み外しても、ただひとりが必要だと言うのなら、喜んで実験動物(モルモット)にだってなるだろう。
 これは、そういう種類の感情。やさしい、あまやかなしあわせとはほど遠い。
 なのに。
「ええ…俺はきっと、今。しあわせなんでしょう」
 この手に触れる熱と。この目に映る相手と。その二つがあるなら、他に何が必要だろうか?
 それすら理解できない、ひょっとしたらしたくないのかも知れない臆病な年上の恋人の事を思い出して、犬飼は思わず唇を吊り上げた。
そう、これが『恋』ではなくても構わない。
「…ちゃんと、しあわせ、ですから」
 間違いだらけの牢獄の中、それでも仮初に見る夢は、甘い。
 甘くて…苦い。
 本能と感情と理性が入り混じる狂気の領域で、自分たちは今日も戦う。明日のない負け戦すら、いつか覆せると信じて。
「…第3階梯(サード・ステージ)の患者は、これで二十七名かい?」
「はい。そのうち重度の変異患者が六名、精神異常を起こし隔離病棟に移した患者が十一名です。双方合わせて危険値まで達しているのが三名。研究室に凍結保管培養槽(フリージング・プラント)の申請、出しますか?」
「いや、それはまだいい。それより事務室に隔離病棟の耐震シャッターの設置箇所を増やすように要望を出す方が先だろうね」
 日々、何処かしらが壊れていく建物。誰かしらが死んでゆく病院。
 何もかもが破壊と死に向かってひた走る中、医者たちだけが必死でそれを押し留めている。猿野が示した道は其処に用意されているのに、誰もそれを辿る事が出来ないもどかしさ。

 こうして過ごしてゆくものは日常だろうか?

 答えの出ない言葉を問うて、犬飼は死亡したばかりの患者を見下ろした。
 既に物言わぬ肉塊に成り果てた彼は、けれど苦痛から逃れた自身に満足げなほどに穏やかな表情をしている。いっそ怨んでくれれば、憎んでくれれば医者も楽になれようものを、この病棟の誰もが無力な医者を責めないから。

 やはりここに在るのは、膿んでゆくような退廃だけ。


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「何ば見えっと?」
 ぼんやりと、屋上のフェンスにもたれて空を仰いでいると、背後からかけられた声。思わず振り向いた先にあったのは、やや癖のある髪を風に揺らしながらこちらに微笑みかける旧友の姿だった。
「…猪里、Ka」
 虎鉄大河とて、今でこそ『零病棟』で麻酔医なぞやっているがそこに至るまでにはいろいろあった。この病棟に属する者が例外なく背負っている傷のある過去は、彼とて例外ではない。
 猪里猛臣という旧友は、そんな傷を負う前の高校生時代の友人…否、親友だった男だ。
 今でこそ音信不通が続いていたが、それでもおそるらくは最も近い存在だった男。そんな彼が此処に居る意味と、羽織ったモスグリーンのカーディガンの下に見え隠れするブルーのストライプ柄のパジャマに、思わず唇を噛みそうになる痛みを覚えたのは数週間前。
 彼がこの病棟に『入院』してきた時の虎鉄の率直な感想だった。
「なあ、何ば見えっと?」
「…いや、別に珍しいものはないZe?」
 屈託なく笑い、あの頃と同じように語りかける猪里に、もはや学生時代のように言葉を返す事は虎鉄にはできない。そうするにはここで重ねた年月が多すぎ、看取った患者が多すぎた。
 ここに在るのは、『死』と『苦痛』ばかりで、『癒し』も『生命』も遠い存在だ。それを誰より知る『零病棟』の医師だからこそ、虎鉄は似合わぬとわかっていても沈黙を守ることしかできなかった。
「なんも?」
「そう、何もDa」
 此処に在るのは退廃。
 此処に在るのは絶望一歩手前の悲哀。
 或いは、終わりのない痛みばかり。
 それでも諦めないのは、誰もがあの男を信じているからだ。正確には、あの男の成したことがいずれ他の患者にも可能となることを願うからだ。
 虎鉄も、そんな愚かな医者の一人だった。だからこそ、こうして人をやめてしまってまでここにしがみ付いている。
 この、とてもとても親しかった友の死を看取る未来を直ぐ其処に迎えて、尚。
 美しかった過去は、幻。
 此処に在るのは痛みばかり。でも。
「…いい、天気だNa」
「そうね」
 あの頃、屋上で二人見上げた空と、今見るそれは同じ青。
 違ってしまったのは二人の立場と、この抱え込んだ傷の膿。
 目を細めて空を見上げる親友の横顔を眺めながら、この男を今までと同じように見送る事ができるのかどうか、虎鉄は不安にかられてフェンスを掴んだ。
 秋を迎えようとしている風は僅かに冷たく、二人の隙間を吹き抜けていった。


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「…301号室の、猪里サン?」
 カルテを繰る指をしばし留めて、猿野はまじまじと目の前の男の顔を見る。
 お調子者っぽく軽い言葉と態度を取り続けてきた『虎鉄大河』という男の表層が剥がれ落ち、そこにあるのは何処か憔悴し、切迫したものを抱えた表情だった。
「…それアンタが聞いて、何にするっての?」
「それは俺が決める事だRo?」
 まあそうなんだけどな、と気のない返事を返しながら、カルテへと視線を落とす。確かに医師としての情報交換、という意味ならば守秘義務に触れない程度に病状の報告はしても良いだろう。
 けれども、虎鉄が求めているのはそういうものではない事がわかってしまったから、猿野は少しだけ声色を低くしてぱしりと手にしたカルテで虎鉄の額を叩いた。
「虎ー鉄センセ?医者が公私混同は良くねぇぜ?」
「俺は…別にそんなつもりJa…」
「そうだろ?」
 はっきりしない物言いは、おそるらくは真実を突いているから。患者に心を向けるのをやめろとは言わないが、それでも思い入れが強すぎれば毒になる。
「…アンタにとって、あの人が特別なのはわかるけどよ」
 押し殺すような声。蘇る記憶は赤と白。
 ようやく過去へと押し流す事を始めた、けれど今以て鮮やかなその光景はあまりに血腥い。
 其処にあるのが愛情であり同情であり悲哀であり慟哭であるからこそ、猿野の中で消化するのに犬飼という男の登場を待たねばならなかった過去だ。
 おそらくは、虎鉄にとってそんな猿野の過去以上に彼を苛む事になるだろうものが、今訪れようとしている現実そのもの。
 だからこそ、猿野は問う。
 その覚悟と、発狂せんばかりの現実の感触を。
「何をどうしたって、アンタより先にあの人は死ぬんだよ」
 それは、虎鉄が『規格外』であり猪里が『患者』である以上覆せない現実だ。
 ぐ、と言葉に詰まった虎鉄の表情が見覚えのある誰かのものに酷似している、と認識した猿野の視界が翳る。次いで頬に鋭い痛みが走り、その勢いのままに壁へとしたたかに右半身を打ち付ける。
 頬にじわりと広がる焼けるような熱の感触。はあはあと息を荒くしてこぶしを握り締めた虎鉄の余裕のない表情。説明の必要もないほど典型的な状況に、伏せた眼はそのままで呟く。
「…俺を殴って気が済むんならいくらでもやりゃいいさ。けど、それでもアンタの痛みは変わらない。俺が感じたものも変わらない。救えないのは医者の無力で、救わないのは患者の傲慢だ」
 それは、猿野が半世紀以上を医者として救えない患者たちに手を差し伸べ続けて得た『真実』だ。
 沢山の人間と擦れ違った。名誉欲と少しばかりの財を成す為に、わざわざこんな場所に来て神経をすり減らし発狂寸前で去っていった『人間』の医者。
 優しさと強さを兼ね備え、患者に対して慈愛を分け与えながら最後はその患者に殺された看護婦。
 『患者』と『自分』の境界線を見失い、自ら命を絶った『規格外』の医者。
 何一つ成さぬまま次々と死に至る患者たち。
 何もかもが猿野の人生の横を駆け足で通り過ぎて後には『死ねない医者』だけが取り残される。このコンクリートの箱庭の中で、たった一つ変わらぬものとして楔のように存在し続ける。
 それが苦痛だと、告げていいのだと教えてくれたのは既に亡き患者の少女と銀髪の恋人。
 だからこそ、猿野は痛みを抱えようとする同僚に向けて忠告じみた言葉を紡ぐのだ。
「俺とアンタは違うモノだが、それでもアンタとあの人よりは近い…そういうことなんだよ、虎鉄サン」
「俺はっ…!!」
「アンタの願いは正しい。だけど、正しい事だけで成り立つほど世界は優しくないんだよ」
 医者を、辞めようと思った事は何度もあった。
 それが出来なかったのはそれすら手放してしまえば何もなくなる己への恐怖と、手放してきた患者たちの死に顔故。そして、それはこの病棟に居るすべての『規格外品』の医者たちにも共通した過去だったから。
「…アイツは、死ぬのKa?」
「そう、彼が願うなら死は彼から最も遠くもなるが…無理だろうな。
万に一つ、俺と同じ未来があるとしても分かたれてしまったアンタとあの人の道が交わる事は未来永劫決してない」
 どう転ぼうと、どちらかがどちらかを置いてゆく。
 そして、猿野の場合は自分が置いてゆかれる側で、犬飼が置いてゆく側だと定義されている、ただそれだけの差だ。与えられた時間がどれだけ長くても、否それゆえにいつか別離と喪失の苦痛に心身を引き裂かれる痛みを味わうのだろう。
 ぐっと唇を噛み締めて俯く虎鉄の肩を叩き、手にしていたカルテをファイルケースに入れ小脇に抱える。何を言われても、猿野はそれを虎鉄に見せるつもりはなかった。其処にあるのが絶望でも希望でも、無知故だとあれば少しは楽になれることを知っているから。
「…ひとつ」
 俯いたまま、虎鉄の呟きに猿野は足を止め、振り返る。交わらない視線に感じる安堵を不愉快にさえ思いながら、搾り出すように問われた言葉に耳を傾ける。
「ひとつだけ、教えRo。『オマエ』は、何Da?」
 ひび割れた声。いつも陽気なこの男には似つかわしくないその声に、そこに確かにある痛みを実感させる。
 それほどの過去を背負って尚、現実にしがみ付かねばならない苦悩もまた、誰もが背負うものだ。
「…俺が、何かって?」
 そんな事は俺が一番教えて欲しいことだ、と乾いた笑みを零しながら、猿野はその茶水晶の瞳に寂寥の陰を落として呟いた。
「…『人間』だよ。あるいは…俺こそが、な」
 窓から差し込む夕日を背負い、白衣の『到達者』は何処か寂しそうに、踵を返した。

 
 
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2005.05.18. Erika Kuga