immortal mind





File.01 arms

 失ってから気付くのは、もう何度も繰り返した事で。
 そうして悲しみにくれるのはどうしようもない偽善でしかなくて。
 この手を濡らす血の色と匂いに慣れる事すら日常でしかない。

 けれど。

「…ぁ、あ、うあ、あああああ!!!」

 喉を引き裂くほどの悲鳴は、誰のもの?
 この胸を押しつぶすほどの痛みは、何?

 ゆっくりと失われていく体温。
 流れ落ちる命の感触はぬるりとして、それすら徐々に冷たく乾いて。
 鉄錆の匂いの中、ただ叫ぶ事しか出来ないのなら。


 この手は、何の為にあったのか?


 それすら見えない、何処までも、くらやみの中。


--------------------------------



 かし、とボールペンの端を噛みながら、猿野は目の前の止まってしまった論文の草稿を眺めた。『人類規格外品(マンカインド・アウトサイド)、その外部要因による排斥過程(オールリングアウト)について』というVISには関係あるともないとも言い切れないそれは、とある一人の従順な被観察者の存在によって飛躍的な論理展開を迎え、確かに先は見えたものだった。
 だがしかし、それと現状展開されている『規格外』とされた人々との共通点が未だ、薄い。単なる『突然変異(デミ・カテゴライズ)』だといわれてしまえばそれまでの、薄氷のような論文だ。
「くっそ…もうちょっとだってのに」
 猿野自身、未だ己が何者なのかを理解しきったわけではない。
 同様に、被献体として扱った犬飼冥もまた、己が何者なのか理解してなどいないだろう。
 まるでVIS患者を彷彿とさせるが如く変容を遂げた彼の容姿は、元より『規格外』としても異質だったそれを更に強めている。獣のような虹彩の瞳は夕暮れ時の赤金色。針金のようなどこか硬質な光を弾く銀色の髪。メラニンのそれでない色素に染まったミルクコーヒーのような色の肌。
 それが浮かないのは『零病棟』が『零病棟』であるからであって、それ以上でもそれ以下でもない。
「HAHAHA、浮かない顔してんNa」
「…なんだ、虎鉄サンか」
 やけに陽気な物言いと共にばしりと背中を叩かれた不愉快さに振り返って、その見知った顔に思わず脱力する。この零病棟に勤める同僚である麻酔医は、からりと笑って相変わらず似非くさい口調で口角を吊り上げた。
「眉間に皴寄せて考え事でもしてるのKa?」
「まあ…考え事と言えば考え事の部類にゃあ入りますがね」
 言えない。流石に言える訳もない。
単に論文だけの事だったなら猿野とて年の功、すらすらと嘘もつけようが、話に直結するのが犬飼である以上この聡い同僚には話せない。同じ職場に勤める、己の息子どころか孫のような年齢の男とそーゆー関係になりました、などとは。
 どこか茫洋とした、虹彩に焦点が薄い瞳。頬に走った痣のようなものはペイントでもなんでもなく、皮下組織に沈着した特殊な色素が成すもので。
 そう、この麻酔医も犬飼や牛尾病棟長と同じく『人類規格外品』のひとりだ。
 故に見かけよりは随分と年も食い、猿野とも親しくしている一人ではある。『人類規格外品』となった人々は、人間としての寿命こそ変わらぬものの、老化はきわめて遅い例が多い。まさしく『規格外』となったが故に、正常な人間としての代謝活動が異常を来たした結果だとすれば皮肉だが、そうした理由でこの零病棟には外見と実年齢がそぐわない人間がごろごろと存在している。
 今更、この見かけ二十代後半の男が何歳なのかなどどうでも良いことだ。どちらにせよ自分より年下ということはない。
「『規格外』とされた人々は何ゆえに『ヒトでないもの』に成り果てるのか。その要因とVISの発症との間に本当に因果関係がないのか。そもそもVISとは何なのか…。考える事は、山ほどありますんで」
「…それも、俺たちの仕事だからNa」
 医者という、現場に即した面だけを担うのなら猿野はもっと楽になれたろう。猿野だけでなく、他の医師たちも。
「俺たち『規格外』はVISの本当の意味での恐ろしさを生涯知ることは無い。だからここに居続けられるのかも知れないNa」
「…それは、もう俺も同義です」
 たったひとりの『到達者』。
 恐らくは死なない、死ねないたったひとり。何処まで身体を損ねれば死ねるのか、或いは絶対的に死が遠いのか。
 それは猿野とて知る由もないが、それでも分かっている事は猿野が覚えている『VIS』と患者たちが苦しむそれが決して同じものとは言い難いという事実だ。
 猿野がVISを捻じ伏せたのは非常に早い段階で、そこにあった苦痛も変異もごく僅かだった。いっそ殺してくれと患者が叫ぶほどの苦痛も発狂するほどの絶望も知らず、ただ淡々とそこにある事実を受け入れただけ。
「何度も何度も説明しましたが…言葉にはしにくい、否できない感覚なんですよ。俺は『VIS』というものの根幹を捻じ伏せた。それは自覚であり本能的な知覚だったけれど、それを何もかも理解してやったわけでもない。
だが、世間はそれを明らかにして、俺に患者を救えという」
 無茶を言う、と猿野は思う。
 医者は所詮、患者の手助けしかできない。患者を真に救うのは患者自身だ。立ち上がれ、と何度も告げてきたのに、膝を折ったのは患者たちであり、それ以上を手助けできる立場にも救う立場にも猿野はない。
「虎鉄サン、あんたらはそれでも俺にとっては救いだ。俺の存在に何も動かされない」
 非常に皮肉な事ながら、輪から外れてしまった『規格外』は輪の内側の永久連環(メビウスリンク)になった『到達者』とは最も遠いところにある存在だ。こうして気楽に友人のような付き合いが出来るのは、それが大きいのかも知れない。
 ヒトにとっては、死なない存在(イモータル・オブジェクト)は畏怖と憧憬の対象であり、患者にとっては嫉妬と唯一の希望でもある。
「誰も彼もが強いわけじゃない。だったら、俺はきっとその誰よりも弱いから」
 思わず口を噤み、虎鉄はまじまじと目の前の『異端者』を眺めた。あるいは異端者というならば自分たちの方がよっぽどそうなのだろうが、現時点では彼に勝る孤独は何処にもない。
 今まで虎鉄が見送った、患者や同僚たちの事を思い返して思わず唇を噛んだ。忘れろと、そう告げるにはあまりに彼の存在は特異過ぎる。
「誰かに置いて行かれるのも慣れた。ただ、…それが痛みを伴わないかと言ったら、嘘になる」
「それは…俺にもわかる感情かも知れないNa」
 懇意にしていた人間に置いて行かれる悲しみは、きっと置いて行く方にも痛みを齎すのだろうが。こうして永続的に痛みを抱える意味では置いて行かれる方がより苦しい。
 何時終わるのか分からない永遠の螺旋の中で、医者も患者も見据える未来はまだ、闇の中。
「…行こう、そろそろ回診の時間だRo?」
「ああ」
 机上に広げたままの論文の草稿を、些か乱暴な仕草でかき集めて書類ケースに放り込む。これが完成したとしても、所詮捨て石のような意味の無いものに成り果てる事は分かりきっていたが、それでも砂粒をひとつひとつ積めばいつか山になると信じる気持ちを捨てられないでいる。…おそらくは、この『零病棟』に従事するもの、全てが。
 眼鏡を外し、シャツのポケットへと落とし込む。椅子の背に投げ出したままになっていたやけにずっしりと重い白衣を手に取り、手馴れた仕草で内部装備を確かめる。

 医局に向かうべく立ち上がり、ばさりと羽織る白衣の白に。
 かつて恋人が見たという赤の記憶は…決して薄れはしないのだから。

 
 
Next

2005.05.18. Erika Kuga