02. 油断
しくじった。
荒い吐息を忙しなく吐き出し、どくどくと音として聞こえそうなほどの鼓動を刻む胸を押さえる。じっとりと汗に濡れたシャツが、酷く気持ち悪い。
じり、と爪先を僅かに引く。靴底がコンクリートに擦れる、その音すら拾われないように苦心してそろりそろりと慎重に慎重を期して両足をその場から引き剥がす。
一刻も早く、少しでも遠くへ。
この場所から遠ざかってしまわなければ、どんな目にあうかわかったものではない。
額を伝う汗。どこか寒気さえ覚える背筋。
吐息ひとつにさえ神経を尖らせ、ビルの合間から合間へ身を移す。夜の街を彩るネオンライトの盲点を突くように、生まれる影から闇へと己を溶け込ませることで気配を隠す。
こんな筈ではなかった。何も落ち度はなかった筈だ。
脳裏を巡るシミュレートは正確無比、ただひとつの毀れもない。
冷たいビルのコンクリートに背を預け、辺りの気配を確かめ追っ手を撒いたことを確認して詰めていた息を吐き出す。ようやく一息ついたことによるそれは、溜息にも似ていた。
何も失敗などしていない。油断していたとすれば、それは。
「…見ィつ・け・たv」
「ぎゃあああ!!!」
にゅ、とビルの合間、闇の中から伸びる白い腕。するりとそれは首に肩に巻きついて、少し冷たい指先が頭を抱きこむ。
状況が状況だけにちょっとどころでなくホラーな気分を味わった自分とは裏腹に、追跡者は満足そうににこにこと笑ってぎゅうぎゅうに頭を抱きこんでいる。
「ふ、ふふ、今日の俺から逃げようなんて、羊羹並みに甘いぜ?怪盗キッド」
「め、めめめめーたんてー…?!」
うふふふ、と常ならぬ様子で楽しそうに抱き締めてくるのは、工藤新一。
東都を代表する名探偵にして、日本警察の救世主。平成のホームズ。
…そして、俺…怪盗KIDこと黒羽快斗の、最愛のコイビトでもある。
「何、何なんだよめーたんてー!今日は不参加だったんじゃねーのかよ!!」
宝石返したし、警察の方々も既に引き上げたってのに!
「勝手にヒトの参加意思を捻じ曲げるな」
オメーは俺が捕まえるったら捕まえるんだよ。
じたばたともがいてみても、今日に限って強気な名探偵にがっちりと関節を極められていて逃げ出すどころか身動きすら取れない。くすくすと耳元で楽しそうに笑う様子は、見えないけれどさぞかし嬉しそうなことだろう。…ついでにすこぶる可愛いに違いない、見えないけど。
はあ、と溜息をひとつ。後ろから頬を摺り寄せるように懐いている名探偵…って、ちょっと待て。
「めーたんてー」
「何だよ」
気付いた。気付いてしまった。
正直、気付いてしまえば脱力することこの上ないんだけれども、気付いてしまったからには突っ込まずにはこの場から逃げ出すことも叶わないわけだし。
「めーたんてー、アンタ…酒入ってるでしょ?」
「うんv」
吐息に微妙に酒精の香り。微妙に上がった体温と、桜色に染まった頬。
スパークリングのロゼワインが美味しかったvと高校生の分際で悪びれもせずに言う辺り、本当にこの探偵の善悪というのはテキトーだなあと怪盗は溜息をついた。
油断大敵。特にこの可愛くて凶悪で有言実行な俺様名探偵には。
知っていたはずの事実を思い知らされ、天を仰ぐ。
ぼやけた月が嘲笑うように、三日月の形を作っていた。
2006.06.02.
H O M E * / N E X T *