4.視線の先には


 はふ、ともう何回目かわからない溜息をちっともページが進んでいない新刊の上に落としつつ、名探偵の呼び名も高い工藤新一はぼうっと部屋の片隅に視線を向ける。
 むろん、其の先には工藤優作のコレクションと思しき洋酒の並べられた棚くらいしか見当たらなかった。
 ぺらり、と本人はめくったつもりのハードカバー本のページさえ、めくりきれずにひらりと元に戻ってはまためくり、を繰り返しているのだが、それすら気付いている様子はない。
『…思いっきり、腑抜けてるわね…』
 この、日本警察の救世主とまで言われる希代の名探偵(その実灰原哀からしてみれば単なる隣家生活不能者でしかないが)の様子がおかしい、と彼の幼馴染とその友人に告げ口されたのは数日前。
 確かに哀としても多少はオカシイと思いながらも(あまり関り合いになりたくなかったので)放置していたが、どうやらオカシイどころの騒ぎではなかったらしい。
 何時もならば確かにこの黒い関西人を鬱陶しいとは思っているのだろうが、背中に数十匹飼いならしている猫の群れがにゃーにゃー鳴いてカモフラージュしていた本心がぽろりと出てしまったらしい。どんなむごい仕打ちを受けたのかこの世のものとは思えぬ恐怖の表情で気絶した関西の黒い人…もとい服部平次少年が工藤邸のリビングの床に転がっている。
「工藤君…何したの、貴方」
「…あんまりぎゃーぎゃー煩かったから、件の栄養剤の五倍濃縮を出してみた」
 言われてみれば確かに、コーヒーの香ばしい香りの中に嗅ぎ覚えのある匂いをまとわり付かせたカップがひとつ、空になって転がっていた。
 栄養剤、と言ってもそれは通常のものではない。濃縮、と言っている以上それが哀が脅しも兼ねて作成した7倍まで希釈して使う簡易栄養補給液剤に違いない。
 確かに栄養補給には絶大な効果を発揮するが普通の味覚を持つ人間には飲めたものではない為、食事を疎かにしがちな隣家の探偵への警告として存在していた物品である。
 そんなモノを、更に原液を濃縮。
「…ところで、何しに来たのこの人」
「なんか珍しい事件の話がどうこうと」
 でもそれどころじゃないから帰れって言っても聞かないから、鬱陶しくなってわざわざ鍋をひとつ犠牲にしてアレを煮詰めてコーヒーに見せかけて出したのだという。そんなものを何の躊躇いもなく飲み下したというこの自称西の名探偵とやらもどうかと思うが、わかっていて出した工藤新一もかなり酷い。
 そこまでつらつらと考えていた聡明な少女ははた、と新一の言葉にひっかかるものを感じて、再びぼうっとページめくりのエンドレスワークに突入しかけていた探偵に向けて一言問いかけた。
「工藤君、ひとつ訪ねるけど…『それどころじゃない』事って…」

 どんがらがっしゃん、ばたん、がたっ。

 何かしら、と続けようとした哀だったが、思わず口を噤むしかない見事な転がり方でソファから落ち、テーブルにあちこちをぶつけ、その上の本をひっくり返した新一の顔が真っ赤になっているのを見て、大体の状況を察する事が出来た。
 別にしたくはなかったが。
「…工藤君、もしかしなくてもこの間からの不機嫌の原因はあの白い怪盗さんなのかしら?」
「ち、違っ!!つい憎まれ口とか叩いちまいそうで一言も口聞けなかったとかそんな事じゃ!?」
「…そう」
 こんなのが救世主呼ばわりされる日本警察というのもどうなのか。それともそんな人物すら豹変させてしまう恋心の偉大さをかみ締めるべきなのか。
 己の取るべき態度に迷いつつ、哀はなまぬるくわたわたしている新一を黙ったまま見遣る。

 偶然映画館で遭遇した、昼の怪盗。
 それは、月下の凛とした気配を一切させぬ陽気な学生の姿で新一の前に現れた。ああこれが普段のコイツなんだ、と思った瞬間性能の良過ぎる頭に繰り返しリピートされる音声は、かつて夜に投げかけられた言葉の数々。
 リアルな音声を繰り返すそれに思わず硬直して何も言えぬ間に、互いの背後からかけられた少女の声にぎこちなく笑うしかなかった。
 可愛い子、だったと思う。
 思わず守ってあげたくなるような、やや幼い少女と並んだ姿はお似合いで、つきりと心臓が痛んだような気がした。
 その後の映画が頭に入るはずもなく、上の空で蘭にも叱られて、家に帰り着いてからも己の対応のマズさにどうしようもなく落ち込んで。
 それからずっと、消えない声。
 月下の幻のような奇術師のそれに混じって、ほんの2、3言交わしただけの少年の声が消えてくれない。
 難解な事件もお気に入りの作家の新刊も、どれひとつとしてそれを消し去るだけの威力はなくて、何度も何度も頭の中に繰り返す声にいつか狂うのかな、とぼんやり思ったりもする。
 というより、もはや灰原に図星を指されてソファから転げ落ちた現状が狂っているとも言えなくもない…ような気もするけれど。
「…普通、嫌いだよな」
 だって『探偵』だ。
 現場では認めてくれたような事も言っていたが、所詮自分は彼の目的を邪魔する輩の一人でしかない。
 その背景を抜きで知り合う、というのも接点が無さ過ぎてどうしたらいいのかわからないし。
 はあ、と溜息を落とすとなんだか非常に複雑な表情でこちらを見る灰原の視線と己のそれが絡んだ。
「工藤君…ひょっとして、気付いてないの?」
「…何が?」
 何かを言いたそうで何も言いたくなさそうな微妙な顔に首を傾げ、問いかけると返ってきた答えに再び首を傾げる事になった。
「あの怪盗さんが、本気で貴方の事嫌いだと思ってるの?」
「…そうじゃないのか?」
 ひょっとしたら、嫌い、とさえ思われていないとか?
 それは凹む。正直凹む。白馬と同レベルは嫌だがそれより下のレベルなど更に嫌だ。
 さああ、と顔から血の気が引くのがわかって、思わず顔に手を当てて俯くと、珍しく慌てた様子の灰原が一枚の広告を差し出した。
「…本年度、米花芸術祭のお知らせ?」
 普通の藁半紙に、どうやらプリンターで印刷したらしい簡単な地域向けの広告。どうやら回覧板か何かで回っているらしい(ちなみに工藤邸は下手をすると一週間以上停滞する事もあるので住人の承認済みで地区の回覧板の巡回からは外れている)。
 毎年今月の末に開催されている発表会だが、今年はどうやら地元の有志+プロアマ混在のボランティアによってステージを構成しているらしい。あ、これ花屋のおっちゃんのバンドじゃん、こっちは大学の演劇サークル、などとどこかで見覚えのある名前を疑問符だらけで流し読みしていた新一は、ある名前の箇所でぴたりと視線を止めた。
「灰、原…?」
「少しはやる気になった?」
 演目の中にひっそりと紛れ込んでいた、30分程度のミニマジックショー。マジシャンの名前は、黒羽快斗。
 こくり、と息を飲み込む。もう一度、会えるかも知れない。
 会えなくても、昼間の彼を見られる。あのどうしようもなく不手際だらけの邂逅を、やり直せる?
「それ、あげるわ。私も博士も行かないし」
 いいのか、だとかありがとう、だとか。喚きながら灰原の手を取ってぶんぶん振って。
 にぱっと笑う表情は、かつての小学一年生時代にも見せた事が無いほど異様に幼く可愛らしいもので、思わず灰原は額に手を当てて起こりそうな眩暈を堪える。
 けれども、次の新一の心からの目標を聞いて今度こそくらりと意識を飛ばす。
「ぜってー、今度こそきちんと知り合いになるんだ…!」
 更に低い志はどういうわけだ。
 ツッコミたい気分は山々だがその気力もなく、灰原は頑張ってね…と乾いた返答を返すことしかできなかった。

つづく




2005.01.08.

H O M E *