5.もしかしたら未来なんて


 ごくり、と工藤新一は息を呑んだ。
 心臓をばくばく言わせながら探偵が佇む現在位置は、市民会館の通用口脇の花壇の傍。運営スタッフや出演者はこの通用口を使う、というのは探偵が『日本警察の救世主』と呼ばわれるに足る優秀な能力を無駄に使って調べ上げた貴重な情報である。
 先ほどから数人の出入りがあるが、新一の目的である高校生マジシャンの姿はない。新一が此処に来る前に退去したという可能性も考えないではなかったが、それも通りすがりのスタッフジャンパーの女性に尋ねる事であっさりと杞憂に終わった。
 数十匹背中に飼っている猫たちににゃーにゃー盛大に鳴かせたかいがあったというものだ。
 問いかけるのを自身の容姿が武器となる女性にした辺り、自分にしては目端が利いていると探偵は浮かれっぽく自画自賛していたが、隣家の女史辺りが状況を知れば『男でもこの場合大差ないわよ…』と斜め下を見ながら呟いてくれることだろう。
 知らぬは本人ばかりなり、である。
 心臓をどきどきばくばくさせて、賢明に平常心を言い聞かせながらも僅かに頬を上気させてマリーゴールドが咲き誇る花壇の脇に佇む姿は大抵の人間には『目の保養』と映るだろう。
 けれどもそんな外野の想いなど何処吹く風、ちらちらと視線を通用口に油断なく向けながら、探偵の優秀な頭脳の半分はつい先ほど観たばかりの昼の魔術師の華麗な魔法の事で占められている。
 大方のタネを知っていても、それがマジックという名の虚構である事を知っていても、あのしなやかな指先と優雅な所作から生み出されるのは本物の魔法のようだった。
 観客全てに向けられた笑顔は、夜の皮肉が色濃いそれよりよっぽど彼に似合っている。よく通る声が紡ぎだす言葉のひとつひとつが新一の脳内記憶野に焼き付いて、幻聴の語彙を増やし続ける。
 このままでは、いつか頭の中が全て彼の言葉で、声で埋まるんじゃなかろうか?
 そんな馬鹿な考えすら浮かぶ中、かちゃりとドアノブが回る音にはっとその方向を振り返る。
 ガラス部分に『通用口』と貼り付けただけの味気ないスチールドアのノブが回って、トートバッグを肩口にひっかけた少年が現れる。
 その姿に何を言って良いのかわからず、また何を言うつもりだったのかもどこかに吹っ飛ばした新一が思わずがちん、と固まるのと。
 がちがちに固まった新一の姿に、少年はドアノブに手をかけた状態のまま、先ほどまで舞台上であれほど優雅に振舞ったマジシャンと同一人物である事を疑うほど見事に硬直するのはほぼ同時だった。
 何故、とか、どうして、だとか。
 そんな単語がぐるぐると快斗の脳裏を過ぎっては消えてゆく。そこから何らかの答えを導き出すことなど容易なはずの頭脳は空回りもいいところで、間抜けにも一言も明快な応答が出来ぬままに目の前の名探偵を見つめる事しか出来ずにいる。
 いや本当に、どうしてこのヒトがここに居るんだよ?
 チャコールグレイのダッフルコートのポケットに両手を突っ込んだまま、オフホワイトのふわふわマフラーに顎を埋めるようにしてマリーゴールドの花壇の横で佇む姿は普段と比べて空回りもいいところの回転数を計測されているだろう快斗にも素直に『あ、可愛い』と思えてしまう取り合わせの妙だったが、問題はそんなところにはない、この場合。
 どうして、なんで名探偵・工藤新一が米花市民会館の通用口脇の花壇の傍になぞいるのだろう。
 ひょっとして、また事件でもあったのだろうかと斜め下方向に思考をずらし始めた無言の快斗に痺れを切らしたのか、なんだかちょっぴり怖い無表情でずかずかと近寄ってくる。
 うわ、なんだろう俺名探偵に何かしたかな、そりゃ現場ではいろいろやったけど、と相変わらずぐるぐると思考をきりもみ回転させている快斗の事情を知ってか知らずか、新一はぎゅっと両手を握り締めて快斗に向かってこう叫んだ。
「あのっ、俺…さっきのショー見てて!ファンで!!」
「…は?」
 予想外の事が起こると人間の思考って停止するもんなんだな、と常人よりは多少なりとも推定する未来の幅が広い快斗だったが、まさしく予想外どころか可能性さえ頭の中になかった工藤新一の第一声に、思わず間抜けな返答を返してしまう。
「…ふぁん?」
「そう!」
「…ええと、俺の?」
「あたりまえだ!」
 一々気合の入った返答及び上気した頬に、ああかわいいなあ、などとずれた感想を持ちつつも、快斗はようやく論理的かつ理性的な判断力を以って事態の収拾に当たる気概を取り戻しつつあった。
 ええと、つまり?
「工藤君は、俺のファンで、さっきのショーも見てくれて?
そんで俺の出待ちをしてたと、そういうこと?」
 こくこくと、真っ赤な顔で頷く名探偵などという珍しいを通り越して希少価値がどのくらいあるのかわからないものを眼前に、快斗はちょっとだけ、ちょっとだけ『黒羽快斗』が『工藤新一』と仲良くなれるのではないかという希望を持った。
 だからこそ、今夜の対峙用に取って置いたはずの一言が、ぽろりと零れるのを止められなかった。
「…でもさ、俺も名探偵のファンなんだけど?」
「…え?」
 絶句、といった様子の新一からは、嫌悪や困惑の様子は見られない。むしろ、予定外の言葉に驚きはするもののそこにあるのは照れや歓びの類の感情のようで。
「うん。だからさ…工藤君と知り合いになれると、嬉しいな」
「…知り合い、ってか、友達…じゃ、駄目かよ?」
 知り合いや友達どころじゃないだろう、それ以上を目指せという突っ込みは工藤家の隣の女史やら怪盗の旧友の魔女やらをはじめとして大多数の方々からいただけると思うが、ここでは割愛させて頂こう。当人たちは大真面目なのだから。
 二人して自分が言った事やら聞いた事やらにぽうっと頬を染めながら、ぎこちない様子で互いのメルアドやら携帯の番号やらを交換したりして。
 とりあえずその場は、お友達確定で手を振って別れたりしてみたのだった。

 けれど、探偵は知らない。
 その手にしたメモの中に満足している探偵は、それ以上を目指した怪盗の決意など知らない。

 決戦は、今夜。

 探偵と同じように手にしたメモを大切そうに両手で抱えて、快斗はうっすらとまるで月夜の下のような微笑を浮かべた。




 ひゅおお、と風が鳴る。
 冬の冷えた大気は刃のように鋭く、頬を、喉を焼く。切りつける激しさと冷たさは、其処に佇む探偵の目を僅かに細めさせた。
「午前…0時4分」
 真夜中、と言って差し支えない時間だが、眠らない街『東都』の夜はそれでもネオンライトや街灯に鮮やかだ。昼とは様相を変えてもその賑やかさは劣らず、そして今夜は狂騒の色さえ見え隠れする。
 第二センタービル内の大展示室を借り切って行われていた宝石展。その目玉であるビッグジュエル『雫の碧』はドロップ型にカットされた巨大なサファイア。それを狙うキッドの予告状は数日前に警視庁に届けられており、今夜がその予告日に当たる為、野次馬やら警備の警察やら報道陣やらで地上は狂乱の熱が冷めやらない。
 そして何故新一が此処に居るかといえば、警視庁へ届けられたそれとは別に新一の元にも怪盗からの予告状は届けられていたからだ。
 親愛なる名探偵へ、との書き出しから綴られたそれは、既に過去のものを加えれば十数枚になる。内容を照らし合わせた事はないが、どうやら警視庁へと宛てているものより数段難解な暗号を使っているらしい。毎回、さすがに解読は時間を要する。けれど毎回異なる難解な暗号とそこに綴られた内容は、基本的には一課専門であり怪盗の現場に赴く事が頻繁には出来ない探偵をいつでも楽しませてくれた。そして、自宅にわざわざ届けられる『名探偵』仕様の予告状、という物体での事実そのものが、臆病な新一にあの日『黒羽快斗』に逢いに行く勇気をくれた。
 解読した予告状から、キッドの進入経路と逃走経路の予測は立てた。本人に確認しなければ正解かどうかは不明だが、新一自身は9割程度の自信を持っている。
 まあ、入手経路の問題もあったし、わざわざ聞かれなかったので現場の熱血警部やら倫敦帰りの探偵やらには教えてはいないけれど。
 それに、片思いとはいえ想い人との逢瀬に他人に踏み込まれるのは流石に恋愛音痴の探偵にしてもいただけないと思うのだ。
 想い人、というフレーズに、思わず頬がぽうと赤く染まる。大事に手帳に挟んだ彼の携帯ナンバーとメルアドのメモは、手帳ごとお守りのようにコートの下の制服の内ポケットの中だ。
 とくん、と胸を打つ鼓動が心もち早いのは、彼に逢えるという期待の為で。はあ、と吐き出した息が白く凍る冬の夜の下で、探偵の時計が正確に0時12分を刻む頃。
 舞い降りる、白い鳥。
「こんばんわ、名探偵」
「…怪盗、キッド」
 翻るマントの白がまるで大きな羽根のように月光を弾く。
 月の逆光にあっても端正な口元にアルカイックスマイルを絶やさず、怪盗キッドが新一の佇むビルの屋上へと舞い降りた。
 シルクハット、モノクル、白いスーツとマント。
 怪盗キッドを怪盗キッドたらしめるそれらのものを纏ってさえ、探偵の慧眼には紛れもない彼の本質が見えている。
 『黒羽快斗』だ。
 昼の快斗と夜のキッドはしっくりと新一の中で共存しており、己の推測が推測ではなく真実なのだと感じる。
「…オマエ、俺のファンだって言ってたよな」
「ええ、申し上げました」
 恐る恐る、試すように告げた言葉にさえ、その笑顔は崩れずきっぱりと返される肯定。
 何もこの男は新一に偽る気がないのだ、と悟ったその瞬間、もはや構築していたはずの理性的なもの全てが消し飛びそうになる。
 近付きたい、欲しい、触れたい。
 原始的過ぎる欲求をようやくのことで押し込めて、新一は零れる笑みを隠そうともせずに叫んだ。
「じゃあ!俺がオマエのファンだって…昼に言ったあの台詞、おまえにもだったって、わかるよな!!」
「…名探偵?」
 少し驚いたように目を見開いて、キッドは上気した頬をそのままににい、と笑う探偵を見つめる。
 いいのか、と無言のままに問う瞳に、肯定の意思を込めてこくりと頷く。その瞬間に苦笑を刻み、けれど視線だけは鋭く熱を込めて怪盗は囁く。
「…知らないよ?」
 どうなっても、と告げる声の低ささえ何故か探偵には優しい。
 白い手袋に包まれたしなやかな指先がひらめいて、シルクハットが、モノクルが取り去られる。ぐい、とやや乱暴に赤いネクタイを引き抜いて首を振る端から崩れる髪に、『怪盗キッド』が『黒羽快斗』へと変貌してゆく。
「ねえ、新一。…だって俺は」
 かつり、と軽くコンクリートを蹴る音がする。聴覚からの認識が脳に届き処理されるその前に、ふわりと白いものが新一を包み込んだ。
 その冷たさと裏腹のぬくもり。とくりとくりと聞こえる鼓動に、ああ快斗の腕だ、と認識するまでにかかった時間は非常に遅く。
 新一が状況を正確に捉えた頃にはしっかりとその身体は快斗の腕の中に納まっていた。
「か、快斗…?」
「当分は、『ともだち』で満足したげようと思ってたのに」
 あの台詞は反則だ、と耳元で囁く声にくらくらする。
 何度も脳内で繰り返していたキッドの台詞、そして黒羽快斗の断片的な声を塗り替えるように、自分だけに囁く甘い声がリフレインして…止まらない。
「ねえ。…俺、我慢しなくても、いいの?」
 君に近付いてもいいの?
 真剣に綴られる言葉の意味を理解するより先に、心地よい声が染みこんで身体を彩る。
 力を込められた腕の強さに、同じだけの力を込めて背を抱く事でそれに返して。
「バーロ…離れんなよ」
「うん…ありがとう」
 触れた互いは冷たいのに、それでも心の奥から湧き上がるぬくもりが全てを凌駕する。
 まろく降り注ぐ満月の光がやさしく、優しくあたりを染めて。
 伝わる互いの鼓動を、きっと忘れないだろうと二人共に思う。

 怪盗の胸に宿った痛みは甘く優しいそれへと、
 探偵の耳に残った声は静かで熱のあるそれへと。

 互いで互いを塗り替えて、二人はそっと冷え切った指を絡めた。


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2005.01.11.

H O M E *