猿野天国先生の愉快な日常・昼下がり編




「あ、猿野センセ」
 零病棟にしては平穏で優雅な昼下がり、昼食のサンドイッチとフルーツ牛乳のパックを手に中庭を歩いていた猿野の傍らの茂みから、ぴょこりと顔を出す少年が一人。
「どわっ・・・!!…て、比乃じゃねーか、何してんだんなとこで」
 比乃と呼ばれた少年は、がさがさと植え込みの隙間を掻き分けるようにして猿野の前に姿を現わした。髪の毛に盛大に葉っぱが絡み、入院患者であることを一目瞭然にするオレンジ色のパジャマにも泥だのくもの巣だのがべったりと張り付いている。
「知らねーぞ俺ァ、看護婦さんたちに叱られても」
 この少年は、つい先日入院してきたばかりのまだ比較的軽症の患者だった。自身に降りかかった災厄の意味を知るのかそうでないのか、底なしの明るさはそれでも滅入りがちな零病棟には貴重な存在であり、看護婦たちも相当気合を入れて『構って』やっているようだった。・・・その苦労たるや、あまり考えたくないが。
「へへーん、そんなの怖くないよーっ、だっ!」
 がさり、と彼が抱えた紙袋が音を立てる。何が入っているのか相当膨らんだそれに怪訝な眼差しを向けると、こちらが興味を示した事に気づいたのか得意そうな表情でその中身を此方に差し向ける。
「…ほー、駄菓子か」
「うん!」
 零病棟では、患者の我が儘は大抵のものが通る。それが治療計画の妨げとなったりこの病棟の外に出る類のものでなければ、国家からの予算はそれを容易に可能とし、医師や看護婦もせめても些細な欲求は叶えようと努力するからだ。
 恐らく、少年が申請したものが通ったのだろうと思える紙袋の中身に、多少苦いものを覚えながらも遠慮なく手を突っ込んで中身を物色する。
「杏飴にミルク煎餅、ガムに酢昆布、ヨーグル・・・何だコリャ、イマイチ統一性がねえな」
 紙袋の中身をひとつづつ吟味するように持ち上げる猿野の様子に、比乃は楽しげに纏わりつきながらそれを聞いている。中身を一通りぶちまけてしまったところで、ほう、と感心したような吐息を漏らして問いかける。
「ていうか、センセー詳しいねえ?」
「おーよ。俺の若かりし頃・・・からはちっとばかりこいつらはズレてるが、まあ俺も昔はよく1、2銭握り締めて一銭菓子屋に通ったもんだ」
 貯めてキャラメル買おうか直ぐ飴玉買うか真剣に悩んだなー、などとからりと笑う猿野の横顔をオソロシイものでも見るような眼差しで眺めながら、
「・・・銭、て、センセいつの時代のヒト・・・?」
「はっはっは、大人の男には謎が多いもんだ」
 がしがしと撫でる手のひらにほんの少し複雑な色を垣間見せ、手にしていたフルーツ牛乳を比乃紙袋を抱えたのとは逆の手の中に落とし込んだ。
「センセー?」
「ん、此処では珍しいもん見せてもらった礼だ、礼」
 まじまじと、猿野の顔と手の中のフルーツ牛乳を見比べて、比乃は弾かれたように破顔する。にこにこと上機嫌の様子を崩さぬままに、おもむろに紙袋の中から白いパラフィン紙で出来た袋を引っ張り出すと、それを猿野へと押し付けた。
「じゃあ、僕もセンセーにこれ、あげるよ」
「いーのか?」
 猿野の手のひらに乗って尚スペースが余る程度の、小さな紙袋。かさりと音を立ててそれを摘み上げると、もう踵を返しかけた少年のパジャマのオレンジ色が翻る。
「じゃーねーっ!!」
「おう、オマエもちゃんと看護婦さんたちに謝っとけよ!」
 あははは、と笑う少年の声を見送って、猿野はわずかに苦笑を漏らす。そうは言ってもやはりお小言をくらう事にはなるのだろうが、今笑えるならそれでいいか、とも思うからだ。
 手の中の小さな白い紙袋を見つめ、かさりとそれを開いてみれば。
「・・・こりゃまた、懐かしいな」
 赤、青、緑。ビー玉程度の大きさの、色とりどりの飴玉が5つほど入っている。それは現在市販されているようなものとは異なり、気泡が入った、傷の多い荒い作りのもので、けれどそれすらも過ぎ去って久しい過去を思い起こさせて唇が綻ぶ。
「…何一人で笑ってやがる、テメエ」
 からり、と中庭に面した窓の一つが開いて、呆れたような表情でこちらを見る犬飼の姿を認める。どこか憮然としたそれにまた見当違いのトコで拗ねてやがんな、と内心呆れとくすぐったさを覚えながら開け放たれた窓の傍へと足を進める。
「いやァ、さっき兎丸に飴玉貰ってさ。なんか懐かしくてな」
「飴玉くらいで安い奴だな」
「ほっとけ」
 かさり、とかすかに音を立てる紙袋を掲げて見せると、なんともいえない風情で犬飼の眉が下がる。少しだけやり込めたような気分になってからからと笑うと、そのうちのひとつ、オレンジ色の飴玉を摘み上げて犬飼の唇へと押し当て…というよりは、無理矢理口中に捻じ込んだ。
「…っ!!!テメエ、何しやがる!」
「はっはっは、お裾分けだよ犬飼君!日本古来の微笑ましい風習を馬鹿にすんな」
 もご、と自分も琥珀色の鼈甲飴と思しきものを口の中に放り込み、ザラメ糖のストレートな甘さを舌に感じる。
 まだ、自分が紛れもなく社会を構成する『人間』だと、疑いなく信じていた頃を思い起こさせる、懐かしい味だった。
「…甘ェ」
 寄せた眉根を更に引き攣らせ、此方を睨みつける恋人の表情にしてやったり、と笑いながら砂糖が付着した指先でその唇をなぞる。
「何味だ、それ?」
「…」
 ぐい、と手を引かれ、些か乱暴に唇が重なる。べたついた甘さと、人口甘味料の味も露なオレンジの風味。ああやっぱり、と脳裏に思考が過ぎるのと、ほぼ同時に。
「…どこでも盛るなっつってんだろ、この駄犬!!」
 震えるほど握り締めた渾身の一撃が、窓枠越しに犬飼の腹へとめり込んでいた。
 呻きながら廊下に崩れ落ちた恋人には一瞥もくれず、舌の上に残るオレンジ味と鼈甲飴のザラメの味に苦笑を漏らしながら猿野は今日も呆れるほど晴れ渡った青空を振り仰いだ。




 


2005年3月のイベントのペーパー裏小噺です
いろいろ考えた末にこの日の新刊の番外でした
この人たちはウチのカップルの中ではべったべたに甘いのにそう見えないのは
やっぱり設定がアレ過ぎる所為でしょうか…。
2005.05.18. Erika Kuga