追う背中、縋る指先


 悪夢は、いつもその背中から始まった。


 歩いている。淀みなく、また些かの躊躇いもなく。
 その足音は傲岸不遜なまでに構内に響き、それを追う幾つかもまるで行進のように音を揃えていた。
 見えるのは背中だけだ。懐かしい国鉄特急官の制服の、深い漆黒。
 否、己に見る事を許されていたのはそれしかなかった。そこから視線を外すような真似はこの周囲の足音たちには許されてはおらず、その先頭を歩く彼の視線は前に固定されたまま此方など振り返る事は無い。
 あれはそういう男だった。

 夢は、夢でしかない。
 既に時代は流れ、あの頃の事は遠い過去。
 ただ、今は東海道新幹線と名乗る男の記憶の中にだけ息づく悪夢は、けれども決して色褪せる事はなかった。
 これほどの年月が流れてなお、これほどの業績を上げながらなお、東海道はかつての過去に囚われている。それを厭うのも確かなのに、己の根幹に焼き付いてしまったそれを覆すことさえままならない。
 だからこそ、悪夢は悪夢足りうるのだろうかと漠然と考えた己は、果たして夢か現実か。

 視点は切り替わる。
 夢の中の自分は、爪を噛んで蹲っていた。
 場所は東京駅。丸められた背が断続的に震えている。人気のないその場所で、精一杯に張りつめていた何かが切れてしまったのだろう。
 初対面の男に今となっては赤面するしかない鬱憤を、取り繕うことさえ忘れて投げつけた。能面のような動きの少ない表情に、それでも浮かんだ困惑と僅かな同情のような気配が漂っていたのを覚えている。
 あの日、特急「はと」は廃止された。
 特急としての自分の終焉、「はと」は永久に「つばめ」の添え物なのだと、決定付けられたことを絶望した日だった。

 更に視点は記憶している時系列に沿って別の場所へ。
 我が物顔で東海道を走る「つばめ」に対して、「はと」であった己は線路の上でなく殺風景な事務室に押し込められた。
 繰り返す事務処理。旅客鉄道としての華やかな部分の裏にある、遅延や事故に対する事後処理や対策を任せられ、国鉄職員以外と会う事も話す事も無い日々が何年も続く。
 要は「つばめ」が「つばめ」として、栄光を背負って走るための雑務をすべて肩代わりさせられたかのような現状に、もはや不満を言うような気力は残っていなかった。
 こうしていつか誰の記憶からも消えてゆくのだろうと、もう二度とあのレールの上を走る事は無い己を噛み締め、絶望が心を塗り潰してゆく。
 遠くから見た「つばめ」の背中は、何も変わらなかった。
 かつて己が彼を追った位置には別の特急があり、ああして取り換えのきく部品のひとつでしかなかったのだと、硝子板ごしの光景は予想よりもずっと簡単に心の中に落ちていった。
 何かが壊れていたのだと、その時は気付くことさえ無かったけれど。


 まるで己の歩んだ歴史そのものを繰り返すような悪夢に、息が詰まる。
 だれか、と呼んだ己の声は、何かに押しつぶされたように音にならないままに消え失せた。
 夢だと知っている。目覚めればいつもの己が居るのだと知っている。
 けれども、今この瞬間に己の自我を食い尽くそうとするかのような悪夢に、東海道は我武者羅に縋るものを探して手を伸ばした。

 掴んだのは、けれども更なる悪夢の一幕だった。


『……「はと」』

 低く、冷たく響く音。己の名を紡いでいるのだと、認めたくないそれに背筋が凍る。
 何度もあった。何度だって覚えたのは絶望と屈辱だった。
 あれはそうしてあることが当然だと思っていただろうし、そこにあるべき他者の反発も楽しむような男だったからだ。
 あの男にとって周囲の全ては己よりも下にあるもので、賞賛と羨望は寄せられてしかるべきものだと確定していた。それを覆すような事実は確かに無く、彼の言葉と彼の全ては、未だ色褪せない栄光に彩られていた。
 何も言えずに押し黙る己の顎を掴み、程近くで言い聞かせるように言葉を紡ぐ「つばめ」の薄笑いが恐ろしかった。もうあのレールを走ることもないのなら、この男の傍近くにあることが耐え難かった。
 そんなこちらの心情など知る由もない、知る気もない「つばめ」はやけに楽しげに嗤う。
『「はと」などもう誰も覚えてはいない。おまえはずっとそうして私の影にいればいい』
 私は覚えていてやる、そしておまえは私の礎になれるのだ、嬉しかろう?と囁かれた言葉に、嫌悪を押し殺して無言を貫くのがやっとだった。
 あるいはそういった反応すらあの男を愉しませるのかと気づいたのは随分と月日が経った後のことで、心に刻み込まれた記憶は悪夢として現在も、こうしてなお時折己を苛む。

 永久に続くかと思われた、円環のような過去。
 本来ならばこの後に続くべき別離はいつまでたっても訪れる事無く、連綿と過去を綴り続ける悪夢に、東海道は目を閉じ、耳を塞いで蹲った。


 夢ならば、朝になれば覚める。
 今の己はあの頃の「はと」ではない。東京と大阪を繋ぐ、名実共に日本を代表する高速鉄道だ。
 例えあの男が今は九州新幹線として再び自分の前に現れたとしても、あの頃とはもう関係性も立場も異なるものになった。出来た筈だ。

 「つばめ」のほど近くに在り、故に孤独だったあの頃とは違う。
 自分の傍には常に『彼』がいる。
 あの日出会った時からずっと、二人で駆け抜けてきたのだから。






「――ぃどー、とーかいどう、東海道!!!」
「……ぁ、」

 今の己の名を呼ぶ声に、強張っていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
 耳に心地よく響くその声が呼ぶ己の名の響きが好きだ、と何度も思った事を思い返しながら、ぱちぱちと瞬きを数度。
 それで潤んでぼやけた視界は随分とクリアになり、硬直した己の思考も彼の名前をようやく導き出していた。

「さん……よう」
「オマエ、いったい何の夢見てんだよ。すっげー魘されてたぞ」

 ホラ汗びっしょり、と己の額を拭った山陽のハンカチはぐっしょりと濡れており、そこでようやく制服の下、ワイシャツが汗で張り付いている自身を自覚する。手袋を外していた手のひらも汗ばんでいて、それが小刻みに震えている事に我が事ながら驚きを隠せなかった。
「あれ……?」
 震えが止まらない。背筋にかいた汗が冷えて、気分だけでない寒気もする。
 それをどうにか抑え込もうと左手で右手を掴んで、自覚していない冷たさにかつての「つばめ」の冷たい手を思い出し、更に震えが背筋に伝播するのを止められなかった。
 そんなこちらの様子を不審に思ったのか、山陽が己の顔を覗き込む。視線が合った瞬間に相手の顔色が変わり、がしっ、と肩を掴まれた。
「ちょ、東海道!オマエなんて顔色してんだよ!?」
「え?」
「自覚ナシか、ねーんだなこのバカ!毎度のことなんだから学習しろよ!!」
 ぐい、と肩を押されて強張った両手を外され、俯いたままの顔を上げさせられる。
 立ったままでも身長差が時々恨めしい山陽との距離は、自分が座っているせいで余計に開いて、正直ちょっと首が痛い。思わず眉を顰めたが、それ以上に山陽の眉間に盛大な皺が刻まれる。
「ホンっトにもう、オマエは昔っからどーでもいい事は喚くくせに肝心なこと言わねーんだから……」
 自分がするよりも器用に襟元を緩め、視界を覆うように大きな掌が瞼の上に被せられた。
 抵抗しようとした手足はやんわりと封じられ、元よりそこまでの気力も残っていなかった事もあって、東海道はいつもよりもずっと早くに山陽の与えるものを受け入れる。
 無言のままに、手のひらから伝わる温もりにほう、と息を吐き出すと、予想以上に自分の精神がダメージを受けている事に気づいた。振り返る事無く走り続けたその陰で、過去の悪夢が風化する事無く放置されていた事に、今更ながらに気付かされる。

 だって、ずっと気付かなかった。
 振り返ることさえ苦痛だったから、自分は走り続けるしかなかった。
 我武者羅に、ただ先だけを見据えて積み上げた己の業績に満足が出来るようになった頃には、ふとした瞬間に蘇ることもなくなった。
 そして、それ以上に傍らにこの男がいたからこそ、自分は自分で在れたのだと思う。
 じわりと滲みかけた涙をどうにか抑えようと唇を固く引き結べば、囁きが驚くほど近くで肌を震わせた。

「――泣いていいぜ、東海道?」

 唐突な言葉に、思わず山陽の名を呼べば宥めるように目元を覆うのとは逆の手が髪を梳いた。時折与えられるその接触を、己が厭っていない事を悟られているのか、それとも。
「それでオマエが楽になるんなら、俺はいつだって傍にいるから」
 告げる山陽の言葉の真意は、自分にはどうしたって計りかねた。彼の優しさはわかりやすいようでわかりにくくて、気付けば甘えている事実はもう否定することすら出来ないほど染みついてしまっている。
 どうせ自分は鈍い、と開き直った東海道は、そっと己の指先を山陽のそれに添えて、小さく息を吐き出した。

 触れた山陽の指先は、冷たい己のそれとは異なり暖かい。
 神経質に骨ばった冷たいあの男のそれとも、細いばかりで頼りない己のそれとも違う山陽の指先。
 ああ、この手が好きなのだと深く吐息を吐き出して、東海道は閉じた眼の奥が熱くなるのを享受する。この手が傍にある事が、今の己を作り出したのだと下手な理由を探さずとも納得することは難しくなかった。

 繰り返す悪夢は消えないけれど、そこから覚めた先にあるのが彼との未来であればいいと思う。
 変わり続ける時代の中で、それでもこの優しい手のひらの温度が変わらなければいいと切に願って、東海道は零れる涙を止める努力を、その手に縋ることで放棄した。




2008.07.20.

別ジャンルの原稿がヤバいのに、辛抱たまらなくて書いた。後悔はしていない。
本当は山陽サイドの話もあるけど、それは今度こそ原稿終わった後で。 書きました。