追う背中、縋る指先


 その背中を追う事を、誇らしく思い始めたのはいつからだったか。

 出会いはそれほど良い印象は無かった。
 日本初の高速鉄道は事前の情報通りの冗談の一つも通じない気難しい堅物で、内心これから目の前の相手と仕事をしてゆくことに不安を覚えたのも実情だった。
 けれども、出会いから時間を重ねる毎に互いの虚勢は少しずつ意味を無くしていった。こちらが笑顔で都合の悪い事をごまかそうとすることも、相手の泣きそうになると余計に尊大に振舞ってごまかそうとすることも、あきれるほどに長い付き合いの中でだんだんと理解していった。
 好きだ、という明確な感情の発露は記憶にない。
 少しづつ積み重ねられた感情が溢れるように、ある日突然それは山陽の中に落ちてきた自覚だったからだ。そして彼と共に走ることが、彼の真っ直ぐに前を見る背中を誇らしく思い始めたように思う。

 東海道は、彼が焦るよりもずっとよくやっている。
 雨風に負けては泣き喚くメンタルの弱さを承知の上で彼を『東海道新幹線』に据えたのは、未だ心無い連中が囁くように国鉄上層部の贔屓などであるわけがない。
 その陰口を初めて聞いた時は我を失ってそいつを殴りかけたが、当事者である東海道は力なく笑うだけで踵を返した。反論の一つもない事に憤りと疑念を覚えたが、今思えばあれは彼の中に未だ色濃く残る『つばめ』の呪縛だったのかも知れない。

 東海道の中で、未だに『つばめ』は上位者なのだ。
 かつての『つばめ』の栄光、それをはるかに上回るものを手にしている筈なのに、東海道は未だに己を取るに足りない矮小なものだと信じている。
 周囲は『東海道新幹線』という肩書きだけで己を立ててくれているのだと根本で思い込んでいて、それ故に余計に矜持を高く保とうとする。
 その能力と勤勉さこそが彼が積み重ねた歴史を保障しているだろうに、東海道の中では全てが砂上の楼閣に見えているのかも知れない。
 陰口を叩いていたかつての『つばめ』の取り巻きたちは時代の中で消えてゆき、今はもうあらぬ噂を聞く事もない。自分たちはJRを代表する高速鉄道として日本の交通大動脈を支え、時代と共に先へと進んできた。
 けれどもあの細い背中は未だにあの頃の悪夢に怯えていて、嫌いだと罵りながら理想の欠片としてあの尊大な男の面影を見ている。矛盾する内心に疲弊した心があの不安定な精神の原因ならば、果たしてあの地位にある事は彼にとって幸福なことだろうか。
 山陽には、どうしてもそれだけが分からなかった。



 新大阪の第二総合指令所。
 ほとんど東京に詰めている事が多い自分たちだが、それでも自分は月の三分の一、東海道でも一週間くらいはこちらに戻ってくる。
 昨夜遅くに最終便で新大阪のホームに降り立った後、連日報告書の山に埋もれた挙句に増便の影響でぐったりとした東海道を仮眠室に放り込み、自分も制服を着替えるのも忘れて自室で泥のように眠った。上着だけは脱いでソファに放り投げていたので難を逃れたが、スラックスは今朝慌ててプレッサーにかけても皺が取れず、諦めて新品を下ろす羽目になったくらいだ。
 それでも流石に東海道は東海道というべきか、眠い目を擦りながら山陽が仮眠室を覗いた時には既にベッド周りを整理して指令所に向かった後で、業務に対する彼の真摯な姿勢を窺う事ができる。
 こりゃ俺も早く行かないとまた不機嫌になるな、と欠伸を噛み殺しながら向かったそこで、けれども山陽が見たのはもっと心臓に悪い光景だった。

 書類を辺りに広げたまま、東海道が机の上に突っ伏している。
 その額には脂汗が浮いて、眉間はきつく寄せられて口元からは呻き声のような音が零れ落ちている。反対に呼吸は浅く苦しげで、ざあ、と血の気が引くような感覚を覚えて、山陽は慌ててその薄い肩を掴んで彼を揺り起こした。

「東海道!東海道……、東海道!!!」
「――ぁ、」

 ゆるゆると、その瞼がゆっくりと持ち上がる。僅かに涙に濡れた黒い双眸が、瞬きを繰り返して此方を認識するまでの時間がやけに長く感じる。
 彼の悪夢は今に始まったものでもないし、今の自分はその理由を知っている。
 だが、だからこそ一言もそれを口に出せず、ただまんじりと彼の意識が己が知る東海道に戻るのを待つしかなかった。

「さん……よう」

 東海道が弱々しい声で己を呼ぶ。
 それでも現実に戻ってきてくれたこと、己を己と認めてくれていることに密かに安堵を覚えながら、努めて明るく軽く状況を誰何する。
「オマエ、いったい何の夢見てんだよ。すっげー魘されてたぞ」
 ポケットに入れたままのハンカチで額を拭ってやれば、それが重くなるのがわかるほどに汗で濡れている。
 そんな悪夢など早く忘れてしまえ、笑い飛ばしてしまえばいい、と願う山陽を嘲笑うように、東海道の反応はやけに鈍いものだった。
「あれ……?」
 しかし、東海道の様子は山陽の予想よりも随分酷いものだったようだ。ぱちくりと目を見開いて(よっぽど己の状態がわからなかったのだろう)、己の左手で右手を抑えようとして、震えでそれも満足に叶わない状況に純粋に驚きを覚えているようだ。
 憤りと不審を覚えてその顔を覗き込んで、山陽は己の対応の不味さに舌打ちをしたい衝動に駆られた。
「ちょ、東海道!オマエなんて顔色してんだよ!?」
「え?」
「自覚ナシか、ねーんだなこのバカ!毎度のことなんだから学習しろよ!!」
 青を通り越して白い顔色。血の気の引いたそれは、昨夜の様子よりも更に酷い。しかも己に自覚症状がない辺りが壊滅的に鈍い。
 どうして倒れるまで気付かないんだ、と苛立ちを隠せないまま、東海道の肩を掴んで顔を上げさせる。朝の光の中できちんと確認したその顔色はどう控え目に見ても健康な人間のそれではなくて、気付けなかった自分と全く理解していない東海道の鈍さに眉間に皺が寄るのを止められない。
「ホンっトにもう、オマエは昔っからどーでもいい事は喚くくせに肝心なこと言わねーんだから……」
 反論を許すと後が面倒なので、勝手にきっちりと着込まれた東海道の制服を緩めていく。東海道が昔から無茶をしてくれるお陰で否応なしに慣れてしまった行為だが、最近は山形が適度にガス抜きをしてくれることもあって、滅多に此処までの状態になることはなかったのに。
 正直あんまりにも山形に懐くものだから寂しい、と思っていたのも事実だったのだけれど、東海道のこんな姿を見るくらいなら自分が寂しい方がずっとマシだ。コイツが笑って過ごせるのならば、自分はそれで良かったのだから。

 けれども、山陽は知っている。
 泣けずに怒ることさえせずに、諦めるように力なく笑う東海道を。何もかもが仕方のないことなのだと理不尽を受け入れる彼の背中を。
 自分は山形のように彼を穏やかに宥める事は出来ない。
 ならば、せめて。

「――泣いていいぜ、東海道?」

 己の掌で東海道の瞼を覆う。気休め程度だとは思っていたけれど、予想外にひやりと冷たい彼の体温に、余計に切なさが募るのを感じた。
 さらさらと指通りの良い彼の髪を梳いてやりながら、出来るだけ穏やかに低い声で囁いた。
「それでオマエが楽になるんなら、俺はいつだって傍にいるから」
 言い訳がましい、と自分でも思うくらいに勝手な言い分だ。東海道が気付いていないだけで、彼の肩書きではなく彼自身を慕う路線は数多く存在する。
 自分はその中で、彼の弟に次いで近い位置を偶然与えられたに過ぎず、共に走る事を許されているのも彼がそれを望んでくれるからに他ならない。

 そう、傍に居たいのは自分の方。
 出来るならば泣くのも笑うのも怒るのも、全ての感情を己の傍でと願ってしまう浅ましさを閉じ込めてでも、彼の傍に居たいと願っている。

 東海道の青褪めた唇が、深く息を吐き出す。意識してのことなのか或いは無意識か、冷たい指が山陽のそれにそっと触れて、確かめるようにその輪郭をなぞっている。

 彼を想う全てに気づいてほしい、気付かないでほしいと静かに相反する願いを抱きながら、山陽はそのすべてを閉じ込めるように東海道の名を呼ぶ。
 やがて指の隙間から零れる涙の温かさだけを、静かに己に刻み込んだ。




2008.07.30.

東海道上官にとって『つばめ』は悪夢であると同時に理想でもあるような気がする。
あと業務以外ではものっそいネガティヴっぽい気もするんだ。もっと上官に愛を…!