カナリア・シンドロームの見る夢


 君は彼の伸ばした腕の先、地を駆ける足の先。

 彼が彼で在る為に、その助けとして生まれたものの名を掲げ。
ただ肩を並べ東西を駆け抜け、彼のその背を守り、その視線の先を共に歩むもの。

 君は彼に最も近く、同時に最も遠くあるもの。
 そう、君の在る意味は、常に彼と共にあるのだと心せよ。



 そう告げられた瞬間の無力なカナリアの心は既に遠く。
今は紆余曲折を経て、山陽は彼の傍らを正しく己の居場所だと理解した。
 より速く、より正確に。より大量の輸送を、より快適に。
 たくさんの夢と希望を乗せて走る彼の背を、単なる義務以外の心で支えたいと思ったのは果たして何時が最初だったろうか。長い間共に走ってきた自分たちはもう二人きりではないけれど、それでも互いが特別であるのだと、そう知っている。

 彼と過ごした幾年月。
 それは決して甘いだけのものでも、苦痛だけのものでもない。
 ただ夢物語のように綴られていた現実の狭間で、今日も彼と見た夢は続いている。



■ ■ ■



「山陽、手を出せ」
「……は?」

 己に掛けられた唐突な言葉に、山陽新幹線はぱちりと瞬きをひとつ零した。
 しかし何度視界を改めようとも、そこにあった仁王立ちして眉を顰めた厳しい表情の東海道、という現実が揺らぐわけもなく、告げられた言葉の意味も変わる事は無い。
 言われた言葉の理由を計りかね、困惑を隠せない山陽を目の前にして、苛立たしげに更に眉間の皺を深くした東海道が声を荒げる。
「だから、手を出せと言っているだろう!」
「え、ちょ、待てってとーかいどーっ」
 ぐい、と無理矢理に書類にかけていた手を引かれて、慌てて読みかけの書類を傍らに押しやる。多少角が折れた気もしたが、目の前の気難しい王様には関係しない案件であったから、まあいいか、と0.1秒で優先順位を変更する。
 手首に伝わる、手袋越しでさえ冷たい指先。不器用な割には綺麗な細いそれはもう慣れた感触で、けれども触れられる度に己の中に起こる細波は既に日常の一部だ。
 彼と共に在る事を願う自分の心。
 かつて彼の腕の先、彼の足が駆けるその最後になれと告げられた瞬間に覚えた反発とほんの少しの充足は、今は完全に逆転して自分の中にある。今も喧嘩ばかりの自分たちだけれど、それは喧嘩も出来ないほどの断絶よりはずっといい。
 ぐいぐいと引かれた手を上に向けられ、開けと視線で促されて逆らう理由もなくそれに従う。
 ぎゅっと引き結んだ唇と、深くなるばかりの眉間の皺。どう考えても不機嫌なのか怒っているのか、或いはその両方か、という表情だけれど。
『こーゆー時の東海道って、大概いっぱいいっぱい過ぎて他の事に気ィ配れなくなってんのがデフォルトなんだよなー』
 付き合いの長い山陽には、その表情が何かに気を取られていて余裕がない故の東海道の悪癖だと理解できる。理解できるくらいには何回も擦れ違っては元通りになってきた。
 ゆるく開いた山陽の掌をじっと見つめる東海道のふわふわとはねる癖毛に口元が緩むのを必死で抑えて、山陽は彼の次のアクションをひたすらに待つ。
 やがて、何度か何かを言いかけては、手を伸ばしかけては止めていた東海道の冷たい指先が、そっと山陽の掌の上に重ねられた。
 ぱちり、と瞬きをひとつする間に、山陽の手の中に何か小さくて硬いものを押し付けて、冷たい東海道の指先はするりと離れてゆく。それを惜しい、と思う自分の心に正直になりたいのをぐっと堪え、山陽は手の中に残された小さな物体をまじまじと見つめた。

「とーかいどー、……コレ、なに?」
「見てわからんか、山陽」

 いやわからんか、って言われても。
山陽の手の中に残されていたのは、剥き身の小さな銀色の金属片がふたつ。地金は恐らくはプラチナ、そこに七宝かシェルの嵌め込みかは分からないけれど、薄灰から青へ綺麗なグラデーションを描くスクエアが配置されている。
これが何か、と問われれば、形状と個数からしてカフスボタンではないかとは思うのだが。

『……なんでカフス?俺がカフス付けるよーな服着たのって、いつが最後だっけ?』

 かれこれ、と遡っても思いだせないくらいに縁のない物体に、更に疑問は募るばかりだ。
 何せ、自分たちはJRが誇る高速鉄道である。仕事をしている限りは制服しか着ないし、数少ない休日だって山陽の私服はジーンズやスニーカーが幅を効かせるカジュアル系が殆どだ。
畏まったスーツだって持ってはいるけれども、カフスが、それもこんな装飾系のそれが必要になるほどのものはタンスの肥やしになって久しい。何せ仕事に関係するものはとりあえず制服かその装飾版的な指定礼服があれば事足りる。
 けれどそれは東海道だって同じ事で、山陽よりさらに休日を休日として消化しない彼の私服を見た事は、山陽ですら滅多にないのだ。

 365日あったら360日は仕事をしている東海道が。
 あのあらゆるセンスが壊滅していると噂の東海道が、デザイナーズブランド系のカフスピン?しかもプレゼントで?!

 これは何のフラグなんだろう、と呆然と手の中のそれを見つめる山陽に焦れたのか、東海道はきりきりと眉を吊り上げて山陽の頬に両手を当て、ぐい、と己の方へと向けさせる。
 首がごきりと嫌な音を立てたような気もしたが、呆然としていた山陽はそれを抗議するでもなく東海道の真っ直ぐな視線を見つめ返す。僅かに目元が赤い、と気付くのと、頬に当てられた指先が細かく震えている事に気づいたのは、ほぼ同時のことだった。

「とーかい……」
「おまえに!似合いだと思ったんだ!!」

 彼に問いかけようとした言葉は、逆に彼の叫び声でかき消される。途端に朱が差す白い頬と首筋は、彼の感情の防波堤が決壊した事を山陽に明確に知らしめて、咄嗟に何を言うべきか、言葉に迷う。
 そんな山陽の沈黙をお決まりのように悪い方に取ったのだろう、東海道は泣きそうな顔を必死で戒めて、自棄のように事情を叫ぶ。
「偶然見つけて、ああおまえだと思ったんだ!思ったらもうおまえに渡す以外に思いつかなかったんだ、悪いか!!」
「ばっ……!?悪いわけあるかよ!」
 ぎゅう、と手の中の小さな金属片を握りしめる。冷たいけれど何処か温かいそれは目の前の彼そのものでもあるようで、山陽は空いた逆の腕を回し、己の胸の中に抱きすくめる。びくりと一瞬震えた背中は、けれどもそれ以上の拒絶を示す事は無く山陽の腕を受け入れて、恐らくは先ほどとは別の理由で泣きそうになったブルーブラックの瞳が、意地のように山陽へと向けられている。
「ばっか、俺がオマエからなんか貰って、そこにオマエの気持ちがあるんなら嬉しくないわけねーじゃん」
 ありがと、とその耳元で囁けば、染め上げるように耳朶すら真っ赤に色づいてゆく。
 本当にこういう方面には不器用な奴だなあ、と苦笑を零せば、それまで向けられていた視線がふい、と横へと逸れた。
「……別に、気を使わなくてもいい」
 少しばかり機嫌を損ねたらしく、天邪鬼な一面が顔を覗かせているようだ。それでも腕の中から逃げない辺りは彼の精一杯の譲歩なのだろうと更に笑みを深くして、握ったカフスを慎重に己のポケットの中へと放り込んだ。
 そうして空いた腕も彼の背へと回し、先ほどよりも強く確かに腕の中に閉じ込める。
「気ィ使うとか使わないとかじゃねーよ。俺は素直に嬉しいから礼を言ってんの」
 それだけは信じて?と言葉を続ければ、おずおずと伸びた指先が山陽の背に回され、縋るように力が籠る。
「私は、ただ……おまえに見せたいと思ったんだ。まるでおまえと初めて会う日に見た、夜明けの色のようだったから」
 不器用で、けれど真っ直ぐな東海道。彼の態度が素直じゃないのは、ちょっと人より照れ屋で奥手なだけだ。覚悟を決めるかのようにぎゅっと背中で制服の布地を掴まれる感触と共に、伏せられていた東海道の顔が上げられ、その双眸が真っ直ぐに山陽のそれを射る。

「――あの日、おまえに会えて良かった。おまえがいてくれたから私は今日まで走り続けて来られたんだ」

 開業記念日おめでとう、と告げる声は震えて、普段の威厳も何もあったものではなかったけれど。それでもこの声に祝いの言葉を紡いで貰える僥倖に、山陽は今度こそ堪える必要もない事を感じて破顔する。


 泣きたいほど幸福な気分があるというのなら。
この一瞬以外に、山陽はそれにふさわしいものを知らない。


誰よりも近い場所に居る彼、けれど何処までも別の存在である自分たち。それを理解するまでの歴史は、すなわち東海道・山陽新幹線の思考錯誤の歴史そのものだ。

 重ね行く年月は未来のため。
 見る夢はただ速く、ただ走るために。

 三十七年目を数えようとしている二番目の高速鉄道。
 東海道というカナリアが先を示したその路を、更に先んじてゆくべきもの。同時に、その強靭で脆い細い背を、何からも守るべくしてつくられたもの。
 それが『山陽新幹線』であり、彼と名を連ねる唯一だ。
 たとえ年月の果てに世界が自分たち以外にも広がるとしても、その誕生を願った想いと重ねた年月に寄せた想いは決して色褪せたりはしない。

「……ありがとな、とーかいどー」

 炭鉱のカナリアの見る夢は綺麗な未来。

 たとえ志半ばで倒れたとしても、その後に続く物を守るために、その翼はその声はその体躯はあるのだと信じている。


 三十六年間を賭して築かれた自分たちの全てに感謝を覚えながら、山陽は手の中の温もりを確かめるように、更に強く抱き締めた。




カナリアによる毒物探査
カナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった 
窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。
本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。
つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。



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