After a Rain.
「うっわ、こりゃまた懐かしい……」
片付いていない、というわけでもないが、基本ものがごちゃごちゃしているのが山陽の私室の常だ。それは職場の机上も例外ではなく、彼と同僚になってから何度目か数えるのも忘れてしまった東海道の怒号に急き立てられるように片づけた、そのもののついでであったはずなのだが。
基本ものぐさだが始めてしまえば凝り性な性質が災いしたのか幸いしたのか、その勢いで私室の掃除まで手をつけてしまったのが数日前のこと。部屋の片隅から発掘される時代の遺物的なかつての流行の品から隠匿していたあれやこれや、そしてそれなりの歴史を持つ路線としての思い出の品まで、山陽自身がこの部屋にあったことすら忘れていたような物品まで見つけることとなった。
だが、本日クローゼットの奥から見つけてしまったこれは、その発見の中での極めつけの部類に入るだろう。
厚手の黒い布地、艶消しの金釦。決して上等な生地、というわけではないが、物資が不足していたあの頃からすればこれでも優遇されていた部類に入る制服。その制服に相応しい業績はついぞ上げる事は出来ないまま終わってしまったが、過ぎ去ってしまった過去という意味では懐かしく、何処か切なさのようなものさえ覚える国鉄時代、それも在来線だったころの制服を手に、山陽はすう、と僅かに目を細める。
新幹線になってからの制服は、民営化されても変わる事はなかった。そもそもあれは東海道が着る事を前提に、東海道の為だけにデザインされ仕立てられた制服だ。彼を誇りとするJR東海が彼の為だけのそれを過去にしてわざわざ新しいものを作るはずもなく、新幹線というブランドとイコールで結ばれた東海道の所属会社である東海がそのままならば他社も、と結局タグの一部と指輪の刻印が変わっただけで使い続けることとなったから、とっくに使い潰してしまった。或いは物持ちのいい東海道のクローゼットならばまだあの頃の制服も残っているかも知れないが、あれを今の制服と並べたところで差異を見つけるのは難しいだろう。
だからこそ、今こうして見つけた過去の遺物は山陽にとって大きな意味を持つ。自身の存在意義と未来の価値についてこれ以上無いほど悩み、あらゆる愚かさと救いを詰め込んだまま忘れていた過去そのもの、それがこの軍事路線の制服に象徴されるすべてだったから。
多少皺になってはいるものの、虫食いがあるわけでもないしカビているわけでもない。今でも十分着用に耐えるそれをびらっと広げて首を傾げると、頭を右側に傾いだままその制服をハンガーに掛け直し、クローゼットの扉の裏側にあるポールにひょい、と引っかけてみる。
所々に存在するほつれは自身の傷そのもので、幸い空襲による被害を受ける以前に意味を失くした自分はかつての同僚たちに比べれば随分とマシな方だ。今も消えない傷跡を抱えた同僚を幾人も知っているし、それが彼らの中に残したものの重さも他人事とは思えぬほどに痛烈過ぎた。
それでも、自分は見つけることができた。
あの日、貫くように駆けた白い車体と鮮やかなブルーラインは、篠山という名前を持つ廃線寸前の元軍事路線に明日という名の希望を与えるには十分すぎるものだったから。
感慨深くしげしげとその過去の制服を眺め、此処にあるすべてのものが時間の積み重ねの上に成り立っている事を思い知らずにはいられない。
あの頃からずいぶん変わった自分を自覚しているけれど、変遷の果てに辿り着いた自分を山陽は結構気に入っている。それは同様に東海道と積み重ねた歴史に等しくて、出会ったころに比べれば彼もまたずいぶんと様変わりしたように思う。
「つーか、あの頃はあんな不器用で意地っ張りだと思わなかったもんなー」
遠くから見るだけの東海道新幹線は、上官という肩書きと相俟って触れられない完璧な存在に思えた。実際はメンタル弱めですぐ泣きわめくしヒステリー気味だしワーカホリックで私生活は壊滅気味だし、相当困った部類に入る男だと知る今でも、彼の背中は相変わらずその錯覚を助長する。
そんな思い出の数々を振りかえりながら、古い制服を再びクローゼットの奥にしまいこもうとして、ふと数日前の出来事を思い出して浮かぶ笑みは自覚できる程に柔らかい。
殆ど私服を持っていない、という東海道の頭のてっぺんからつま先まで一気にコーディネートしてやった休日、その最後に照れたような笑みを浮かべた東海道の表情は、山陽にとってきっと特別な記憶になるだろう。
普段しかめっ面で堅苦しい東海道だが、着せてみれば意外とカジュアル系でも悪くない。制服やスーツとはなるべく共通点が無いものを、と普段自分の服を買うにはあまり足を踏み入れないような店にも入ってみた揚句、結局は着る本人の「どうせならおまえと同じような服がいい」という殺し文句にノックアウトされて、山陽が普段着を買う行きつけのセレクトショップで一式揃えてみた。
普段ジュニアが兄にと選んでいるものより若干遊びが強く、かといって山陽の私服ほど崩し過ぎてもいない、ぴしりとした姿勢の良い東海道にほどほどのラインを提示した馴染みの店員の慧眼は相変わらずで、思わず拍手をしたい衝動にかられた。己が纏う着慣れない系統の服装にぱちぱちと瞬きをして、鏡の前で確かめるようにくるりと回ってみる東海道は、山陽自身の感情込みの贔屓目もあってすこぶる可愛かった。
自身なさげに似合うか?と聞いた東海道の問いに満面の笑みっで頷いて、タグを切ってもらったその格好のままで出掛けた一日は普段と同じようなコース、同じような会話だったのにどこか特別な色を刷いていたように思う。
やっぱ格好ってそこそこ重要だよな、とうんうんと独り頷くと、クローゼットの奥に戻しかけた古い在来線時代の制服を再び手に取り、次いでクリーニングから戻ってきたばかりのYシャツの中から一枚を取り出す。流石にあの頃のシャツはもう捨ててしまったから残っていないけれど、どうせワイシャツの規格なんてそう変わるものでもないし、十分に代用できるに違いない。
テーブルの上に放り出したままだった携帯を手に、アドレス帳からとある人物へと電話をかける。相手は公休の山陽と違って未だ業務時間中ではあるだろうが、私用であったとしても彼ならば無下にすることはないだろう。
……特に、彼が面白いと判断した事ならば尚更に。
「あ、上越?あのさー、ちょっとお願いがあんだけどさ」
『山陽?なあに君、今日非番じゃなかった?』
「そうだけどさー、ちょっと面白そうなこと思いついちゃって」
『ふうん?とりあえず聞いてみようかな?』
内容を話していくうちに電話の向こうの声が楽しげな響きを帯び始め、見えもしないのにこの同僚の浮かべるチェシャ猫のような笑みを見たような気がした。
『他ならぬ山陽の頼みだもの、カメラくらい貸してあげるよ。……でも、僕に頼むって事はわかってるよね?』
「データだろ?俺はプリントくれればいいからさ」
くすくすと泡が弾けるような笑い声を傍らに、上越は山陽の唐突な願いにYESの答えを返して通話を切った。背後の方で上越の名前を呼ぶ声がしたので、ひょっとしたら立て込んでいたのかも知れない。
だったら悪いことをしたな、と少しだけ己の悪戯心を反省しながらも、思いついてしまった「悪戯」を止める気にはなれなかった。もはや手が覚えているほど慣れた仕草でメールを打ち、送信ボタンを押して閉じた携帯を制服と同じようにベッドの上に放り投げた。
返事は返ってくるだろうか。或いは「ふざけるな!」と怒鳴り声で電話がかかってくるだろうか。
どちらにせよもう遠くから見ているだけでも、背中合わせに触れられないもどかしさを嘆くでもない。山陽が呼べば東海道は振り返るし、東海道が願うなら山陽はその手を取ることを躊躇わない。
どれだけ間違えて相手を傷つけてきたかなんて、今となってはみっともなくてお互い以外には言えないけれど、それでも今の為に必要だったのだと、二人きりでは無くなってしまって、同じものには成り得ないことを思い知らされた今だからこそようやくの事で気付けたのかも知れない。
「まあ、でも……二度はいらんな、あんな痛いの」
思い返すだけで心臓が悲鳴を上げるような絶望は、今があるからどうにか耐えられる種類のもので、それこそあそこで互いの手を離していたら、ゆるゆると狂った自分はきっとこんなところに居ないだろう。
だから俺のちょっとした悪ふざけを許してくれよ、と独り言い訳するように呟いて、山陽はカレンダーの日付を辿る。次の非番は東海道と同じ日、ぐるりと赤ペンで丸をつけたその行動の意味なんて、もう考える必要は何処にもない。
互いの間に名前を付ける事が出来なかった過去は、もう遠い。
だから今は、否、出来るならばこの先もずっと。
自分たちの間に付ける名前は、同僚の他にあとひとつさえあればいい。この触れたいと願う指先の熱を肯定する、そのたったひとつさえあれば。
たったひとつの「かみさま」だった名前を、あのころとは違う響きで呟いて、山陽は制服とシャツを放り投げたままのベッドに転がった。スプリングが効いたマットの感触と、洗濯したばかりのシーツの感触に目を開けば、あの頃確かに一番近くにあった黒がもう過去なのだと無言で主張している。
少しだけ泣きたいような感情を覚えて、山陽は再び目を閉じる。己を起こすのはメールの着信音か、それとも。
それはきっと幸福という名前をしているのだろうと置いてきた過去を丁寧に仕舞い直し、ゆるゆると意識を浸食し始めた眠りの気配に素直に身を任せた
そしてそれから。
2009.08.16. 夏コミ配布ペーパー小噺再録