そしてそれから。


「おまえの考えることは、時々俺には理解できん」
 今さらそんな事になんの意味がある。
「べっつに理解してくんなくてもいーよ?」
 ただ俺と一緒に写真に写ってくれって言ってるだけじゃん。

 にこにこと明らかに何かを企んだ表情で、人の業務中にふざけた電話をよこしてくれた男は先ほどから何度も繰り返している主張をもう一度東海道に投げて寄こした。
 曰く、二人で撮った写真が欲しい、らしい。
 おまえと一緒の写真なら式典の記念写真でも高速鉄道のメンバーと一緒に写ったものでもいくらでもあるだろう、と肩をすくめて一刀両断してみれば、おまえとふたりっきりじゃなきゃ意味がない!と意味不明な主張をされるばかり。
 ただでさえ互いの顔を見ない日が無いほど共にいるのに、この上写真を必要としている山陽の意図が分からず首を傾げる。段々と不機嫌なものになってゆく東海道の渋面は明らかだろうに、山陽は変わらずに笑顔で同じ主張を繰り返す。此方に理解させる気が無い、というのは山陽には珍しい言動で、それゆえに余計に苛立ちを誘っているというのに気にした様子もないのが腹立たしい。
「わけがわからんぞ、山陽。とにかく俺はその気は無い……」
「いやいやいや、逃がさねーかんな東海道!」
 なんなんだ一体、と眉を顰めて距離を取ろうとした東海道の肩をがっしと掴み、今までに無いような真剣な表情で向き直る山陽の瞳に一瞬混じった真剣な色に気圧される。掴まれた肩に残った熱がやけにじんわりと染み込んで、気味の悪い焦燥を覚えた東海道は思わず息を飲み込んだ。
「さ、山陽……?」
「うんまあ、自己満足っちゃあ自己満足なんだけどな?」
 がさり、と下げていた紙袋の中身を示す山陽に、東海道はそれを覗きこんだ。一瞬後に弾かれたように顔を上げた東海道の表情に苦笑を零すと、片手を顔の前に立てて拝むような仕草でまたあの要望を繰り返す。
「見たかったんだよ、俺が。九州の奴が自慢げにいろいろ言ってくるのに、俺はちゃんと覚えてねーんだもん」
 だから俺にもおまえじゃないおまえに会わせてくれよ、と告げる声色に、先ほどまでのふざけた様子は影を潜めている。
だから、もう一度まじまじと袋の中身を見詰めた東海道は、こくりとひとつ頷きを返した。嫌だったのは飲み込めないまま彼の言葉を実行する事で、決して要望そのものが嫌だったわけじゃない。ただ、それを面と向かって正直に告げるには、若干東海道という人物はひねくれ過ぎてはいたわけだけれど。

 そして、ほどなく実現したのは、今はもう無い幻。

「へえ、こうやって見ると結構違うもんだなあ」
「当たり前だ、腐っても特急官だからな」
 互いの身を包むのは、旧国鉄の制服の黒。今はもう誰も着る事の無いその色が、どんな厭わしい記憶を孕んでいたとしてもこうして二人並んで立つ為のものだったなら、それはやはり意味が無い過去ではなかったのだろう。
 クローゼットの奥底に封印するように仕舞い込んだ制服は、不要と告げられた痛みと、自身を認めてもらえない眼鏡越しの冷たい眼差しを彷彿とさせたから、きっとこのままなのだろうと思っていた。
 けれど目の前で古い制服に身を包んで、けれど過去には在り得ない笑顔を浮かべる男が見たいと願うから、疼く何処かを抑え込んで袖を通した特急時代の制服は、己の頑なな心とは裏腹にしっくりと馴染んで違和感も無い。
 腕章に刻まれた「はと」の名も、多少の古傷を疼かせはしたが眼前の男に隠す必要が無いのだと、ただそれだけは救いだったかも知れない。高い襟と重苦しい金釦と、沈むような黒と。
今東海道が高速鉄道として纏う制服が東海道の為のものだというのなら、この黒い特急の制服は「つばめ」の為のものだとも言えた。だからこそあの頃は借り物のように感じていたのに、今こうしてその名を過去に押しやってから纏った黒はただただ懐かしさを湛えたただの衣服でしかなかった。
「まったく……だいたいおまえはあの時、この頃の私を思い出したのではなかったか」
「だってさー、とーかいどーちゃんが「はと」だってのは思い出したけど、あの頃そんなちゃんと見たわけじゃねーもん」
 制服を喉元まで留めて振り返れば、おそらくはあの頃の自分と同じものが此処に再現されている。背を丸め、つばめの暴虐に怯えながらも燻ぶるものを抱え続けた大陸帰りの特急官は、今思えば愚かな存在というにもほどがあったろうに。
 今でもどうして自分が『新幹線』に抜擢されたのかはわからぬままだ。周囲は皆口を揃えて東海道だからこそだ、と言ったけれど、その東海道自身は己の価値というものをこれっぽっちも信じていない。
 だが、あの日。
 まるで幼子のように泣き喚いたあの日に、縋ってでも泣き喚いてでも欲しいものがあるのだと知ってしまった。だったらどれだけ自分が愚かだろうとみっともなかろうと、足掻く以外に何が出来ようか。
「うん……格好いいな、特急「はと」」
 掛けられた声の静かな響きに、改めて見詰め直した山陽の身を包むのも、見覚えのない黒の制服だ。己の纏うものよりも裾が短く、機能性を重視した飾り気の無いそれは、かつて同じものを纏った路線を幾つも知るにも関わらず、特別なように思えたのはきっと視覚以外からの感情だ。
「おまえもな。……「篠山線」」
 明るい色の髪にそぐわない旧国鉄軍事路線の制服は、彼が辿った数奇な運命を指し示しているかのようだ。東海道が呼ぶその名前に僅かに目を見開いた山陽は、次いで泣き笑いのような複雑な色を瞳に刷いて、くしゃりと相好を崩した。
「なんだ、おまえ知ってたのかよ」
「当たり前だ。国鉄時代は俺が全路線を管轄してたんだぞ」
 今はJR東海という会社のそう多くない路線を束ねるだけの存在だが、あの頃は確かに国鉄の名を冠した全路線を統括していたのだ。上に立つ者として最善を、と様々に手を尽くしていた中には、もちろんかつての山陽――篠山線の名前もあった。
「余りの赤字に気の毒になるくらいだったからな、存分に手も口も出させて頂いた」
「うん、まあ、それはそうなんだけどね……もうちょっと歯に衣着せてもよかったんじゃないかな……」
 どーしようもない赤字は切なくなるんだよ?と東海道がかつての名前であった頃には縁が無かっただろう単語に胸を押さえて首を傾げれば、ぴくり、と東海道の目元が引き攣った。
 ああこれは説教コースかなあ、とへらりとした笑顔の裏で覚悟を決めた山陽の心と裏腹に、特急の制服に身を包んだ東海道は僅かに目を細めただけで、ぽすりと山陽の胸に頭を預けた。
「とう、かいどう?」
「……覚えている。ちゃんと」
 か細い、けれど互いしかいない部屋ではちゃんと耳に届く音の声。だけど、と繋げられた東海道の次の言葉に、山陽はたまらずその細い背を掻き抱く。

 おまえが此処に居る限り、ずっと覚えている。
 かつてのおまえも、今のおまえも、全部だ。

 ぼそぼそとした音の割には格好良いその言葉に、山陽は伏せたまま首筋まで赤く染める東海道の頤を手に取り、何かを言いかけた唇に己のそれをそっと重ねた。



 その後、妙に嬉しそうに日に何度もパスケースを眺める山陽と東海道の姿が認められたり。
首都圏の鉄道の間で昔の制服で記念写真を撮るのが流行したり。
 妙に上越が上機嫌で歩いていたりもしたのだけれど、とりあえず今の二人は何も何も知る由は無く。


 差し当たって撮影前にいちゃいちゃしたって罰は当たらないよな、たぶん!と己に言い聞かせながらキスを堪能する山陽と、写真を撮るのではなかったろうか、と少しだけ疑問符を張り付けながらもキスの甘さにどうでもよくなりかけている東海道。
一瞬だけ離れた唇と絡む視線に、誘われるようにもう一度互いへと手を伸ばしたのだった。

END




2009.08.16. 夏コミ配布ペーパー小噺再録