Yellow Holiday
オオボケ探偵は、相変わらずアホだ。
ひくり、と引き攣る口元を必死で堪えて、快斗はぎゅっと拳を握り締めた。それがふるふると震えるのを止められないのは、己の感情コントロールが未熟な所為だけではないのだと信じたい。
5月の大型連休。気が付けばそれなりに親しい友人として付き合うようになっていた工藤新一から、遊びに行こうと誘いがあったのは昨日のことだった。
新一は、どうにもボケた男だったが友人としては酷く付き合いやすい。一を語れば十を理解し、快斗が振った些細な言葉を十二分に理解して対応する。
しかも、快斗の正体を理解した上での友人だ。あくまで知ってはいるが知らない、というスタンスを崩さない白馬とはまた違った気楽な関係に、まあ少しくらいはこのボケっぷりに付き合ってやってもよかろうと、絆されていた一面もなかったとは言い切れない。
とはいえ、別に新一のボケの全てを容認するつもりなど、全くなかったのだが。
現実とは、得てして過酷かつ斜め上なものである。
誘いに応じて訪れた春の工藤邸は、相変わらず一人暮らしには無駄なほどデカイ屋敷だ。
ついでにそのだだっ広いリビングの一角、工藤新一の定位置とも言えるソファの上に彼の姿は珍しく無く、快斗はおや、と片眉を上げた。
快斗が幾度か来訪したそのいずれにおいても、新一はそのソファに陣取って分厚いハードカバーを広げていた。(文庫や新書は携帯専門であるらしい)
だからこそ、珍しい状況に室内をぐるり、と眺めて、快斗はその光景を見た瞬間に、くらりと一瞬意識が遠のく。
目の前でぽけえっ、と壁の一点を見つめ、ふらふらと肩が左右に揺れる。窓際のラグの上でぼんやりと座り込んでいた新一は、ようやく此方に気付いたのか、にぱあ、と笑って小首を傾げた。
その目元は僅かに紅に染まり、大きな青い眼は潤んで光を増していた。更に言うなら傾げた頭はゆらゆらと揺れて、不安定なことこの上ない。
「あー…快斗だ」
「…こっんの、オオボケ探偵…!」
ぶるぶると拳を震わせても通常通りに殴らないのは、このオオボケ探偵が通常ではないからだ。というのも。
「あれ…快斗がふたり…さんにん?すげー、増えたー」
新しいマジックか?と何だか呆けた口調で呟くにあたって、とうとう快斗の心のどこかがぶちん、と千切れた。
「言うに事欠いてそれか、このボケっ!!」
「あ?」
つかつかと歩み寄り、ぐい、と肩を引く。
それだけでゆらり、と傾ぐ身体に、恐らくは本人が一番驚いたのだろう、ぱちりと目を見開き、ぼうっとした表情で快斗を見上げた。
「…あれ?」
「あれ、じゃねーよ!アンタはな!」
ぺしり、とおでこを叩けば、予想通り。
「今、思いっきり熱出してんだよ!」
思わず手を離してしまいそうになるくらい熱い、肌。少し汗ばんだ生え際にぺたりと産毛が張り付いて、吐息がやけに湿っている。
もう、他に考えようも無いほどに立派な病人だった。
「ねつ?」
「あーそー、発熱してんの。たぶん風邪かなんかじゃねーの?ホラ、寒気がするとか身体がだるいとか関節が軋むとか、なんかあるだろ自覚症状が」
「…む?」
やけにゆっくりとした動作で、右に傾いでいた頭が左へとことりと逆に落とされ、その状態で随分と固まった挙句。
「…どうりで、今日はオマエが三人に見えるはずだと」
「そんなになる前に気付けよっ!」
ぺちん、と額を軽く叩いて、ぼうっと座り込んでいる新一を担ぎ上げる。体格は同程度、筋肉もそれなりについているはずの身体は、熱の所為か異様にぐにゃぐにゃしていて暖かく、快斗は頭痛を覚える己を抑えきることが出来なかった。
なんでこう無自覚なのか、と痛むこめかみと怒鳴りつけたい衝動を堪え、抱えた病人をソファの上に放り出し、シャツのボタンを上から3つ目まで外し、上気した頬に指を当てればほにゃりと相好が崩れた。
「…つめてー」
「そりゃ、アンタが熱いんだって」
肩を竦め、勝手知ったる他人のリビングをごそごそと漁り、恐らく当人ですら存在を忘れていたに違いない救急箱を引っ張り出した。
無駄に消毒液だの包帯だのは消費するくせに、内服薬にはとんと疎いか隣家の化学者に頼りきりなのだろう。非常に消費期限が微妙な市販薬の数々に渋い顔になりながら、それでも最低限これだけは、と昔懐かしい水銀式体温計を引っ張り出した。
「ほら、熱計れよ」
「…めんどい」
しかし、差し出した体温計をちろりと横目で眺めただけで、新一はつまらなそうにふい、と視線を逸らす。流石は面倒だという理由だけで有象無象の家事を溜め込んで、冬の気配も去りやらぬ時期から色とりどりのカビをとても言えない場所に大発生させたり、明らかに調理手順と材料選択を間違った料理を平然と作り出し、なおかつ美的センス皆無な盛り付けで人前に出せるだけのことはある。
プライベートでの長くない付き合いの中であるが、それをこれ以上なく知っている快斗は溜息をひとつ落とすと、それまで堪えていた拳を遠慮なく新一の頭上へと振り下ろした。
「黙らっしゃいこの駄目探偵!」
「みぎゃっ!?」
あまりの痛みに反射的に己の頭を抱えたその隙を逃すことなく、快斗は鮮やかな手付きでその脇の下へと体温計を突っ込んだ。ガラスの冷たさに強張った腕をぐいと引いてそれを固定し、涙目になった新一の額にぺたりと己の手のひらを当てる。
「まったく…自分が病気なのもわからんかね?」
「……。」
もはや反論のしようもなく黙り込んだ新一に肩を竦めると、快斗は再び救急箱の中身に向き直った。
どの程度の年月を経たものなのかはわからないが、一応使用可能だと思しき冷却シートを取り出すと、ぺりぺりと裏のビニールを剥いでぺたりと形良く秀でたおでこに貼り付ける。
「この頭の中身がアンタの商売道具だろ、名探偵?」
大事にしろ、と呟く声に、新一は小さく目を見開く。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、熱に潤んだ青い双眸がひたりと快斗の顔を見つめ、かさついた唇からは淡い吐息が零れ落ちた。
何かを反芻するように、吐息にはかすかな音が伴っていたが、残念ながら快斗の驚異的な聴力や読唇術を以ってしても判別は叶わず、ぼんやりとした新一の反応に頼るしかない。
けれども、新一はぱちりと瞬きをひとつ零した後には、ただじっと快斗の顔を見つめるだけで、それ以上の言葉も行動も起こそうとはせず、その無反応に快斗は逆に不安に覚える。
けれども、何か気に障るようなことでも言ったろうか、と怖れに手を止めた快斗の手を熱い手で握り、新一はほわりと小さく微笑った。
「……ん」
こくり、とひとつ頷いて、まるで幼子のように無邪気に笑うその表情は、とてもあの辛辣で悪魔のような探偵とイコールでは結べない。けれど。
それもまたこの『工藤新一』の一面であると、快斗は知っている。
鋼鉄のようなゆるぎない『名探偵』の内側に、脆くて柔らかくて暖かい『新一』そのものが眠っているのだと、快斗は対峙のうちに、短い友人としての付き合いのうちに知ったのだから。
だからこそ、どうしようもないと呆れながらもこの不器用な友人を突き放せないのかも知れない。ぎゅっと己の手を握る見事な風邪っぴきを目の前に、快斗はもはや苦笑しか浮かべることは出来なかった。
「……いいから寝てろよ。
ここからアンタのベッドまでぐらいなら運んでやるよ」
江古田から米花まで担いで運んだあの夜に比べればそれくらいどうということもない、と告げる声が照れを含んで嘘臭いことなんて、とうの昔に理解できていたけれど。
それでもひどく嬉しそうに頬を綻ばせる、快斗にだけは隙だらけな探偵を見ていると、それもいいかと思えるようになった。
それは、何だか庇護欲に似た暖かい何かで、長いこと隣の家の少女に抱いていたそれに近しくて決定的に違う。
二人共に、どこまでもあけすけに互いを語る事は出来ない。自分は怪盗KIDとして、相手は名探偵・工藤新一として、そこには互いが足を踏み入れられない場所が存在している。
けれども、それとは別の場所で、新一は快斗に自分を曝け出し、快斗はそうして寄り掛かられることを由とする。依存とも共栄とも違う何か、言葉にし難い安息の理由は、今の自分たちには答えが出せないけれど。
「…昨日まで、例の誘拐事件で走り回ってたんだろ?」
今朝、トップニュースで列島を駆け巡った事件。
某企業の重役の孫娘が誘拐され、救出された。
それだけでなく、犯人がかつて誘拐された少女の祖父が勤める企業と、それと癒着していた政治家たちによって、社会的に陥れられた過去を持つことが通常では有り得ないほどの早さで明らかにされ、事件は電波ジャックのようにテレビ画面を占拠し、号外を撒き散らした。
結果的にこの事件は、政界と財界を大きく巻き込んだ汚職を発覚させ、戦後最大とも言われる数の有象無象の逮捕者と被害者をたたき出すこととなった。
この事件の発端、誘拐された少女の救出のみならず、忘れられていた過去の事件の解明に一役買ったのが、名前こそメディアには出ないもののこの目の前の探偵なのだと、独自の情報ルートを持つ快斗は知っていた。
発生から実に三日、ゴールデンウィーク前半を丸々その事件に費やした新一が疲れていない筈もなく、少しくらいは甘やかしてやってもいいだろうと思って訪れたのだけれど。まさかこれほどの高熱を出しても気付かず、ボケっとフローリングの上に座り込んでいるとは予想もしなかった。
『…別に、そこまで斜め上の行動はしてくれなくてもいいんだけどな…』
事件現場でも快斗の予想もしない行動と、予知にも近しい現場把握能力で自分を追い詰めてくれる探偵だが、日常においてはそれはボケた方向でのみ発揮されるようだ。
友人付き合いを始めて日は浅いが、こんな輩と長いこと付き合ってこれた、否未だ付き合い続けている毛利蘭や鈴木園子は偉大であると、心の底から思う。
工藤新一と言う男は、どこまでも普通の思考回路では図れない男だ。自分もとっ外れている自覚はあるが、新一はその自覚すらないのだからタチが悪い。
ぼんやりと幼い表情でじっとこちらを見上げる新一が、聡いはずのこの男が、どうして気付かないのだろう、と快斗は苦笑する。
「……此処に居るよ」
静かに告げれば、ぱちりとひとつ瞬きを落として、次いで晴れやかに笑顔を浮かべて新一はゆっくりと瞼を閉じる。たぶん限界だったのだろう、まるで墜落するように、後はぴくりとも動かずに眠っていることが知れる呼吸へと移行していた。
熱が高いこともあって、決して安らかな寝息、とは言い難かったけれど、それでもリビングで気絶するように墜落するよりはずっとマシなはずだ。
快斗が新一に出来る事はそう多くない。何が良くて快斗を傍に置いているのか、いいや置こうと躍起になっているのかさっぱりと理解は出来なかったが、それでも其処は居心地の良い安息の場だった。
だって新一は認めてくれる。時折自分自身ですら何処にあるのか分からなくなる『快斗』を、いとも簡単に見つけ出して笑ってくれる…だからこそ、『名探偵』は『名探偵』なのだ。
ふにゃあ、と猫の子のような気の抜けた寝言をひとつ漏らして、新一が寝返りを打つ。
きっと当人はこんな事を思われているなどとちっとも思ってはいないだろう。
どうしようもないポカをやらかして、何度と無く快斗に叱られては涙目になり、それでも同じような事をずっとずっと繰り返してきた男だ。
快斗の許容には気付いているだろう。けれど、それが此処まで深いものだと気付いているかどうか。
「アンタが望んでくれるなら……オレは、此処に居るよ」
ふと浮かべた笑みは、きっと情けないくらいに甘ったるいものに違いない。無防備な寝顔を躊躇いなく向けてくれる、それほどには内側なのだと歓喜を覚える自分はいったいどういうわけだ。
…まあ、いい。
理解不能なのも今はそのままでもいい。
今、自分は此処に居て、新一も此処に居る。
火照った赤い額にかかった髪の毛を払ってやりながら、快斗はゆっくりと目を閉じて、天井を仰ぐ。
「おやすみ……名探偵」
カーテンごしに柔らかに落ちる午後の陽光を弾くシーツの白に、快斗はそっと右手を、沿わせた。
そしてそれから。
……しっぱい、した。
目の前で眠りこける、自分の大好きな人の寝顔に尋常でなく驚きながら、工藤新一が眠りから覚めてまず考えたのはそんな事だった。
規則正しい寝息と、ずいぶんと日が傾いたのだろう、オレンジ色をした日の光を映したくしゃくしゃの白いシーツ。身体中がどこかべったりとしている気がするのは、眠りに落ちる前に快斗が熱があるだのなんだのと言っていた所為だろうか。
だって、本当に気付かなかったんだ。体調が悪いだなんて、熱があるだなんて。
快斗とこの日に会う約束をしていたのは連休に入るずっと前からで、むしろこの約束の為だけに問答無用で事件を解決したようなものだ。
スピード解決だけを考えていたので、明らかになる情報の操作とかそんな端のことまでは全く考えておらず、予想以上に大事に発展してしまったようだが知ったことか。
とにかく、工藤新一は約束の日付に家に帰り着き、快斗を迎えることしか頭になかったのだ。
…だから、妙に動悸が激しいのも汗ばむのも緊張しているからだと、目の前がぐらぐらするのもここ数日の不摂生の所為だと、快斗に熱があるのだと伝えられるその瞬間まで、全く思い当たりもしなかった。
きっと、無意識のうちに気付いてしまったらこの約束が果たされないことを知っていたのだろう。呆れながらも快斗は此処に居ると言ってくれたし、まだ、今日も終わっていない。
完全な失敗じゃない、と己に言い聞かせながら、どきどきとがなりたてるように鼓動を刻む心臓と、不規則になる呼吸を押さえつけるように息を飲み込む。
たった一言。
たった一言が欲しいだけだ。
他に何も要らない…と言ったらまあ、嘘にはなるが、とりあえず自分はそれで満たされる。だから。
「……おきろよ…かいと」
ベッドの片隅に上半身を預けて眠る快斗の、柔らかな癖毛をそろりと辿る。気配に聡い快斗の事、触れる前に起きると思ったのに、その瞼はぴくりとも動かなくて、嬉しいのか困ったのか自分でも良くわからなくなる。
早く起きて欲しいのか、それともこのままで居て欲しいのか。
タイムリミットは本日中。
「……かいとー」
ゆさゆさ、と揺する手がぎこちないのは、まだ迷っているからだろうか。
5月4日は、あと7時間。
果たしてこの些細な望みは叶えられるのだろうか、とほんの少しだけ弱気になりながら、新一は眠る快斗の肩に、もう一度そっと手を伸ばした。
2007.12.12.
ついでにこのとき(5/3)のめもぱっど
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