硬質定義
「世界を見下ろす気分はどうだ?」
夏のぬるい風に身を晒し、目を細めて地上を睥睨する怪盗へと告げられた台詞は、不穏な内容の割りに静かで、抑揚のない平坦な声色をしていた。
ゆっくりと振り返った先に、立つのは知性の奇跡。
あらゆる真実を求め、謎という謎を解き明かすことこそを糧とする、怪盗が認める唯一無二の名探偵の姿だった。
同じく、ぬるい風に髪を乱し、真青の瞳で射るようにこちらを見据える姿は、格好さえ除けば、此処に立つ己と鏡写しのようにそっくりな存在。
「…これはこれは、名探偵」
「よ、KID。首尾は…上々ってとこか」
「…いいえ、私にとっては意味のない事です。重ねたあらゆる全てが、無価値に等しいのなら、これもまた負け戦のひとつに過ぎない」
よく通る声で告げる言葉は、偽ることなき怪盗の真実だ。それをこの名探偵が認めても認めなくても、そこにある真実だけは覆しようもなく、いつかこの希代の名探偵がたどり着いた真実の果てに明らかになるだろう。
月に翳したダイヤモンドに反射するネオンと月光。
白い手袋越しの手の中にあるそれを一瞬強く握り締め、身じろぎもせずこちらを見据えたままの名探偵へと歩み寄る。
「始まりは些細なもの。けれども私には理由がある」
「…だろーな」
予想外に肯定する声に片眉を跳ね上げて足を止めると、それを促すように名探偵の方から一歩踏み出す。かつり、とローファーのつま先が立てる硬質な音が、静か過ぎる夜の中に響いて溶けて。
「オマエの理由は知らない。いつかは解き明かしてみせてやるけれど、今の俺にはわからない。
それでも、オマエの理由は俺を裏切らない」
勝手な推測だ、と告げる名探偵の、けれどその眼差しはそれを裏切っている。確信をしているのだろう深い深い蒼の双眸に、怪盗は薄く唇に笑みを刻んだ。
「…これだから、貴方は」
止めていた足を再び動かす。詰めた距離は触れる事のできる場所にある名探偵の手を取って、その手の中に今夜の獲物であったブルー・ダイヤモンドを握らせる。
「征服されざるもの。最硬度の輝石。あるいは、もっとも脆い何がしか。
私は…そして貴方も。そう、我々はそういう存在です。好むと好まざるとにかかわることなく」
月光に蒼く輝くそれを無感動に見下ろして、名探偵はひとつ息を吐き出してそれをポケットの中にころりと仕舞う。価値は計り知れないビッグジュエルに対するには少々手荒い所作ではあったが、この探偵にとってもこの石に石以上の価値はないのだろう。
「…世界を見下ろす気分はどうだ?」
二度、繰り返された問いに怪盗は黙ったまま探偵の顔を見返す。何もない、いっそ見事なまでの無表情。怪盗が得意とするポーカーフェイスの笑顔の如く、何も悟らせない表情の裏にある感情を、けれど違える要素は二人にはないから。
「…いいえ、私が見下ろすのは、世界などではなくて」
視線を地上に向ける。道路を行き交う車のテールランプ。夜景を彩るビルの光。ネオンライト。
それら全てが世界であり、また虚構でもあり。
「貴方が見るのも、世界ではないから」
この手が触れるものが真実なら、これほど迷わなくても良かった。この眼が見るものが真実なら、これほど痛みを負わなくても良かったのに。
「…我々には、『世界』は遠すぎる」
一切の賞賛も罵倒も届かない。まるで一枚壁を隔てた場所にいるかのような錯覚。現実感のないそれは、肉体を伴わない仮想現実にも似て虚ろで。
「いつか終わるのだと信じている。けれど、終わりの瞬間にはひょっとしたら自分もまた終わるのかも知れない」
「…ああ」
ほんの少しだけ走った、痛みを堪えるような眼差し。
唇が震えたそれを慰めるように辿る白い手袋越しの指を、けれど探偵は拒まなかった。そっと触れる正絹の柔らかな感触に瞼を下ろした彼の顔色は予想以上に白いのだと、KIDはどこか乖離した思考の中で思う。
世界の一切から切り離されて、二人だけの境界線は踏み越えてしまったのか、いまだ留まったままなのか。
それすら判断しかねるままに、触れた箇所の体温だけが毒のようにじわりと滲んで、溶けた。
2005.09.05.
H O M E *