slow [ オフ本書き下ろし再録 ]
駅から待ち合わせの場所へと急ぐ靴音が、ぱたぱたとリズミカルに早くなっていくことには気付いていたけれど。
弾む吐息が白くなるのも、段々と急ぎ足から駆け足に近いものになっているのもわかってる。
だって仕方ない。止められない。
ココロは何処までも君に向かっていて、一分一秒たりとも惜しくて仕方ないんだから。
ばたばたと駅前のアーケードを駆け抜け、そろそろ暮れかけた夕日を背負って辿り着いた広場。前衛芸術らしい謎のモニュメントが幾つか配置された石敷きの中心部、待ち合わせによく使われるぐるりと円形に配置された花壇の一角。
そこに腰を下ろしていた大好きな恋人が、軽く手を上げながらにこりと微笑む。
「急がなくても良かったのに」
「バーロ、こんな日に急がなくて、いつ急ぐんだよ」
黒のショートコートと、細身のブラックジーンズ。垣間見えるタートルネックのニットはオフホワイト。モノクロで統一された一見地味な色彩が異様に似合うのは、この男の存在そのものが華やかな故だと思う。
月下を駆ける時に纏う白も無論似合うけれども、落ち着いた黒も彼にしっくりと似合う。どきりと心臓が跳ね上がる感覚に思わず胸元を押さえて、新一は少しだけ視線をずらした。
「悪ィな、遅くなった」
「ううん、そんなに待ってないよ」
心配しないでと囁いて、くしゃりと頭を撫でる手のひらが優しい。思わず着ているチャコールグレイのダッフルコートの裾をぎゅっと握り締め、新一はこくりとひとつ頷く。
この恋人と付き合うようになって、ほぼ一年。
いろんな事があって、いろんな事を知って、前よりもっと大好きになって。
抱え込んだ『好き』の言葉だけがココロをカラダを染め替えて、いつかそれだけでいっぱいになってしまう気さえする。
ぷるぷると頭を振って馬鹿な思考を追い出すと、にっこりと差し出された彼の手を取る。落ち着いた黒…否、一見見紛うほどとてもとても濃い藍色の手袋をしたその手は、少しだけ外気に晒されて冷たくて、だけれどそれ以上に優しい。
「行こう?こんなところにいつまでも居たら、冷えちゃうよ」
「…そりゃ待ってたオメーの方だろ…」
待ち合わせに遅れたのは自分。
待ち合わせよりも早い時間から待っているのが常の彼。
辛いことや悲しいこと、全部を押し込めて悟らせないポーカーフェイスが得意な彼は、いつだって新一にそれらを気付かせないように振舞う。
気付きたいのに、責めていいのに、黒羽快斗はそれをしない。
だから新一に出来るのは、それを知らないふりをしてさりげない距離で甘やかすことだけだ。
…もっとも、それも新一が甘やかされる場合の方が多いわけだが。
引かれた手をぎゅっと握り締め、新一は快斗をゆるりと見上げる。楽しそうな笑顔と華やかな街の空気。
そろそろ灯り始めた街の灯りとイルミネーション。空気に溶けるように流れる音楽。はじける泡のような人々のさざめき。
既に定着しきった異国の風習は、もはや定例行事として皆の意識に刷り込まれ、それは二人とて例外ではない。
特別なもの、という意識は、互いを認識した時から生まれたものかも知れないけれど。
「とりあえずー」
「とりあえず?」
にこにこと新一の手を引いてぽくぽくと歩く快斗の言葉に、ことりと首を傾げて問い返す新一。握ったままの手から伝わってしまいそうな心臓の音が煩い。
それに気付いているのか気付いていないのか。
ぎゅっと握った手を更に強くきつく引いて、快斗は晴れやかに笑って告げた。
「目的地に、行きましょーか?」
こくり、と頷いた新一の肯定に晴れやかに笑って、快斗はクリスマス一色の街を歩き始める。
繋いだままの手が少しずつ暖かくなる事に、新一もまた唇を綻ばせて手を引かれるままに足を進めた。
□ □ □
にあ、にぃ。にゃー。
周りを取り囲む毛並みの整った数匹の猫たち。
黒かったり白かったりぶち模様だったり三毛だったり。縞とか茶トラもいたりする。サイズも大きいのから小さいのまで選り取り見取り。
人見知りの欠片もなく擦り寄ってくる小さな生き物は相応に図太く可愛らしく、おずおずと伸ばした指先にすりりと顔を寄せてくる。
「わ、わわ」
「あ、新一、猫にも人気者?」
くすくすと笑う快斗の声。狭い部屋の中央に据えられた椅子に腰掛けて、ちょろちょろと寄ってきた数匹を構っていただけだったのに、気がついたらそこらじゅうを猫に囲まれて、身動きすら取れない状態。
細身の黒猫を抱いた快斗が覗き込んだ顔は、きっと情けなくなっているに違いない。小さくてやわらかくて乱暴にしたら壊れそうな小動物を相手に、さしもの名探偵もどうしていいのかわからず眉をへの字にして縋るように恋人を見上げる。
「か、快斗〜、助けろよっ」
「なんで?いいじゃん、構ったげれば」
どうやらこの状況から助ける気がないらしい快斗に、更に新一の眉が下がる。快斗に抱かれた黒猫がにあ、と一声鳴いて、ぺたりと新一の頭に肉球を当てた。
「おまえもかよ〜」
「はは、すんげえ好かれてる?」
とある商業ビルのワンフロア、都会のオアシスを標榜し、飼えない人間でも猫と戯れられる、好きな人間には夢の空間。
しかし、現在そこにあるのはフロア内の猫たちに全員集合状態で取り囲まれている少年二人、という異様な光景。本来猫と戯れに来たはずの他の客たちは、この状況に抗議するでもなくうっとりと見目良い少年二人に見とれている有様だった。
やや困惑気味の少年の膝の上には灰色のロシアンブルーと三毛猫、そして白猫が更に乗っかろうと、てし、と膝に足をかけて場所を探している。
足元にはでっかいメインクーンが陣取っており、その周囲を白黒ぶちの毛足が長い猫がうろうろしていたりする。
更にもう一人の少年の腕に抱かれた黒猫はご満悦、といったようすで喉をごろごろ鳴らし、その足元にも数匹がにゃーにゃーとまとわりついている有様。
そんな状態では通常彼らがうろついているフロア内はがらんとしていて、周囲の壁に同一化しているケージに残っている子たちも、どこか羨ましげにかりりと壁を掻いていた。
「なんで俺んとこばっか…」
「さあねえ、好かれてるんじゃないの?」
心底困り果てたように猫に構われているのか構っているのかわからない状態の恋人の泣き言に薄く苦笑を漏らす。
無論、その背中に飼ってる猫から同類の匂いがするのでは、とは賢明な快斗は口にはしなかったが。
美人で愛想の良い猫たちに囲まれた名探偵は、その滅多に見られない困惑した顔と共に激烈可愛らしい。いつでも新一は美人で可愛くて格好良いが、今は明らかに『可愛い』の比重が大きい。
故に快斗は、滅多に見られないそれを素直にそれを堪能する事にした。おそるおそる猫の頭を撫でる新一とは対照的に、構われる猫の方はすこぶるご機嫌である。
「…な、俺の恋人は可愛いよな?」
「にあ」
言葉がわかるとも思えない腕の中の黒猫にこっそりのろけてみると、返事のように彼女は一声鳴いた。どうにも嬉しくなって頬ずりしてみると、更に「うにゃ〜v」とご満悦、らしい。
黒羽快斗は、可愛いイキモノを堪能してそりゃあもうシアワセだった。
…とはいえ、無論この状況において周囲に『あの子たち、二人揃って猫に囲まれてて可愛い…v』と思われている事には気付いていない。どうにも似たもの同士のカップルだが、彼らに自覚がないのは毎度の事だろう。
ほんのりぴんくな空気を周囲に振りまきつつ、眼福を体現したかのような二人+猫の群れ+観衆の構図で、時間はゆっくりと過ぎていった。
□ □ □
「にしても…珍しいトコ知ってんな、オマエ。ちょっと意外」
戯れているうちに閉館の時間を迎え、それでも一向に離れようとしない猫たちに係員のお姉さんがおやつをばら撒きターゲットの注意が逸れた隙を狙って、その空間から脱出した二人である。
さてこれからどうしようかと当てなく街中を歩きながら、新一は小動物の温もりに慣れた手を少し寂しげに振りながら、傍らの快斗を覗き込んだ。
くすくすと笑みを零して新一の髪の毛に絡まった猫の毛を取ってやっていた快斗は、その問いに少しびっくりしたように目を見開く。新一の好奇心に溢れた眼差しに他意がない事を一瞬で見て取ると、うっすらと苦笑を刷いて独り言のように呟いた。
「猫も犬も好きなんだけどさ〜、俺には可愛い助手たちがいるからねえ。飼うのは無理だから、たまに遊びに来んの」
郊外には、犬がいっぱいいるこういう施設もあるんだよ、と告げる快斗の声。少し弾んだように思えるそれは、たぶん二人の間にある楽しい空気が成せるものだと思う。思う、のに。
「じゃあ、また一緒に行こうぜ」
「…俺と二人で?」
「そう」
あ、でも灰原誘ってもいいよなー、アイツも結構こういうの好きだから、と笑う新一の横顔に、温まる、そして同時につきりと痛む胸。走る正反対の感情に、思わず快斗は胸を押さえた。
本当に、どうかしている。
思わず無意識に閉じた瞼の上に、少し冷えた指先が置かれて、思わず目を開けた。
「…快斗?」
「あ」
相反する感情は、慣れ親しんだものだったはずだ。
常に快斗の中では別の誰かが幾人も存在していて、異なる可能性と意思と指向性を提示している。思考という名の作業は意識の続く限りは繰り返される日常であり、それはたぶん目の前の名探偵も同様だろう。
だからこそ、失敗したと思った。
たったこれだけで気付かれる、快斗の奥底まで見通される。何もかも晒せと言われているわけではないけれど、隠したいのか気付いて欲しいのか、自分でも曖昧な場所はきっちりと暴いてくれるだろう。
実際、何かを気遣うような眼差しと共に頬を撫でた指先から、労りの気配が滲んでいる。
「…かなわない、なあ」
「…独占欲が強いのは、お互い様だからな」
別に、名探偵の隣家の少女が嫌いとかそういうコトでもなくて。単純に二人の間に何かが入り込むことをよしとしない。
主に新一の方がそういった意識が強いけれども、快斗にも無論ないわけではない感情。普段は、鉄壁の理性と社会意識によって押し込められている本音の部分では、二人共に互いだけになることを望んでいるから。
「オマエが望むならなんでも捨てられる。オマエが俺の為にそうするように」
「…望まないよ、そんなコト」
とりあえず今は、とは喉の奥に仕舞った言葉だったが、この聡い名探偵はとっくに気付いているだろう。その言葉に、想いに覚えた暗い歓喜は、きっとこれから先いつまでも付いて回る感情だ。
数日前、彼を抱いた。
キスだけでも触れるだけでも満足できない飢えた部分を埋めるように、『工藤新一』の一番奥深くまで触れることを願った。
拙い自分の手に指に唇に、新一が零した涙の一粒、声の一欠けらすら甘く感じられた時間は永遠とも思える幸福の只中だったのに、それでも新一はそれを許容する。
優しさでなく、強さでもなく。ただただ相手を欲する浅ましさと醜悪なほどの独占欲によって。
けれども快斗はそれを許容するし、同じように新一に求めるだろう。
だからこそ、黒羽快斗は思い知った。KIDの仮面は大義名分にすらならない事を。
この、抱えてしまった感情の大きさと、そのために傍らの人物が必要不可欠であることを。
二人の間に横たわる、見ないふりを続けてきたものがあった。
それはたとえ白い衣装を脱いでも、日常の中に居ても、この相手を想う限りは決して消えない、叶えてはいけない願望。
「…大丈夫だよ、そこまでは思いつめてない」
ただ、時々。
ほんの一瞬、囚われることがある。
それは、怪盗なんていう裏稼業を始める前から快斗の中にはあったもので、けれど最近は加速度的に頻度が上がっていることにも気付いていた。
名前をつけてしまえば、歯止めが効かなくなりそうで怖かった。けれども名前なんてなくても、その衝動はやっぱり快斗の中にあるものであって、決して消え去ることは無い。
壊れ物を手にした人の心理そのままに、壊れ物とは程遠いよいでいて近い、大切な名探偵を、見ている。
「大切なんだ、失くしたくないんだよ。だけど大切にしたいと願う俺こそが、たぶん新一を一番傷つける」
喉の奥から搾り出すように吐き出された声は、このエンターティナーには似合わないほどに力なく小さく掠れていて。小さく震える語尾に、唇に、新一はつい、と手を伸ばして快斗の奔放な癖毛をくしゃりと撫でた。
「…んなの、たりめーだろ」
俺だって、許さない。
オマエを甘やかすのも傷つけるのも、俺ひとりでないと許さない。それはそのまま自分と相手に返ることでもあるから、とっくに何もかもを決めている新一は晴れやかに笑う。
「許容と安息は罪悪だと思うか?」
「…」
答えられずに沈黙する快斗の瞳が新一を射る。
静かな、夜のような、けれど力がある双眸は、新一の意図を明確に理解したが故の鋭さで。
ふっとそれが緩む瞬間が、工藤新一はたまらなく好きだった。
「…ごめん」
「そー思うならさっさと足を動かせ」
日が落ちれば、とたんに冷え込む冬の夜。
ことりと傾いた太陽は直ぐに水平線の彼方へと消えて、空を茜色から紫色に染め変えて、今はもうとっぷりと暮れた夜色。
ふうわりと香る冬空の匂いは、つきんと張り詰め澄んで快斗に慣れた高層の大気を連想させた。
伸ばした手の先にある、君の手のひら。
冷たいけれど暖かい、手袋越しのそれこそが、自分を自分として留めるすべてなのだと、二人ともがきっと気付いている。
愛情とか恋情とか友情とか、それはカテゴライズすることが難しい感情で、本能と理性の両方で始めてしまった関係だったから、今でも二人の間にあるものは複雑怪奇でひどく単純。
単に甘いだけの恋が出来ればよかったかも知れない。
心安いだけの友情が築ければよかったのかも知れない。
だけど、もう二人の間に構築されてしまった感情は愛情であり友情であり敵対心でもあり信頼でもある。何もかもを飲み込んで、『たったひとり』を定めてしまった弊害のように、二人だけで完結してしまう心地よさを知ってしまった。
それでも、そんなものはまやかしだ。
人は世界と繋がらないと生きていけないのに、不遜にもそれを拒否したいと思ってしまうのは誤りではなくても驕りではあると思う。
ぎゅっと握った互いの手のひら。そこから伝わる熱の、感情の確かさに唇を綻ばせ、快斗は殊更に明るい声色で歌うように告げる。
「ケーキは新一の家の冷蔵庫に突っ込んであるから、チキン買ってシャンパン買って帰ろうか〜?」
「…何時の間にそんなもん仕込んでやがったテメエ…」
己の家の冷蔵庫だというのに、明らかに不審な中身に全く気付かなかった名探偵は呆れたように呟いて、けれども繋いだ手を離す事もなく駅前へと続く道を歩く。
周囲が自分たちの関係を誰何して少しざわめいていることも、見目良い少年二人に対する好奇心も露な視線も、何もかもがどうでも良かった。ただ二人が繋がってこうしていること、それだけが大切で重要なこと。
「来年も、こうしてられたらいいね〜」
「バーロ、来年も再来年も…ずっと先まで予約済みだろ?」
たった一人の為に生きることは、とても簡単だった。
けれど、たった一人の人を悲しませないために生きるには、それ以外の何もかもを大切にしなくてはいけないなんて、なんて皮肉な現実だろう。
最初、互いに偽りを纏って探偵と怪盗で始めた関係は、これから先どんな風に変わっていくんだろう。それでも、きっと互いが居ないことより、不幸なことなんてないはずだから。
家路を辿り、駅へと歩く道すがら、なんでもない事のように互いの顔を見て告げる言葉はたったひとつ。
「新一、大好きだよ」
「俺も好きだよ、快斗」
好き、という言葉は躊躇わない。
痛みを覚えた過去も、残る声を悲しんだ過去も遠くはないから、尚更に。
君が僕が、望む未来へと。僕らは惑いながら先へと進む。
たったひとりの、誰より大好きな人の為に。
2008.06.11.
H O M E *