01.additionすなわちentropy
「そういえば、今日は新一事件だっけ?」
アイロン片手に手際よくシャツを広げながら、快斗はシチューを煮込む哀の背中に問いかける。
家主が居ない理由をここで訪ねる辺りこの怪盗もどうかしているが、まだしも許容範囲内だと己に言い聞かせながら哀はおたまをことりと置いて振り返る。
「ええ。朝早くからパトカーが工藤君の家の前に止まってたから、きっとまた一課のお手伝いでしょうね」
「現役高校生に助けられる警察ってのもなんだかなあ」
「…警察を翻弄している現役高校生怪盗が言う台詞じゃないわ、黒羽君」
むむ、と首を捻る快斗に、哀ははあ、と溜息を落とす事で合いの手を入れる。
とはいえ、このIQ400を誇る月下の怪盗紳士相手に対等に渡り合うのは至難の業だ。元より回る頭に、常人をはるかに上回る運動能力。緻密な知略に抜群の行動力。自身の能力と判断を過信することの無い柔軟な思考。どれを取っても一人の人間に与えられるには少々過ぎたものに思える。
哀とて、凡人に比べれば相応に能力的には優れたものがあると自負してはいるが、それでもこの怪盗に敵うとは到底思えない。単に今、二人は敵対してはおらずあの探偵の存在がある限り永久に味方だろうというだけで。
「まあねまあねー、新一君以外に負けるつもりはありませんから快斗君。
…でも、別の意味でも新一には勝てないと思う…俺」
「勝っちゃ駄目なのよ、勝ったらもうその時点で貴方も生活不適合者の烙印押されるわよ…」
すばらしい手際の良さでシャツにアイロンをかけ終えた快斗は、更に一週間ぶりに洗濯したシーツをぱさりと広げる。何せあの探偵が自分でベッドのシーツを変えるなどという事をするわけがない。勿論布団も干さない。それでも異様に綺麗だったベッドに、二人が溜息を落としたのもつい先ほどの事。
とても人間が一週間使ったとは思えないほど綺麗なそれに、もはや哀のみならず快斗も『…起きたら綺麗にメイキングしなおしてるんだろーなー…何でその労力を(以下略)』としか考えが巡らなかった。本当に、どうも頭の使い方のみならず生活の仕方も間違っている気がする。
何でこんな間違いまくった工藤新一が今まで一人暮らしをしていて誰にも咎められなかったのか。考えてはいけないような気もするが、もはや考えないではいられない。
ハウスクリーニングも入れてはいるらしいが(というかこんなだだっ広い大邸宅、一人で掃除するにも限度と言うものがあるだろう)自身の生活中枢となる区域には立ち入れようとはしなかったらしいし。賄い関連は雇っていなかったらしいし。
「…哀ちゃん、確か隣の博士もあんまり家事得意じゃなかったよねえ」
「ええ。下手と言うほどではないけれど、他人の面倒を見られるほどでもないわ」
「…考えちゃ、駄目なのかなあ…?」
「…そうかも知れない、わね…」
ちん、とハーブチキンをローストしていたオーブンが軽快な音を立てて自身の仕事の終了を告げる。快斗の手の中のシーツも、しわひとつない綺麗な白さをアピールしつつコンパクトに折り畳まれて。
とりあえず工藤邸の家事は一通り終了、と二人は疲れた表情で微笑を交わした。
が。
「ただいまー」
玄関先から、能天気に響く彼の人の声。
科学者と怪盗は、二人共に聞き覚えがありすぎるこの家の主の帰宅の挨拶に思わず顔を見合わせる。
夕食の用意も洗濯物の片付けも、一応してみた簡単な掃除もひと段落した現在、女子小学生の科学者と男子高校生の怪盗は二人で午後のティータイムとしゃれ込んでいた。
家主を待とうかとも考えないでもなかったが、こうして働いた二人が働いた分だけ寛いで何が悪い、この程度の楽しみがなくてどうしてこんな疲れる家に出入りせねばならんのだ。
必死で自分たちの中の現状にツッコミの裏拳を入れようとする理性を黙らせ、科学者こだわりのコーヒーと怪盗こだわりのガトーショコラを目の前に。
ようやく手に入れたこの平穏。
しかしながら、この異次元空間工藤邸の主は帰宅してしまったわけで。
「…哀ちゃん」
「わかってるわ」
今日と言う今日こそは、と二人は真剣な眼差しで心を交わし合いこくり、と頷く。
あの、どうにも常識と思考回路がぶっ飛んでいる探偵に今日こそ常識的な日常生活というものを教え込んでやらねば!
ぱたぱたと聞こえるスリッパの気の抜ける足音(ちなみに工藤新一愛用はペンギンのアニマルスリッパである。これは快斗がヒヨコ、哀がネコ、阿笠博士がクマのお揃いでもあったりする)にごくり、と息を飲み込む。
ぺたぺたと鳴る足音がリビングの前で一瞬止まり、次いで勢い良く扉を開けながら、レアな満面の笑みを浮かべた工藤新一は真剣に今後の会話を考えていた二人に向けて手の中のそれを掲げながらにこやかにこうのたまった。
「快斗ー、灰原、コレ貰った〜。なあ、食わねえ食わねえ?」
語尾に音符がついていてもおかしくないテンションで、呆気に取られる二人の前に希代の名探偵が掲げたのは。
この季節には珍しい、というかほとんどねえんじゃねえの?という物体。
緑色と黒の縞模様が眩しい、綺麗な真円を描く大玉のスイカだった。
「…スイカ?」
「おう♪うまそーだろ?」
いかんいかん、正気に返れ黒羽快斗、と必死で己を叱咤して、確認の意味も込めて問いかけた言葉に返るのは、非常に楽しそうな新一の肯定。
いや問題はうまそーとかそういうことでなく。
「…なんでスイカ?」
「依頼人のおっさんの好物なんだって」
論点が違う。
多分、多分だが今回の依頼人の好物ということはひょっとしなくてもお茶菓子の代わりにでも出されたのだろう。
だが、問題はそんなところにはやはりない。聞かない方がきっと自分の為にはいいのだろうが、聞かずにはいられない己を呪いつつ哀は斜め下方向に視線を泳がせながら呟いた。
「…どうしてそれを貴方が持って帰ってきてるのかしら?」
予想は出来る。
おそらくだが、この春が近いとはいえ十二分に寒い時期にスイカ、という組み合わせに多少外出時に被っている巨大なネコが剥がれ、この見た目だけはとてもよろしい探偵はちょっと可愛い感じに喜んでみたに違いない。
そして、その場合対象人物の取る行動など二人には骨身に染みている。
「うん。スイカだー、ってちょっと感激してたらおっさんが『よければ一玉持ってけ』ってくれてさ。太っ腹だよなーこの時期のスイカなんてけっこーするのに。
そういや事件の最中もでんっと構えて動揺ひとつしない豪気なおっさんだったなー」
いいよなースイカ。このまるっとしたフォルムと中身の赤さと、黒いタネのばらつき具合のコントラストは愛だよなー、などと到底常人には考え付かない芸術の境地に到達している高校生探偵工藤新一。
ぎぎぎ、と快斗は油の切れたブリキのおもちゃのような動きで向かいの哀へと向き直る。
すると同様の仕草でこちらへと向き直った哀と、がちりと視線は噛み合った。それだけで…わかってしまった。
多分、いやもう確定的に。
この名探偵と呼ばれるイキモノを常識人にするなどとは、無理にも程があろう事を。
非常識な両親に育てられ、非常識な才能を有し、非常識なまま成長してしまったこの探偵に今更常識を教えようなどと。
そんなクソ面倒くさいこと正直したくない。
己の心の平穏の為に一体何が必要なのか、その良すぎる頭で即座に理解してしまった科学者と怪盗は。
二人は、微妙に視線をスイカを抱えてうれしそうに笑う探偵からずらして。
もう御馴染みになりそうな重苦しい溜息を揃って床に落とし、そろそろ冷えかけたコーヒーを口に含んだ。
何処か苦味が強い気がしたのは気のせい…だと必死で己に言い聞かせながら。
つづく。
2005.03.19.
H O M E *