27.星



 寒い寒い冬の夜、空を見上げたのはほんの気まぐれ。
 カシミヤのマフラーに顎まで埋めていた視線を、どうして上げる気になったのかはわからない。かつての自分ならば理路整然と其処に至るまでの動機と衝動を解き明かそうとしただろうが、生憎と今の自分は感情で適当に行動する、ファジイで気侭な人生の方を気に入っていた。
「…あ」
 きんと澄んだ冬の夜に、あまりに鮮やかな星空が煌く。
 東都と同じように都会の只中のオフィス街は決して空気が綺麗とは言い難いからいつでも空はぼやけているのに、この夜ばかりは綺麗に澄んで、かすかな星の光までも人の矮小な視覚に届けてくれている。
 星座の名前まで諳んじることが出来るほどには知識を詰め込んではいるが、そんな事でこの些細な天体観測に意味を用いる事は躊躇われ、ダッフルコートのポケットにかけていた黒縁眼鏡を放り込んで天を仰ぐ。
 月は三日月。
 チェシャ猫の笑いにも例えられる触れたら切れそうなその光は、記憶の中のひとつを呼び覚ます。
 月下に在って神出鬼没・確保不能を謳われたかの大怪盗の白い姿。
 それは、もう今は何処にもいない『日本警察の救世主』、『名探偵』と同じく何処にもいない存在ではあるけれど。
「…シン」
「あ、カイ」
 柔らかい声が掛けられ、声のする方へと振り向けばモッズコートに身を包んだ青年が薄く笑って道路越しに手招きしている。既に車通りの少ない路地を走って渡り、その腕の中にぽすりと飛び込んでいった。
「ただいま」
「ん、おかえり」
 迎えに来た、今の自分にとって唯一の人の体温に唇が綻ぶ。コート越しに腰を抱き寄せる腕の感触に満足しながら、何処か悪戯っぽく空を指し示して囁いた。
「見ろよ。…今夜は星が綺麗だ」
「ん…?ああ、それで上見て歩いてたのか」
 促されて空を見上げ、それはいいけど転ぶなよ、と苦笑交じりに手を引く相手にわかってるよ、とむくれて見せて。
 促されて座った車の助手席のシートは僅かに暖かく、この気の利く恋人が健在である事を知らしめる。
「…何時から?」
「来たのはほんの数分前」
 わざと主語を省いて問うても、打てば響くように返る返事にももう慣れた。むしろ彼との会話に慣れすぎて、他人と意思の疎通を図るのに苦労するようになるとは思ってもみなかった弊害だったわけだが。
 エンジンに火を入れ、サイドブレーキに手をかけた青年のそれに己の左手を重ね、先ほどは言えなかった言葉を紡ぐ。
「ただいま…快斗」
「おかえり、新一」
 何せ二人共に相応に追われる身の有名人だったりするもので、本来の名前ひとつ軽々しく呼べやしない。それでもその捨ててきたはずの名前を呼ぶのは、むしろ確認にも似ている。
 この相手は己のものだと、そう取り決めあった事実を忘れないように。
 出会った名前を、刻み込むように。
 見惚れるような滑らかな動きで、違和感を感じさせずに発車させる見事なテクニックに感心しつつ、ぽすりとシートに身体を預けて目を閉じる。

 綺麗な星。綺麗な月。綺麗な夜空。
 けれどその何もかもが心の奥底に留まることはなく、このとても狭い心の中に居続けるのはたった一人。
 その事実に例えようもない幸福感を覚え、とろりとした睡魔に身を任せて。

 いつか定義したカタチそのままに持続し続ける『コイゴコロ』は、今もまだ『工藤新一』の中に留まっている。




2005.05.05.

H O M E *