24.月の光


「…痛くない」
 自分に言い聞かせるように、白い衣装を纏う月下の奇術師はぽつりと呟いた。
 ざっくりと服の生地を、そしてその下の皮膚と肉をたやすく割いた敵意の篭った刃の傷は、残酷すぎる現実のように皮膚などではなく心にこそ深く深く刻まれた。
「こんな傷は…痛くない」
 一週間前に左上腕部を切り裂いたナイフのそれは、既にその場に居合わせた探偵の手によって治療が成され、あとは癒えるのを待つだけのもの。とっくに表面上は治癒しかけていて、包帯は外されガーゼだけが当てられていた。
 この傷を負った直後に些か乱暴ではあったが治療を施した探偵の横顔と、白い包帯をじわじわと染め上げる血の赤を思い出して唇を噛む。
 あの時、もう外されてしまった包帯をその手で巻いた巻いた探偵の瞳が泣きそうに潤んでいた事は己の勝手な妄想だったのか、それとも現実だったのか。もはや気の狂いそうな心の痛みを抱えた怪盗には判別はつかない。
 自身を律する事に潔癖過ぎる名探偵は、恐らく自分を責めただろう。勝手に傷を負った愚かな怪盗でもなく、その怪盗を傷つけた無知で無謀な犯人でもなく、無為の手を自覚せざるを得なかった自身を。
 痛みを覚えるとすればその事実、こんな些細な荷物すら抱え込もうとする探偵の心根であり、実際に現実の傷からは守れてもその心までは守れなかった無力に過ぎる怪盗自身だ。
「痛みは…貴方を傷つけるだけなのに」
 やさしい名探偵は、こんな怪盗風情の傷にも心を痛めるから。
 必要に駆られて傷口を暴いても、それはきっと治療の為であって傷つけるためではないから。
 なのに痛みに眉を顰めるその表情こそが、彼を深く深く傷つける。
 癒えない傷を抱えて、言えない言葉を抱えて、背中合わせに立っていた場所を離れたのは自分だったのに、もうその事実を後悔し始めている。
 手のひらの中できらりと光るのは大振りのダイヤモンド。高々炭素の集合体にしか過ぎない硬質の輝きを無感動に月光へとかざした。
「そして…私の探し物もまだ闇の中」
 ぎゅっと握り締めた宝石の冷たさに歯噛みする。どこまで続くか分からない闇の中、それでも立っていられたのはきっと。
 ささくれ立つ気分のままに無造作にポケットに落とした宝石。その弾みに指先に触れた感触にはっとして、怪盗はそれをするすると手のひらの上に引き出した。
 白い、ところどころが赤黒く染まった細長い布切れ。包帯と称されるそれはあの日探偵の手で怪盗へと巻かれたもの。ひょっとしたら、今となっては頼りないけれどただひとつの繋がり。
 ざあ、と流れた風がそれを攫い、ふうわりと空に包帯の端が舞う。白がひらひらと舞うその光景に、怪盗はくすりと笑ってその端にゆっくりと口付けた。

 あの日と同じ月を背負って、あの日とは違った目的で。
 怪盗は、とても勝率の低い賭けに出る為にビルのフェンスを蹴って夜の空へと飛び立っていった。

 其処に零れた、一切の泣き言に封をしたまま。




2004.12.25.

H O M E *