22.静かな記憶
「…貴方の痛みを、私に下さい」
唐突に告げられたその言葉に、探偵は思わず胡乱な眼差しで夜を見上げた。
どこか温い大気を纏い、薄ぼやけた月を引っ掛けた夜はどこもかしこも曖昧で、己の不安定を知るが故に探偵は小さく舌打ちをする。
声の主を知っている。
この声はとても懐かしく、探偵が欲してやまない声。
夜の大気に朗々と響く声色はかつての己が知るそれとは異なり、どこか欠けたように冷ややかだった。
探偵がかつて、何の躊躇いも持たず何の代償も得ずに発していた声。それと全く同じ音で告げられた言葉は、今の探偵にとっては不愉快極まりない言葉だ。
痛みを寄越せ、だと?
「何の冗談だ、怪盗KID」
「冗談などと」
探偵から発せられる声は、彼が渇望するものとは程遠く高く甘い。どれほど知的に静かに理性的に語ったとしても舌っ足らずに甘くなってしまうこの声も、小さすぎる手のひらも細く非力な手足も何もかも、探偵は疎んでやまない。
痛みと言うならこの現状すべてだ。渇望するのは現在あるべき正しい姿。
探偵が求めてやまない全てをそこに備えて、まるで王者に礼を尽くす臣下のように腰を折り、月夜を背負うように従えた怪盗が佇んでいた。
何を考えているのか、何が目的なのか。そもそも何故盗んでは返すのか。
誰もこの怪盗が怪盗である理由を知らず、ある者は熱狂的に英雄に祭り上げ、ある者は犯罪者として執拗に捕らえようとする。
けれど、探偵は。探偵だけは少なくとも知っている。
この怪盗が、何者にも譲れぬ確かな願いを以って夜を駆けている事を。
そしてその願い以外のところでは、どうしようもなくお人よしである事を。
「…やらねーよ」
「名探偵?」
誰にもやらない。特にオマエなんかには、決して。
小さな、柔らかい未熟な手のひらをきつく拳に握り、探偵は度の入っていない眼鏡のレンズ越しに怪盗と夜空を見上げる。
矮小な自分、かつて持っていた何もかもを己の不注意で失い、今度は失ったが故に得てしまったものを付け狙われる因業を押し付けられた。
愚かだったのは自分だ。何もかもを、招いてしまったのは自分でしかない。
「テメーだけじゃねえ、俺は誰にも俺の痛みをくれてやったりしない。俺は俺であるが故に痛みを覚えるから、その痛みは俺じゃない限り意味が無い」
オマエが、そうであるように。
飲み込んだ言葉は多分真実だ。
自分で無いから見渡せる、故に見つけられる真実を得ているのは多分お互い様なのだろう。
お人好しな怪盗。
優しすぎる探偵。
どちらも余計なものばかり抱えて、苦しいだろうにと互いを思う。
「…俺の痛みが欲しいなら、オメーのそれを俺に寄越せ」
「…それは」
「できねーだろう。そういう事だ」
小学生の形には不似合いな笑みを浮かべ、探偵は足元の小石を蹴った。からからと転がるそれは怪盗のエナメルの光沢をはじく爪先まで届き、それをただ見ていた怪盗は口元を歪ませシルクハットのつばに指を伸ばす。
「…では、私に約束を下さいますか?名探偵」
「約束?」
とん、と小さく微かな地面を蹴る音。目の前にふわり、と降り立つ怪盗はファントムの名そのままに重さを感じさせることなく、ただ温い風に煽られたマントだけがゆっくりと探偵と怪盗とを包み込む。
時間が止まったような錯覚の中、怪盗は静かに跪く。小さな探偵と同じ高さに目線を合わせ、モノクルとシルクハットに遮られた怪盗の唇がかすかに震えた。
「…名前を、下さい」
「名前?」
「貴方の名前を、いつかの私に」
告げる怪盗の夜色の眼差しは、探偵が思うよりもずっと痛みを湛えて静かだった。
ああ、だからか、と理解した瞬間に、探偵はそっと手を伸ばして怪盗の頬を撫でる。冷たい、けれども滑らかで柔らかいそれに、困ったような笑みを浮かべたのはどちらが早かったか。
「…いつかの俺に、オマエの名前を?」
「ええ」
名を交わすには今の自分たちでは偽りだらけだ。
想いを交わすにも、本当の事が余りに少なすぎる。失って得て、けれどもそれは求めるべきものじゃない。
「貴方の痛みを頂けないのなら、いつかの貴方の名前を下さい」
「…テメーが、寄越すんならな」
痛みなんてくれてやらない。それは俺が俺であるために必要なものだからだ。
けれど、それごと何もかもを欲しいと怪盗は囁く。
今の痛みはやらない。
だけどそれが訪れるだろう「いつか」なら…
探偵はじっと己を見つめる怪盗の眼差しを見据えながら、唇をわななかせて吐息を漏らした。
告げるべき答えが確かにもう定まっている事実に、覚えた苦笑を誤魔化すように。
月が煌々と照る夜の、それは約束にも足りない逢瀬。
けれども二人の中に確かに刻み込まれた、静かな…けれど大切な、記憶。
2006.04.20.
H O M E *