21.酸素
ぼんやりと、心地よく眠気と共存しながら新一は目の前にある端正な顔を見つめた。
相手もまた穏やかな眠りの中にあるのか、その瞼は閉じられて綺麗な藍の瞳は見ることは出来なかったが、代わりに存外に長い睫と整ったパーツ、薄く開かれた唇から零れる吐息を観察する事が許されている。
たまの休日、毛足の長いラグの上で数個のクッションを広げて転がったままじゃれあうように転寝するのも、ここ数年で付いてしまった癖のようなもの。
ぺったりとくっついて自堕落に過ごす時間は、忙しく働いている日常の合間に必要な、休息兼充電作業。
伝わる体温とゆるやかな吐息。かつて張り詰めて刃を纏って、誰にも気を許さずに独り立っていた自分たちは、互いで互いを支える事でようやく呼吸ができる安息を手に入れた。
勝手に一人歩きしてゆく己の虚像。
大衆の中で変質してゆく己という存在が、酷く空っぽなもののように思えた。足掻く事さえ出来ずに、ただただ彼らが満足する虚像を提供し続ける事しか出来なくて。
追い詰められた自分は生と死の境界線でどうしようもない恋愛へと逃げ出した。
そう、逃げると称するならあの頃こそがそうだった。
殆どの人間が今をこそ逃げていると定義するのだろうけれど、新一にとっての現在は当然の帰結だ。ただ、生きるために手を取って、生きられる場所へと己を移しただけ。
告げる事もない恋だけを心の中に置いて、それでも耐え切れないから次々と大切なものを手放した。たったひとつを見つけてしまえば、それ以外に割くものが惜しいと思ってしまうさもしい自分が嫌だった。
そんな新一とは対照的に、快斗は手の中に留めておきたいものをすべて失くして空っぽになっていた。
理由と虚像だけを内に、無血の信念すら揺らぐその衝撃を新一は想像することしか出来ないけれど、かつて向けられた殺意も憎悪も確かに存在した一端だ。
今、惜しみなく愛と恋を囁く恋人はあの時間の延長線上にある。
痛みすら甘かった恋は薄れずに此処にあるから、新一も、そして快斗も忘れる事はないだろう。
「…ぃ、と」
唇の動きだけで、囁くように告げる名前。
誰より何より愛している、たった一人の名前。その為だけに全てを捨てて惜しくないから、躊躇いなく嘘も告げるし偽りも纏うだろう。
時折ちりちりと辺りを焦がすかつての自分たちの業の燻火は絶える事無く、表立った公的機関と新一の父親の捜索の他にも、時折裏世界の追求も混じっている。
火薬と硝煙の臭いは縁遠くなる事無く、今もこうして謳歌する日常の裏側にはサイドボードに丁寧に整備されて仕舞われたグレックとシグ・ザウエルの存在がある。
相も変らぬ事件遭遇体質と、消えない火種、それまで積み重ねてしまった有象無象の所為で日の当たる場所を歩いているとは言い難い自分たちだけれど、それでも二人でようやくここまで歩いてきた。
無論、平坦な道じゃなかった。これからもそうだろう。
ベッドの上で死ねるような自分たちではないけれど、それでも傍で死ねるならそれでもいいと思う。
吐息が近い。自分の傍でならこれほど安らいで眠ってくれる存在が愛おしい。
枕にしたままの快斗の腕の温もりに、くすりと笑みを零す。ゆっくりと過ぎる時間はとても甘くて、暖かい。くすくすと止まらない泡がはじけるような笑みを零していると、不意に新一の腰をゆるく抱いていた快斗の腕が持ち上がり、頬を撫でた。
「…ん、いち?」
ふるり、と瞼が震えてゆっくりと持ち上がる。露になる夜の色の瞳を待ち遠しく思っていた自分と、逆に寝顔を観察する機会を逸したのを惜しいと思う自分の葛藤を綺麗に押し殺し、ふんわりと笑って頬を撫でる手を取った。
「ん…オハヨ」
ふあ、と欠伸を漏らす快斗の額に軽く口付けて、ぎゅっとその首に腕を回す。耳元におはよう、と寝起きの少し低い声で囁くトーンすら心地よくて、くすぐったそうに新一は身を捩った。
「なんだ…ずっと起きてたのか?」
「ん、勿体無くて」
うとうとしながら寝顔見てた、と笑う新一の唇の端に触れるだけのキスを落として、快斗は首筋に新一を纏わり付かせたまま寝起きとは思えぬ機敏な動作で身体を起こした。
すとん、とその膝に抱え込まれるような形になった新一は、そのまま胸元に頬を擦り付けるようにして喉を鳴らす。
「猫みてえ…」
くすくす笑う声が耳元で響く。どっちが、と相変わらずしなやかで綺麗な動きをする男に毒づいて、少しだけ抱きついた腕の力を緩め、僅かに目を細める。
何よりも大切な、失えないたったひとつの。
見つけてしまった事を怨んだ事もあったし、がんじがらめの己を憎んだ事もあった。互いが互いに抱いていた、今も抱いている感情は決して甘ったるいものだけではなくて、だからこそ代償行為のように告げる言葉も所作も何もかもが恋情を含んで甘く優しい。
「…日が落ちる前に、買い物行かなきゃな」
夕食の材料と、切らしてしまった歯磨き粉と、それから。
日常そのままの上げ連ねられる買い物リストに、新一はくすくすと笑う。確かに共に暮らしているのだと、実感させてくれるそういった些細な事柄こそが二人が何より求めた全て。
「ワインも買うかな…でも歩きじゃ重たいか」
「ミセス・マリーの店だろ?あれくらいの距離なら平気だろ」
俺も持つんだから、と呟くと、そうだね、と応える優しい声。
二人で過ごす日々、ほんの些細なシアワセの一欠けら。
今、確かに生きている自分たち。
此処に居なければもう、呼吸の仕方も忘れてしまった。
たったひとりの大切な人の傍で、昨日も今日も明日も、…その先もずっと、生きていく。
あなたと生きていく未来は、そんな小さな事の延長線上。空気のように無くてはならない、けれど普段は気付かない事。
二人顔を見合わせて、触れて、笑う。
そんな日々の、幸せ。
2006.01.02.
H O M E *