20.独り妄想



「…あ、」
 手の中の林檎の皮を器用に剥きながら、何気なく向けた壁のカレンダーに踊る赤丸印に快斗は思わず声を上げた。
 春の雨が降りしきる灰色の街から二人手に手を取って駆け出して、もう一年近くが経過していたのだと知らしめる実に原始的な時間の測定器。
 日が昇り日が沈む、そのサイクルをカウントする壁掛けの紙片に唇を綻ばせ、剥き終わった林檎を八つに割って薄くスライスすると、コンロにかけた小鍋の中に放り込む。レモン汁と砂糖と蜂蜜を大雑把に鍋に放り込み、火を弱火に設定して濡れた手を拭く。
 ナイフに僅かに付着した林檎の欠片を口中に放り込むと、日本で慣れた味とはまた違った風味の甘みと酸味が口の中に広がった。
「…ふむ」
 砂糖の量、多かったかなと首を傾げないでもなかったが、快斗的にはどれだけ甘かろうと美味しく仕上げる自信があったのでさくっと気分を切り替えて、冷蔵庫で寝かせてあったパイ生地を取り出す。
 通常の生地よりも大目に折ったそれを手際よく切り分け引き伸ばして、あっという間に形を整える。ふつふつと煮えた林檎のペーストの荒熱を取ってパイ生地に折り込むと、卵黄を塗ってオーブンの中へ。
 美味しく焼き上がりますように、と小さく呟いて、ぱたりとオーブンの扉を閉じればあとはただただ待つだけだ。
 お茶にしよう、と気分を切り替えて、ぐるりとキッチンを見渡した。
 年代もののアパートの、年代もののキッチン。広くも使いやすくもないけれど、居心地は不思議と悪くなかった。使い込まれた事が容易にわかる備え付けのコンロもオーブンも癖が強くて最初は難儀したものだったが、今となっては友人のように気心知れた快斗の料理の相棒でもある。冷蔵庫だけは流石にむらがあり過ぎて買い換えざるを得なかったが、それでもこの部屋とこの街の居心地は悪くなかった。
 快斗が服の中に奇術の種を仕込む事をしなくなって、新一が些細な事に理論立てた推考を進める事をしなくなって、もう一年。
 曖昧で区切りのない関係は、互いに互いを預ける事で成り立っている。好きの言葉も愛してるの言葉も、魂の根幹を上滑りするだけかも知れなくても、未来永劫互いには互いしかないのだという絶対的な安堵が二人を救う。
 身体中を雁字搦めにする柵ごと、過去の全てを捨てても人間は生きていけるものなのだと、快斗は思いを馳せる。黒羽快斗という人格を形成する重要な要素だったはずの『マジシャン』、更には何もかも失ってしまう切欠でもあった『怪盗』を捨ててしまっても、快斗は快斗として此処に在る。
 此処に居るのはもう『黒羽快斗』ですらなくても、確かに自分は自分のままだ。
 新しい街、新しい生活。周りを取り巻く環境は激変してなお優しくて、再び築き上げようとしている人生は、決して悪くはなかった。
 カレンダーに印された赤丸は、5月4日。『工藤新一』が生まれた日。

 君に会う為に生まれてきただなんて、陳腐な台詞を言うつもりは毛頭ないんだけど、それでも。
 君に会ったから僕は今以て生きているのだと、それだけは確かな真実だ。

 インスタントのココアを口に含み、柔らかな甘さにふと息を付く。
 白と黒とを切り分ける、鮮烈過ぎた過去の対峙の数々は決して消え去らないとしても。それでも今此処に二人で居られる事実をこそ快斗は愛しいと思うのだ。
 彼に為した過去が許されるとは今でも思ってはいないけれど、それでももう二人共に互いしかないのなら、常に償い続ける未来も悪くない。
 クラシカルな音を鳴らして、オーブンがパイの焼き上がりを知らせてくれる。ぱたぱたと駆け寄ってそっと開けたオーブンの中で、バターと林檎の匂いを漂わせたキツネ色の丸いパイが佇んでいた。
 会心の出来栄えにふと口元を緩め、ミトンを嵌めた両手でそっとパイ皿を取り出す。荒熱を取る為にテーブルの上に置くと、どうやら同居人が帰宅したらしく、鍵を開ける音が快斗のすこぶる良い耳に届く。
 次いで、ただいまと帰宅を告げる声に唇を綻ばせ、最愛の彼を向かえるべくエプロンを外してキッチンのカウンターに放り投げる。その最終的な着地点を見ぬままに、キッチンのドアを開けたところでぽすりと快斗の腕の中に飛び込んでくる愛しい気配。
「ただいま、快斗」
「ん、おかえり新一」
 かつて慣れ親しんだ夜の匂いを纏わり付かせ、宵闇の中帰宅する恋人。
 それをこうして迎える自分は、あの頃には想像もしなかった。ただただ『探偵』と『怪盗』として寒々しい夜の中対峙するしかなかったあの頃には、憎しみと痛みと切なさと、食い合う事への諦めだけだった。
 こんな幸福は、妄想さえしたことの無かったのに。
「…あいしてるよ」
 抱きしめた身体が温かい事に安堵する己を許容できるなら、この時間が夢でも妄想でも現実でも、確かに悪くなかった。


 出会えた君の生まれた日に、花を言葉を愛を贈ろう。
 それはすべて、此処にある僕の幸福のほんのひとかけら。




2005.05.05.

H O M E *